2016年

8月

24日

◆白馬のキリストが語るのだ!◆

 

福音の宣教は、単に人が語るだけのものではない。語っているのは、征服しつつ、また征服するために前進する、白い馬に乗ったキリストなのである。

 

 

 

【解説】 おお、なんという頼もしいイメージ! これは、ヨハネの黙示録191113がモチーフです。講壇の説教者はもちろん、私たちも、証しや個人伝道をするときには、この勝利のキリストの一歩後ろにあって、ひたすら祈りつつ、主ご自身に語っていただきましょう。

 

 

 

(黙示録19:11-13 「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

 

 

 

The preaching of the gospel is not mere man's talk; it is Christ riding on his white horse, going forth conquering and to conquer.

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2016年

8月

20日

◆主に仕える者の資格◆

 

もしあなたや私が、人々の口に蜂蜜のように甘くあろうとするなら、主に用いられることはできない。もし私たちが、人々によく言われるために、彼らを喜ばせようと望むなら、神は決して祝福してはくださらない。あなたは、語る時に自分自身の心が張り裂け、聴く人の心も張り裂けるようなことを語りたいと望んでいるか? そうでなければ、あなたは主に仕えるにはふさわしくない。あなたは、出ていって、神のために語ることを望まなければならないのだ。たとえ人々に拒まれようとも――

 

 

 

You and I cannot be useful if we want to be sweet as honey in the mouths of men. God will never bless us if we wish to please men, that they may think well of us. Are you willing to tell them what will break your own heart in the telling and break theirs in the hearing? If not, you are not fit to serve the Lord. You must be willing to go and speak for God, though you will be rejected."

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2016年

8月

19日

◆語るは主のみ言葉か、己の教訓か◆

 もし私が、神のみ言葉だけを宣べ伝えて、一人の魂も救われないとしたら、王なるお方はこうおっしゃるだろう。「よくやった。善かつ忠なるしもべだ!」 もし私が、自分のメッセージのみを語り、誰もそれを聴こうとしなかったら、王はこう言われよう。「お前は良き戦いを戦った。お前の冠を受けるがよい」と。 

 

【解説】 同じ講壇から語り、聴衆の反応が皆無に等しかったとしても、語る内容によって、報いが違うというのです。神のみ言葉のみを語った者には、主のしもべである私たちが最も聞きたい“金のひと言”を頂くことができます。けれども自分自身の思想に基づく説話に終始した者には、何とも皮肉に満ちたひと言が与えられます。そして受けるのは、主から与えられる義の冠(Ⅱテモテ48)、いのちの冠(黙示録210、ヤコブ112)、朽ちない冠(Ⅰコリント925)、栄光の冠(Ⅰペテロ54)、喜びと誇りの冠(Ⅰテサロニケ219)ならぬ、「お前の冠」です。これは別名「自己満足の冠」といい、自分でかぶせるのです! 主よ、時がよくても悪くても(Ⅱテモテ42)、いえ、今は悪い時代ですが(エペソ516)、あなたのみ言葉のみを語り続け、かの日に、あなたのこのひと言を頂けますように――。 

(マタイ 25:23 『よくやった。良い忠実なしもべだ。』 

 

If I do but preach Gods word, if there never were a soul saved, the King would say, “Well done, good and faithful servant!” If I do but tell my message, if none should listen to it, he would say, “Thou hast fought the good fight: receive thy crown.”

