2019年

11月

23日

◆私を真に生かす3つの言葉◆

◆今日の霊想◆

―私を真に生かす3つの言葉―

 

1.《明け渡しは成長のカギ》

自分が自分のものでなく、

自分自身の理屈によって支配されることもなく、

心を神に明け渡した人は、

ああ、高嶺に向かい、なんと伸びやかに進みゆくことであろう!

~ジョン・カルヴァン~

Oh, how greatly has the man advanced who has learned not to be his own, not to be governed by his own reason, but to surrender his mind to God!

- John Calvin

 

2.《聖書の権威に帰れ》

今日の教会の最大の弱さは、“神は、ご自身の力を聖書に注ぎ込んでおられる”ということを、ほとんど誰も信じていないということである。

誰もが、その力を、活動プログラムや、それをうまくやるテクニックや、ありとあらゆることに求めている。――ただ一つ、神がそれを込められたもの、“神の言葉”を脇に置いて

~R.C. スプラウル~

I think the greatest weakness in the church today is that almost no one believes that God invests his power in the bible. Everyone is looking for power in a program, in a technique, in anything and everything except where God has placed it: His Word.

R.C. Sproul

 

3.《信仰者を脅かす3つの罠》

クリスチャン生活には、3つの方向から危険が近づいてくる。

① 私たちが旅路をゆくこの世そのもの。

② この世の“神”(訳者注:=偶像)

③ 私たちの制御されない“肉”(訳者注: この世的欲望)

だから私たちには、“岩、砦、解放者、守護者、逃げ込む高きやぐら”なるお方(訳者注: まことの神、イエス・キリスト)が必要なのだ。

~A.W. トーザー~

Danger approaches the Christian life from three directions: the world through which we journey, the God of this world and our unmortified flesh. That's why we need a Rock, a Fortress, a Deliverer, a Bukler, a High Tower to run to.- A.W. Tozer

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2019年

5月

01日

◆4人の先達が語る信仰生活の勘どころ◆

1. 《砕かれて初めて分かること》

モーセは、“自分はひとかどの者だ”と考えながら40年を過ごした。 ”いや、自分は全く取るに足りない“と考えながら次の40年を過ごした。 そして次の40年でようやく、”神は、取るに足りない者を用いて事をなさる“と知ったのだ。 ~D.L. ムーディー~

【解説】 これは信仰者の一生のプロセスです。モーセはその”型“、見本ですね。彼は、この真理を悟るのに120年かかりましたが、私たちはそれでは長すぎます。そのために神様は、私たちが無駄な失敗をしないように、聖書の中に”見本“の人物を残したのです。「神様は、無にも等しいこの私を通して、ご自身の大いなるみ業をなさる」――このことを、彼からしかと学びたいものです。 Moses spent forty years thinking he was somebody; forty years learning he was nobody; and forty years discovering what God can do with a nobody. – D.L. Moody

 

2. 《あなたの教会は、大きいのか、聖いのか?》

新約聖書の使徒書簡の大いなる関心は、教会の“大きさ”ではない。それは教会の“聖さ”なのだ。 ~マーティン・ロイドジョーンズ(1899-1981)~ (エペソ5:23、26,27) 「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

【解説】 あなたは、ご自分の教会に何を求めていますか? 集う人の多さですか? 経済的な豊かさですか? 神様が一番求めておられるのは、“聖さ”です。このエペソ人の手紙の中では、ご存じのように夫と妻の深い関わりを、キリストと教会の関わりになぞらえていますね。すなわち、教会の聖さは、ひっきょう、キリストの体である私たち一人一人の聖さから生まれるのです。聖さを阻むものは、私たちの内になおもしつこく残る“肉”です。一人一人が、神様のみ前に砕かれて、み霊の実を結ばなければならないのです(ガラテヤ5:16-25をぜひ開いてお読みください)。 The great concern of the New Testament epistles is not about the size of the church, it is about the purity of the church.

– Martyn Lloyd-Jones (1899-1981)

 

3. 《正義は神の手に》

私は、正義が神のみ手にあることを感謝する。 ~A.W. トーザー~

【解説】 この世の“正義”はしばしば相対的です。だから時として冤罪が起こり、無実の人が一生を台無しにされてしまう悲劇が起こるのです。しかし神様の正義は絶対的です。それは神の絶対的なご性質(神学用語では“属性”と言います)である“義”に基づくからです。この究極的な“神の正義”を信じられるからこそ、人は、どのような不条理の中でも、神様に委ねて前に進んでいけるのです。この世にこの絶対的な正義が存在しないとしたら、私たちは絶望して生きていくことが嫌になります。それほどに、人間社会は悪と不正で満ちあふれているのです。その現実に思いを馳せると、トーザーが「感謝する」と言ったことの重みが、ひしひしと伝わってきませんか?

