2016年

5月

12日

◆罪や誘惑に陥ったら◆

 

もしあなたが、罪や誘惑に陥ったら、あなたが今日できる最も生産的かつ最も解放的なことは、

 

立ち止まり、

 

罪を告白し、

 

神様は誠実に罪を赦してくださることと、

 

あなたの内に始められたことを誠実に成し遂げてくださることを信じることです。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

【解説】 なすべきこと4行のうち、2行目、3行目は、私たちもよく知っています。この一文の新鮮なところは、

 

まず1行目、「立ち止まること」。これは、罪や誘惑に陥ったと気づいたら、①そこから一歩も先に行かない、それ以上絶対に深入りしないということです。

②同時に、その場で振り返り、どこでどのように道を踏み外したか、静まって考えるのです。そして、そこで示された罪を、一つ一つ正直に神様のみ前で(2行目)告白することです。
次に教えられることは4行目、「神様は、私を通してなそうとされたことを成し遂げてくださる」と信じること。私たちがひとたび罪や誘惑に陥ったことに気づくと、決まって襲われるのは、諦め観、さらには絶望感です。「もうダメだ。もう前には進めない。神様は悔い改めたら、犯した罪は赦してくれるかもしれないけど、私が主のためにやろうとしていたことはもう罪に染まってしまった。神様はこんな者に、主の大切な業をお任せになるはずはない。ダメだ。諦めよう…。」 ちょっと待って! それがサタンの手です! あなたがそんな絶望の深みにはまり込んだら、サタンにはしめたもの。そこでこの4行目の信仰が絶対に必要なのです。いいですか、惨めな自分に目を向けさせるのはサタンの最も得意とする武器、そのときにこそ、目を上げて、あなたの弱さも、欠けも全部ご存じの上で、あなたに大切な業を委ねられた神様をまっすぐに見つめるのです。そして、声を出して、サタンにはっきりと聴こえるように、この聖句を読み上げてください。2度読みます。2度目は、「あなた方」を「私」に読み替えて。
(ピリピ1:6) 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
人は気がつけば、罪を犯し、誘惑に陥ってしまう弱い者です。でもそのときには、ここに戻ってください。そして特に2行目、4行目をお忘れにならないように。そのときに、神様は、その罪をも聖めて、さらなる恵みの高嶺へと引き上げてくださいます。祝福をお祈りします。
 
 

If you’re caught in sin or fall into temptation, the most productive, most liberating thing you can do today is stop, confess, and believe that He is faithful to forgive and faithful to finish the work He has started in you.

 

-Joy Knight-

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2016年

4月

29日

◆神様は祈りの中でも”主”です◆

 

私たちが神様のみ言葉を味わう時に、

 

たとえそれがどんなに短くとも、

 

生ける、全てに勝る望みの神が話され、

 

ご自身の“善”が私たちの心を喜ばせるままにしたら、

 

私たちの静思の時は、どんなに変わってくることでしょう。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

How would our time in God’s Word, no matter how short, be different if we allow Him, the living and overcoming hope, to speak and rejoice our hearts with His goodness?

-Joy Knight-

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2016年

4月

26日

◆”必要”をも創られる神◆

 

これは、基本的な真理です: 神様は、私たちの必要を全てご存じなだけでなく、それらを、私たちの内に、このお方に対するさらに深い飢え渇きの“隠喩”として創られたのです。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

【解説】 これは深い洞察ですね。初めてこのことに思い至りました。私たちの外なる人は、全て内なる人の表れです。外に表れた具体的・物質的必要も、実は内なる霊的渇望を指し示すものだったのです。神様は、そのような生きるための必要をさえ私たちに備えられ、その必要を私たちに感じさせ、それをかなえてくださることを通して、あるいは待ち望ませることを通して、究極的に他ならぬ神様ご自身を求めるようにと、招いておられるのです。この事が分かると、私たちは、パウロならずとも、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(ローマ11:33)と感嘆の声を上げます。神様に創られた人間の心は、アウグスティヌスが告白したように、この創り主、父なる神のもとに帰らない限り、決して安きを得ません。したがって、私たちの心の奥深くには、たとえ罪を犯してこのお方のもとを離れても、あるいは科学の力をもって神の領域を犯しつつある現代においても、この創り主を求め、このお方のもとに帰りたいという、潜在的、本能的な飢え渇きがあります。それは、被造物である人間の、それこそ“人間的な”思いによることではなく、神様がその思いをあらかじめインプットして人間を創られた、“創造のご意志”によることなのです。ここまで思い至りますと、私たちは、このパウロの結びの言葉に、心から「アーメン」と唱和せざるを得ないのではないでしょうか?

 

11:36)「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

 

 

 

It’s a basic truth: God not only knows all our needs, but has created them inside of us as a metaphor for our deeper need for Him.

 

-Joy Knight-

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2016年

3月

06日

◆その罪、ホンモノのお医者さんにお任せなさい◆

 

私たちは、自分の罪について、自分自身で“手術”することをやめる必要があります。そうすれば本当の“医者”であられる方が、ご自身の腕を振るうことがおできになるのです。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

We need to stop practicing surgery on ourselves in ou sin, so that the true Physician can do His work.

 

-Joy Knight-

 

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