2020年

5月

06日

◆信仰の先達の声に聴く◆

1.《罪: 欲望か、真理か》

“罪”とは、私たちの人生が、

”真理”によってではなく、“欲望”によって支配されているということである。

~D.M. ロイドジョーンズ~

Sin means that our lives are governed by desires and not by truth. D.M. Lloyd-Jones

2.《罪: 見過ごされる罪の災い》

なすままに許される罪ほど、

心の目をかくも暗くさせ、

良心をかくも鈍らせるものはない。

~J.C. ライル~

Nothing darkens the eyes of the mind so much, and deadens the conscience so surely, as an allowed sin. – J.C. Ryle

3.《選び: すでに主に見いだされてあり》~スポルジョン①

キリストを探し求める人々は、

既にこのお方に探し求められているのだ。

【解説】これは、古くはカルヴァン、そしてスポルジョンもまた強調した“神の選び”の教理です。救いは、私たちの“信仰”によりますが、それを神様から見れば、ご自身の主権的な恵みの“選び”に基づきます。キリストは天地の創られる前から私たちを探し求めて救いにお選びになり、その私たちの心に主を求める思いをお与えになるのです。値なき者に対する神の選びと召しは、けだし神秘の奥義です。

(エペソ 1:4,5) 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

They who seek Christ are already being sought by Him. – Charles Spurgeon

4.《救い: 神のあわれみは一切えこひいきなし》

もし神が、それに値する者たちにだけ、あわれみを示されるなら、

あわれみを示す人は、一人もいないであろう。

~トマス・ワトソン~

If God should show mercy to such only as are worthy, He would show none at all – Thomas Watson

5.《証し: 福音の証人として生きる》

あなたは、罪びとたちに、

「あなたは神様から和解していただけるのです」と語るために、

この世に生かされているのです。

~ジョン・マッカーサー~

You live in this world to tell sinners, “You can be reconciled to God. “ – John MacArthur

6.《信仰: 神は“常設”の避けどころ》

私たちに、みもとに行ける神がおられることは、

試みに悩む日の大いなる慰めである。

~マシュー・ヘンリー~

It is a great comfort in a day of trouble that we have a God to go to. -Matthew Henry

7.《祈り: “主よ”と呼びまつれ》~スポルジョン②

祈りを聴かれる方に心を強められて、かく祈れ。

「主よ、我が心を清めたまえ。

主よ、我が心を新たにしたまえ。

主よ、我が心に悔い改めを起こさせたまえ。」と――。

Take your heart in prayer to Him who understands it and say, “Lord, cleanse it, Lord, renew it, Lord, work repentance in it.” -Charles Spurgeon

8.《聖化: み顔の輝き》

キリストの内に、

我らのごとき貧しく、ふさわしからざる罪びとの前に、

恵みと優しさに満ちて、

神のみ顔は輝きいでたり。

~ジョン・カルヴァン~

In Christ, God’s face shines out, full of grace and gentleness to us poor, unworthy sinners. – John Calvin

【解説】ここにご紹介した7人は、16~20世紀に生きた偉大な信仰の先達です。彼らの言葉の中に、私たちがしっかりと受け取り、継承してゆくべきキリスト教信仰のコア(真髄)が込められています。けれど私は、情報量が加速度的に増え、生活と価値観が多様化している現代の中で、これらの真髄がかなり甘くなっているのではないかと危惧します。とりわけ、“罪”に対する許容度が、時代と共に大きくなっているのではないでしょうか? 神のみ言葉に照らし合わせて、悪いものは悪いと断ずる厳しさと、多様な生き方の中でキリストの聖さを求める清廉さを失ってはならないと、自らに言い聞かせています。

 

【FBギャラリー】No.138 マイケル・デュダッシュ「祈りの平安」

0 コメント

2019年

5月

01日

◆4人の先達が語る信仰生活の勘どころ◆

1. 《砕かれて初めて分かること》

モーセは、“自分はひとかどの者だ”と考えながら40年を過ごした。 ”いや、自分は全く取るに足りない“と考えながら次の40年を過ごした。 そして次の40年でようやく、”神は、取るに足りない者を用いて事をなさる“と知ったのだ。 ~D.L. ムーディー~

【解説】 これは信仰者の一生のプロセスです。モーセはその”型“、見本ですね。彼は、この真理を悟るのに120年かかりましたが、私たちはそれでは長すぎます。そのために神様は、私たちが無駄な失敗をしないように、聖書の中に”見本“の人物を残したのです。「神様は、無にも等しいこの私を通して、ご自身の大いなるみ業をなさる」――このことを、彼からしかと学びたいものです。 Moses spent forty years thinking he was somebody; forty years learning he was nobody; and forty years discovering what God can do with a nobody. – D.L. Moody

 

2. 《あなたの教会は、大きいのか、聖いのか?》

新約聖書の使徒書簡の大いなる関心は、教会の“大きさ”ではない。それは教会の“聖さ”なのだ。 ~マーティン・ロイドジョーンズ(1899-1981)~ (エペソ5:23、26,27) 「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