I am thankful that justice is in the hands of God. -A.W. Tozer

 

4. 《“祈りと罪”は“水と油”》

”祈り”と”罪”は、人の心の中で同居することは絶対にできません。 祈りは罪を燃やし尽くしますが、 罪は祈りの炎を消し去るのです。 ~J.C. ライル~ 【解説】 “祈り”の反対語は何だろう? 神に頼らない“自尊心”かな。“罪”の反対語は何だろう? “潔白”かな。…などと私たちは考えますが、ライルは、”祈りと罪”こそ、互いに相容(い)れないもの、まさに“水と油”だと言うのです。一瞬、意表を突いた言い方ですが、これもまた真理です。ズバリ言って、人は、罪を持ったままで祈ることはできないのです。仮に罪に目をつぶって祈ったとしたら、その祈りが神様に聴かれることは絶対にありません。神様の目は節穴ではないのです。ですからもし祈りの中で隠れていた罪を思い出したら(それは聖霊のお働きですが)、まずその罪を言い表して、神様の赦しを請わなければなりません。 この言葉が教えるもうひとつ大切なことは、罪を焼き尽くしてあなたを聖めるのは祈りの力だということ、逆に、罪が最も力を振るうのは、あなたを祈れなくすることだということです。実に祈りは、霊の世界でサタンを打ち砕く神様の力を呼び覚ますものであり、あなたが祈らないことこそ、サタンが何にもまして小躍りして喜ぶことだということです。――これがあなたの信仰生活が実を結ぶかどうかのカギです。どうぞ忘れないでください。

Praying and sinning will never live together in the same heart. Prayer will consume sin, or sin will choke prayer. – J.C. Ryle

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2018年

11月

21日

◆苦しみと信頼◆

私たちのためにキリストが苦しまれたことを

もし私たちが信じられるなら、

私たちがキリストのために苦しむときも、

このお方を信じることができるはずです。

~A.W. トーザー~

 

【解説】 これは、私たちが、ともすれば見落としがちな、信仰生活の中の大切な真理です。すなわち、私たちが信仰を守るために経験しなければならない様々な苦しみは、すでに主キリストが身をもって味わわれており、主はその全てをご存じなのです。それがもし信じられるなら(この“もし”は、“当然の「もし」”で、“信じられるのだから”という意味です!)、私たちが苦しむときも、主はそれをすでに私のために苦しんでくださったのだから、たとえどんなにつらくとも、このお方を信頼し、委ねていくことができるはずだというトーザーの言葉は、論理的にも、実際的にも、「アーメン!」と受け入れることができるのではないでしょうか? 私たちの苦しみは、実に、”キリストの苦しみにあずかる”ことです。そして、この信頼あるところ、主に在って”苦しみ”が”平安と喜び”に変えられる時が必ず来ます”。苦しみ”と”信頼”は、私たちが良き信仰の実を結ぶための、“車の両輪”なのです。

 

(ヨハネ 16:33) 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 

(1ペテロ4:16,17) 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」

 

"If we can trust the sufferings of Christ for our sake then we can trust Christ when we suffer for His sake." - A.W.Tozer

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2018年

10月

19日

◆良きものは全て主から◆

―マタイ6:33を証明する3つの言葉―

 

1. 私たちが神様を持つとき、

私たちは全てを持っているのだということを知るようにと、

神様は願っておられます。

~A.W. トーザー~

God wants us to know that when we have Him, we have everything.

-A.W. Tozer

2. 自分は何も持っていないと考えてはいけません。

自分は何でも持っていると考えてもいけません。

けれど、自分は何かを持っており、どんなことでも成し遂げられると

いつでも考えていなさい。

Never think I have nothing. Never think I have everything. But, always think I have something and I can achieve anything.

3. 神のやり方でなされた神の業に、

神が必要を満たされないことは決してありません。

~ハドソン・テイラー~

God’s work done in God’s way will never lack God’s supplies. –

Hudson Taylor

 

(マタイの福音書6:33) 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

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2017年

8月

26日

◆ただ十字架の言葉を◆

もしイエスが、今日の牧師たちが語るのと同じメッセージを語っていたら、彼は決して十字架につけられることはなかったであろう。

 ―レナード・レイヴンヒル

 

この地上には、二つの霊が広まっている。不従順の子らの中に働く霊と、神の霊である。この二つは、今の世でも、永遠にわたっても、決して和解することはない。

 ―A. W. トーザー「神の住みたもう場所」

 

【解説】レイヴンヒルは、20世紀イギリスの信徒伝道者、作家。祈りとリバイバルに関する著書で、現代教会の“悔い改めをもたらさない、生ぬるい”説教の弊害を説いた。トーザーは、20世紀アメリカの牧師、伝道者、作家、編集者、霊的指導者。邦訳著書あり。

キビしい警告ですが、牧師は謙虚に耳を傾けるべきですし、信徒は、愛する自分の教会の牧師が、臆することなく、大胆に主のみ言葉を語れるように、祈って支えなければなりません。

【Ⅰコリント1:22,23】 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。

 

There are two spirits abroad in the earth: the spirit that works in the children of disobedience and the Spirit of God. These two can never be reconciled in time or in eternity.