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2016年

8月

16日

◆聴衆に媚びるは娼婦の業なり◆

 

“キリストへの信仰による義”の占めるべき位置に、異なる救いの道を据える教会は、“娼婦の教会”である。

 

 

 

【解説】 スポルジョンの舌鋒は、時として鋭くて歯に衣を着せぬほどであることは周知の事実ですが、これはその極みですね。「そこまで言う!」という感じですが、こういう言葉に出くわすのは、まずない経験ですから、この際、彼の言う娼婦の教会の特徴を考えてみましょう。

 

  1. そのメッセージは、永続しない、つかの間の喜びしか与えません。

  2. 聖職者は会衆に媚び、会衆の喜ぶことしか語りません。

  3. 会衆は、まことの愛によらない、表面的な“リップサービス”にすぐ渇き、深く魂を満たされることがありません。

  4.  この教会が提供する“ギブ&テイク”の打算的な“ビジネス”には、キリストの無償の愛に対する信徒の献身の思いが生まれる余地はありません。

  5. 何より致命的なのは、“異なる福音”に、人を真の悔い改めに導き、魂を新生させ、神のみ前に義とする力はありません。それのみか、その誤った教えによって、迷える魂を永遠の滅びに向かわせるとすれば、その罪は万死に値すると言うべきです。

日本の教会(=私の教会)が、キリストの福音をストレートに説き明かし、キリストの愛を実践する教会でありますように。

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2016年

8月

04日

◆み言葉を語るは我にあらず◆

 

私はあなたに対して全く語ることができないと感じている。私は、人をして語るに値する者とさせるたまものも才能も持ち合わせてはいない。私にはいと高きところからの霊感が必要なのだ。さもなければ、他の人々のように、言葉もなく立ち尽くすだけだ。その霊感を我に与えたまえ。それなくして私は、“物言えぬ人”に過ぎないからだ。

 

 

 

I feel I am utterly unable to speak to you. I have not those gifts and talents which qualify men to speak; I need an afflatus from on high, otherwise I stand like other men and have nought to say. May that be given me; for without it I am dumb.

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2016年

6月

25日

◆”講解説教の雄”は語る◆

 

“講解説教”ほど、長期にわたって続けられ、あるいはよく教会を建て上げる説教は他にないと、私は固く信じる者である。

 

 

 

I am sure that no preaching will last so long, or build up a church so well, as the expository.

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2016年

4月

01日

◆説教:キリストのみ名の出るまで◆

 

どんな主題で説教しようとも、救い主、主イエス・キリストに話が及ぶまでは、私は語ることをやめない。彼のうちに、全てのものがあるからだ。

 

 

 

Whatever subject I preach, I do not stop until I reach the Saviour, the Lord Jesus, for in Him are all things.

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2016年

3月

26日

◆み霊によらずんば、救いなし◆

 

もし、もっと多くの回心者を得たいなら、もっと“聖霊の説教”を心がけねばならない。

 

 

 

【解説】 この短い言葉を読んで、心に浮かぶのはこの聖句ですね。

 

(Ⅰコリント12:3 「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」

 

“聖霊の説教”、それは、聖霊が終始イニシアティブをとられて、説教者を通りよき管として用いつつ語られる説教です。徹頭徹尾、人の心を照らし、罪を指し示し、悔い改めに導かれる聖霊のみ力に、説教者が寄り頼んで語る説教です。

 

そして、み霊も、説教者も、指し示すお方はただ一人、私たちの罪のために十字架にかかられ、三日目に墓の中からよみがえられた、勝利の主イエス・キリストです!

 

 

 

We must have more preaching of the Holy Spirit, if we are to have more conversion work.

 

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2016年

3月

21日

◆キリストなきメッセージよ、消えされ◆

 

もし人が、キリストの名に触れずに一つの説教ができるとするならば、彼の説教はそれを最後にするべきである。

 

 

 

【解説】 キリストのみ名に触れない説教、それはひっきょう、人間の罪に触れない説教、赦しに触れない説教、永遠の命に触れない説教です。そこにあるのは、人の自尊心を“温存”し、安易な自己受容を保証し、悔い改めを必要としない、誠に聴き心地のいい説教、ボンヘッファーの言う“安価な恵み”のメッセージです。そのような“似非(えせ)福音”を語る者は、それを限りに即刻講壇を降りるべしとスポルジョンは言います。でもこれは説教者だけに言われた言葉ではありません。イエス様の福音を委ねられた、キリストの証人である私たち一人一人に対しても言われている言葉です。私たちのどこを切ってもイエス様のみ名が出てくるためには、私も、あなたも、いつ、どこにいても、主の十字架の恵みのもとに生きていなければなりません。受難週は、その生き方の原点を、改めて確認する時です。

 

 

 

If a man can preach one sermon without mentioning Christ's name in it, it ought to be his last.