【解説】 あなたは、ご自分の教会に何を求めていますか? 集う人の多さですか? 経済的な豊かさですか? 神様が一番求めておられるのは、“聖さ”です。このエペソ人の手紙の中では、ご存じのように夫と妻の深い関わりを、キリストと教会の関わりになぞらえていますね。すなわち、教会の聖さは、ひっきょう、キリストの体である私たち一人一人の聖さから生まれるのです。聖さを阻むものは、私たちの内になおもしつこく残る“肉”です。一人一人が、神様のみ前に砕かれて、み霊の実を結ばなければならないのです(ガラテヤ5:16-25をぜひ開いてお読みください)。 The great concern of the New Testament epistles is not about the size of the church, it is about the purity of the church.

– Martyn Lloyd-Jones (1899-1981)

 

3. 《正義は神の手に》

私は、正義が神のみ手にあることを感謝する。 ~A.W. トーザー~

【解説】 この世の“正義”はしばしば相対的です。だから時として冤罪が起こり、無実の人が一生を台無しにされてしまう悲劇が起こるのです。しかし神様の正義は絶対的です。それは神の絶対的なご性質(神学用語では“属性”と言います)である“義”に基づくからです。この究極的な“神の正義”を信じられるからこそ、人は、どのような不条理の中でも、神様に委ねて前に進んでいけるのです。この世にこの絶対的な正義が存在しないとしたら、私たちは絶望して生きていくことが嫌になります。それほどに、人間社会は悪と不正で満ちあふれているのです。その現実に思いを馳せると、トーザーが「感謝する」と言ったことの重みが、ひしひしと伝わってきませんか?

I am thankful that justice is in the hands of God. -A.W. Tozer

 

4. 《“祈りと罪”は“水と油”》

”祈り”と”罪”は、人の心の中で同居することは絶対にできません。 祈りは罪を燃やし尽くしますが、 罪は祈りの炎を消し去るのです。 ~J.C. ライル~ 【解説】 “祈り”の反対語は何だろう? 神に頼らない“自尊心”かな。“罪”の反対語は何だろう? “潔白”かな。…などと私たちは考えますが、ライルは、”祈りと罪”こそ、互いに相容(い)れないもの、まさに“水と油”だと言うのです。一瞬、意表を突いた言い方ですが、これもまた真理です。ズバリ言って、人は、罪を持ったままで祈ることはできないのです。仮に罪に目をつぶって祈ったとしたら、その祈りが神様に聴かれることは絶対にありません。神様の目は節穴ではないのです。ですからもし祈りの中で隠れていた罪を思い出したら(それは聖霊のお働きですが)、まずその罪を言い表して、神様の赦しを請わなければなりません。 この言葉が教えるもうひとつ大切なことは、罪を焼き尽くしてあなたを聖めるのは祈りの力だということ、逆に、罪が最も力を振るうのは、あなたを祈れなくすることだということです。実に祈りは、霊の世界でサタンを打ち砕く神様の力を呼び覚ますものであり、あなたが祈らないことこそ、サタンが何にもまして小躍りして喜ぶことだということです。――これがあなたの信仰生活が実を結ぶかどうかのカギです。どうぞ忘れないでください。

Praying and sinning will never live together in the same heart. Prayer will consume sin, or sin will choke prayer. – J.C. Ryle

0 コメント

2017年

3月

09日

◆あなたが最も霊の高みにある時◆

人は、ひざまずいているときに、
最も深遠で崇高な己であることができます。
顔と顔を合わせて、神のみ前に出ているのですから――。
~マーティン・ロイドジョーンズ~

 

【解説】 このロイドジョーンズの言葉は、私たちに、“祈りの姿勢”を教えると共に、私たちの霊性をいつも高みに保つ奥義をも教えてくれます。それは、“低さの極みを目指して登る道”です。その真逆の道を、あの堕落した天使はたどろうとしました。神の被造物に過ぎないものが、己の知力に思い上がり、神のようになろうとして、真っ逆さまに奈落の底に落ちたのです。そのサタンの誘惑に負けて、神のように賢くなろうとした人間も、生まれつき間違った道を歩む存在となりました。それは、世のあらゆる富と権力と称賛を一身に集めようとする道、一切の栄光を己に帰そうとする、自己絶対化への道です。一国の為政者も、企業・組織のトップも、家族の長も、“肉の力”で頂点を目指す限り、そこには苦い挫折と、自己崩壊が、―“滅びの道”が待ち構えているのです。
私たちは、どんなときにも、み霊によって歩みましょう(ガラテヤ5:6)。それは、いつ、どんな状況の中にあっても、“自分の前に主を置いて”歩み(詩篇16:8)、主のみ前にひざまずいて、日々、祈りのうち主を仰ぐ生き方です。そのときにのみ、私たちの魂は、最も深く、最も高く、主に引き上げられてある身の祝福を、味わい知ることができるのです。


“Man is at his greatest and highest when upon his knees—he comes face to face with God.”