 

A.W Tozer Man - The Dwelling Place of God

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2016年

8月

29日

◆信仰は完了形か? 進行形か?◆

信仰は、“ひとたび なされた行為”ではない
それは、途絶えることなく、三位一体の神を見つめ続けることだ。
~A.W. トーザー~

 

【解説】 「人たびなされた行為」というのは、完了形です。人生のある時に、“神を信じる”という行為をしたということです。信仰は、そうではなく、やがて神様によって、栄光の姿に変えていただく瞬間まで、連続して、絶え間なく神様を“見つめて”いくことだとトーザーは言います。
けれども、霊である神様を、私たちの肉眼で見ることはもちろんできません。どうすればそんな見えない神様を熟視できるのか? それは、私たちの周りの、目に見える全ての被造物の中に、大きいものにも、小さいものにも、命あるものにも、自然の中にも、“生ける神様”を心で感じることです。あなたの霊のまなこで、神様のみ手をしかと見ることです。そうすれば、「あ、今、神様が語っておられる!」「こんな小さなことの中にも、神様のプランが働いてる!」と、全ての目に見える具象の背後に、私たちは鮮やかに神様を見いだすことができます。ちなみに、“見つめる“と訳したgazeゲイズという言葉は、ただ細かく観察するということではありません。“神様に対する驚きと、喜びと、興味を持って熟視していく”ことです。三位一体の神様という、途方もなく偉大なお方のご本性について、いつも新しい発見をしながら、召されるまで熱い心で、感動をもってじっと見続けていく、これが、“信仰”という生涯をかけた進行形の行為の真髄なのです。

 

Faith is not a once-done act, but a continouous gaze at the triune God.
-A. W. Tozer-

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2016年

1月

10日

◆神は、あなた自身よりも近くにおられる◆

 

私たちは、不在なる神の存在を求めて、当てもなき空間に大声で叫ぶ必要など、いささかもない。神は、私たち自身のの魂よりもそば近くにおられ、我らの最もひそやかな思いよりも間近におられるのである。

 

A. W. トーザー「神を求めて」1948年~

 

 

 

We need never shout across the spaces to an absent God. He is nearer than our own soul, closer than our most secret thoughts.

 

-A. W. Tozer, The Pursuit of God, 1948-

 

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2015年

12月

03日

◆聖化に必須な”磔刑宣言”◆

私たちが、自分の覆い隠された”ベール”を引き裂こうとして、内なる生活を“いじくり回す”のはやめようではないか。神が私たちのために全てをしてくださるのだ。私たちのなすべきことは、この身を明け渡して、信頼すること。私たちは、罪を告白し、それを捨て、自己中心の生活を拒否し、そしてそれらが十字架につけられたと、きっぱり断じることなのだ。

A. W. トーザー~


(ガラテヤ 2:20) 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

Let us beware of tinkering with our inner life, hoping ourselves to rend the veil. God must do everything for us. Our part is to ield and trust. We must confess, forsake, repudiate the self-life, and then reckon it crucified.

-A. W. Tozer-


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2015年

11月

07日

◆トーザー、信仰について語る◆


  1. “信仰”とは、私たちの視界を再設定することである。“自分の理想”から焦点を外して、“神”に焦点を合わせ直すのだ。

  2. 私たちの主は、滅ぼすためではなく、救うために来られた。私たちが彼に委ねたものは全て安全であり、委ねていないものは、なんであれ、真に安全なものなど何一つないのだ。

  3. 私たちの神探求が成功する理由はただ一つ、神が、永遠の昔から、私たちにご自身を現す道を探し求めてこられたからである。

 

  1. Faith is a redirecting of our sight, a getting out of the focus of our vision & getting God into focus.

  2. Our Lord came not to destroy but to save. Everything is safe which we commit to Him, and nothing is really safe which is not so committed.

  3. "Our pursuit of God is successful just because He is forever seeking to manifest Himself to us."


