2015年

10月

19日

◆全てが崩れ去っても◆

今日、車は欠陥を生じることがあるし、子どもたちも、犬も、火災探知機も、皿洗い器も、医者も、全ての自由で民主的な世界とその全経済システムもまた、失敗を犯すことがあり得る。だが、神のあわれみが尽きることは、あり得ないし、事実尽きない。このお方の真実は、ただ偉大であるだけではない。――それは確として、揺るがないのだ。

~アン・ヴォスカンプ~

 

"The car can fail today and the kids and the dog and the fire detector and the dishwasher and the doctor and the whole free democratic world and it’s entire economic system but the mercies of God cannot and will not fail and His faithfulness is not merely great– it is unwavering."

 - Ann Voskamp


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2015年

10月

10日

◆見えるものと見えないもの◆

心と思いが”見えないもの”に焦点を当てるとき、私たちのうちに“見える変化”が表れ始めます。

そして、外側の人、目に見える人は、私たちが“目に見えない、隠れたキリストのご人格”に焦点を合わせた程度に応じて、キリストに似た者となるのです。

~アン・ヴォスカンプ~

 

【解説】 はい、キリスト者が生涯かけて目指す“キリストのかたちがなる”(ガラテヤ419)までの歩みは、「聖化」のプロセスですが、このキリストの麗しさは、お化粧と似ています。どんなに高価な化粧品を使って外側を装っても、内から現れてくるみ霊の実を結ばなくては、内なる美しさを外に表すことはできません。そしてその表れ方は、肉眼の目には見えないキリストに、どれほど深く確かに焦点を合わせたか、その程度に比例するというのです。ここまで書いたら、ふと、もう35年も前の富士フィルムの年賀状コマーシャルを思い出してしまいました。いわく「美しい人はより美しく。そうでない人はそれなりに。」 当時は、それを言ったご当人や、あの人、この人の顔を思い浮かべながら、大いに笑ったものでしたが、でもこれ、スピリチュアルの世界でも、真理ですね。これはまた女性に限ったことではありません。テレビで凶悪犯人の顔を見ると、「この顔じゃ、やるよなぁ」と思ってしまいます。”名は体を”ならぬ、“顔は心を表す”のです。キリスト者の”自分らしさ”は、すなわち“キリストらしさ”。それを外側に求めるむなしい努力は、今日限りやめましょう。そして、日々たゆみなく、み言葉にと祈りの中で、内なるキリストへの焦点をしっかりと据えて、歩んでまいりましょう。

 

When the heart and mind focus on things unseen, thats when theres a visible change in us.

And the outward and the visible only become like Christ to the extent we focus on the unseen and invisible person of Christ.

-Ann Voskamp-


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