0 コメント

2016年

6月

30日

◆祈りは信仰告白◆

 

“祈り”は、多くの場合に、神に対する私たちの信仰の、至上の表現となる。

 

 

 

~マーティン・ロイドジョーンズ~

 

 

 

Prayer, in many ways, is the supreme expression of our faith in God.

 

-Martyn Lloyd-Jones-

0 コメント

2016年

5月

20日

◆信仰とは◆

 

信仰とは、パニックへの拒否である。

 

 

 

《詳訳》

 

信仰とは、パニック状態(突然の恐怖、おびえ、狼狽)に陥ることを拒む意志の行為です。

 

 

 

~マーティン・ロイドジョーンズ~

 

 

 

Faith is a refusal to panic.

 

-Martyn Lloyd-Jones

0 コメント

2016年

1月

03日

◆霊性の”驚くべき”尺度◆

 

私たちの“霊性”を計る究極的なテストは、神の恵みに対しての私たちの“驚き”の尺度が、どれほどかということである。 

~マーティン・ロイドジョーンズ~ 

 

【解説】 さすがはロイドジョーンズ、目の付け所が違いますね。私も一読して、「なるほど!」とうなりました。“スピリチュアリティー 霊性”という言葉は、昨今のキリスト教界の“流行語”の観を呈しています。そして私たちのイメージはと言えば、ともすると、一日に数時間の霊想書の読書と祈りと黙想の結果培われた、えも言えぬオーラに包まれた高潔なる人物像を想像し、「私など、とてもとても…」と引いてしまいがちですが、この“驚くほど”シンプルにして簡明な霊性の尺度はどうでしょう! 公式ふうに言い直せば、「霊性は、神の恵みに対する驚きの大きさに比例する」ということです。真の霊性は、限りなく深い半面、一日に何回となく、どんなにささやかな取るに足らないことの中にも、神のみ業の周到さ、完全さに驚きと感動の目を瞠(みは)るので、絶えず、一瞬一瞬更新されるほど新しいのです! もう一つ、自分自身に対する”警告”として付け加えますと、ここにおける“驚き”の反対語は“無反応”であり“慣れ”です。これが、私たちの霊性の深化を妨げている、最大の問題であると知りましょう。ついでながら、そこから脱却するために、この霊的不感症に対して大きな効果をもたらす”驚き”の類似語、親類語をも挙げておきます。それは“感謝”です。神のみ業への”驚き”は、どんなときでも“感謝”と直結しているのです。 

 

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。 

主のあわれみは尽きないからだ。 

それは朝ごとに新しい。 (哀歌32224節) 

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇 103:2 

 

The ultimate test of our spirituality is the measure of our amazement at the grace of God.

 

-Martyn Lloyd-Jones

 

0 コメント

2015年

9月

02日

◆今日も天の父の膝元へ◆

私たちは、子どもが父親のもとに行くように、父なる神のご臨在のもとに行くべきです。もちろん私たちは、崇敬と聖なる畏れをもってそうしますが、幼子のような絶対的信頼と、純真さをもって、行くべきなのです。

~マーティン・ロイドジョーンズ~

 

We should go into His presence as a child goes to his father. We do it with reverence and godly fear, of course, but we should go with a childlike confidence and simplicity.

-Martyn Lloyd-Jones-

0 コメント

2015年

8月

03日

◆”祈り”に召されたら◆

“祈り”への“呼び出し”に自らを委ねなさい。それに身も心も明け渡すのです。そうすれば、あなたが関わっている事柄について、あなたが費やした祈りの時間は無駄ではなかっただけではなく、実のところ、大いにあなたを助けたのだということが分かるようになります。すなわち、あなたは、心身が楽になり、読んでいる本の理解力、考え方、説教作成に求めるべきこと、書くこと、全てのことが容易になっていることを体験し、本当に驚くことでしょう。そのような”祈りへの呼び出し”を、何か本来の仕事から気をそらすものと、ゆめゆめ考えてはなりません。どんなときでも、直ちにそれに応えることです。そして、もしそれが頻繁に起こるようになったら、神に感謝なさい。

~マーティン・ロイド=ジョーンズ~

 

(マタイ 6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

Give yourself to it the call to prayer. Yield to it; and you will find not only that you have not been wasting time with respect to the matter with which you are dealing but that actually it has helped you greatly in that respet. You will experience an ease and a facility in understanding what you were reading, in thinking, in ordering matter for a sermon, in writing, in everything which is quite astonishing. Such a call to prayer must never be regarded as a distraction; always respond to it immediately, and thank God if it happens to you frequently.

-Martin Lloyd-Jones

"But seek first the kingdom of God and His righteousness, and all these things shall be added to you" (Mt. 6:33).


0 コメント