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2015年

10月

28日

◆聖なるものとなさんとて◆


  1. 神は私たちの体をお創りになった。私たちは、“創った者の責任”云々で、このお方に不快感や怒りを覚えることは当たらない。神は、ご自身のみ手の業に対して、恥じることなど何もありはしないのだ。
    【解説】 「なんでこんな体に産んだの?」「生まれなきゃよかった」「産んでくれって頼んだ覚えはないぜ」私たちは、時としてこのような言葉を親に浴びせます。それは、不完全な自分自身に対する失望といらだちと不安のあまりの叫びなのですが、私たちが本当の創り主を知り、自分がこの世に存在することの意味を悟ったときに、初めて“生かされている”喜びに変わるものです。「こんな私でも、神様に愛されてる」「この体で、神様のすばらしさを証しできるんだ」「産んでくれてありがとう」と――。

  2. 自分の仕事が、”聖なる”ものか、“世俗的な”ものかを決めるのは、あなたが“何を”しているかによるのではない。“なぜ”それをしているのかによるのだ。“動機”が全てである。
    (Ⅰコリント人への手紙1031 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

  3. “個人的な信仰”が聖められるときに、“社会的な信仰”(訳注:教会のこと)は完全なものになる。“からだ”は、その個々の肢体が健康であればあるほど、ますます強くなるのである。
    (1コリント12:14-31参照)

     

    1. W. トーザー)

 

  1. God created our bodies, and we do not offend Him by placing the responsibility where it belongs. He is not ashamed of the work of His own hands.

  2. It is not what a man does that determines whether his work is sacred or secular, it is why he does it. The motive is everything.

  3. Social religion is perfected when private religion is purified. The body becomes stronger as its members become healthier.


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2015年

10月

25日

◆キリストに目を転じた時◆

自分を聖めようとしていろいろ苦闘しても、繰り返し失敗する他なかった人は、もはや自分の魂をなんとかしようと“いじくり回す”のはやめて、“完全なるお方”に目を転じたときに、本当の“解放”を体験するであろう。彼がキリストを見続けている間に、長い間、なんとかやろうと試みてきたまさにそのことが、自分の中でひとりでにできているのだ。そのとき彼の中で、自分がどうすべきかを考え、それを行うために働かれるのは、神なのである。

A. W. トーザー~

 

The man who has struggled to purify himself and has had nothing but repeated failures will experience real relief when he stops tinkering with his soul and looks away to the perfect One. While he looks at Christ, the very things he has so long been trying to do will be getting done within him. It will be God working in him to will and to do.

-A. W. Tozer-


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2015年

9月

25日

◆十字架に死ぬということ◆

”死ぬ”ということは、決して楽しいことではない。人生をかたちづくってきた愛すべき、かけがえのないことどもをはぎ取るのは、深い悲しみ以外の何ものでもあろうはずがない。しかし、それがまさに十字架がキリストに対してしたことであり、私たちを“自由”にするために、一人一人に対してもすることなのだ。~A. W. トーザー~

 

【解説】 ここの“死”は、もちろん肉体の死ではなく、“霊的な死”を指しています。それまでの神なしの人生に対する決別を表す“死”、また、信仰者になったあとにも、私たちが、気づいたら救い主なる神様以上に愛し、大切にしていたものに対しての、“第二の死”です。その時に私たちは、“はぎ取る”と訳した rip throughのもう一つの訳語で言うなら、”引き裂かれる”思い、古くからの言い方なら、はらわたもちぎれんばかりの“断腸”の思いを味わいます。でもトーザーは言います、それが、まさに2000年前、神のみ子が、十字架の死において味わわれた、父なる神様との“愛すべき、かけがえのない”交わりの断絶の苦しみだったのだと――。この世のものは、人であれ、物であれ、たとえそれがどんなに魅力的で、愛すべきものであったとしても、深いところで”罪“の縄目に縛られています。そしてそれは、やがては過ぎゆき、消えゆくものです。その縄目を解き放ち、”自由“にしてくれるものは、キリストの十字架の他にはないのです。神のみ子が、私たちにに対する愛のゆえに、そのお苦しみに耐えてくださったのだとしたら、あなたもきっと、耐えられるはずです。十字架のもとに、ひとたび愛するものを差し出して、“自由”になりましょう。そして解き放たれた心で、主の十字架のお苦しみゆえに与えられた、新しい命に生きてまいりましょう。

 

It is never fun to die. To rip through the dear and tender stuff of which life is made can never be anything but deeply painful. Yet that is what the cross did to Jesus and it it what the cross would do to every man to set him free.

-A. W. Tozer-

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2015年

7月

14日

◆聖書は涙と共に◆

聖書は、涙のうちに書かれました。ですから、涙と共にそれを読む人には、最高の宝をもたらします。

A.W. トーザー)

 

【解説】トーザー博士は“20世紀の預言者”と呼ばれる、神学者、牧師、伝道者。


The Bible was written in tears, and to tears it yields its best treasures. -A.W. Tozer

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