 

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2016年

3月

04日

◆教会を居眠りの場となすなかれ◆

 

ああ! もし私たちが、我らの牧師たちこそ“人間の華”であった時代―かのピューリタン(清教徒)時代に帰れさえしたなら…。ああ、再びピューリタン的清冽な信仰を取り戻すためには、まどろむ聴衆、がらんとした会堂、真理を語るすべを知らず、びろうどのように滑らかな舌で、自らも眠るがごとき説教者たちを抱えていてはいけない。私たちは、“いと高きところには神に栄光を、地の上では、み心にかなう人々に平和を(訳注:ルカ214)をもたらすべきなのだ。

 

 

 

【解説】 現代のバプテスマのヨハネのような、歯に衣を着せぬ、なんとも手厳しいスポルジョンの言葉ですが、人間的な成功と栄誉と説き、内面の罪にはふたをして、ひたすら表面的な安逸感を満足させる“偽りの福音”ではなく、聖書に固く立ち、己の罪をしかと見据え、そこからの唯一の解放者であるキリスト・イエスへと招く、”まことの福音”に立ち返れと、彼は語る者にも聴く者にも警鐘を鳴らしているのです。もはや古典とも言うべき古きスポルジョンのメッセージが、いま新たな光を放つゆえんです。(そして訳者が、心を込めてご紹介している理由でもあります。)

 

 

 

Oh! if we might but go back to those days when the best of men were our pastors-the days of the Puritans. Oh! for a puritanical gospel again, then we should not have the sleepy hearers, the empty chapels, the drowsy preachers the velvet-mouthed men who cannot speak the truth, but we should have “Glory to God in the highest, on earth peace, and good-will towards men.”

 

 

 

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2016年

1月

05日

◆説教者の真実な告白◆

 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―説教者の真実の告白―

 

 

 

ああ、聴衆の方々、真実の聖職者が、いかにあなた方の魂を愛しているかについて、皆さんはほとんど考えないかもしれない。ここに立ってあなた方に説教するのは、たやすいことのように、たぶんお考えだろう。神はご存じだが、もしただ語って事足りるなら、確かにたやすいかもしれない。だが、皆さんの救い、あるいは永遠の裁きが、ある程度、私が語ることに懸かっているとひとたび考えたら…。私が魂の不忠実な見張り人で、そのせいで神が、あなた方の血をこの手に求めることを想いみたら…。ああ、善なる神よ、私が生涯において、数え切れぬほど多くの人々に説教し、その中で多くの言うべきでないことを言ってしまったことに思いをはせたら…、私はただ震えおののくばかりだ。

 

 

 

【解説】 スポルジョン自身の赤裸々な心の内を表すために、あえて主語は「私」と訳しましたが、原文は「私たち」、すなわち主に召された教役者、牧師、神父の全てを指しており、その中には、あなたの教会の牧師、そしてその業に召されている牧師の方々ご当人も含まれています。その働きの中でも中心をなす、彼が、いみじくも“震えおののく”と告白した説教の重要さを考えたら、まさしく「主の召しなくば、誰がこの重荷に耐ええんや」と言うところでしょう。信徒である私たちは、この一節から、①牧師は、委ねられた魂を心底愛し、見守っておられることと、②説教を聴く魂の永遠の“住みか”を委ねられた、ともすれば押しつぶされそうな重責の中で、命を懸けて語っておられるのだということを日々覚えて、祈りにおいてお支えしなければなりません。

 

 

 

Oh, my hearers, ye little think how Gods true ministers do love your souls. Perhaps ye think it is easy work to stand here and preach to you. God knows, if that were all, it were easy work, but when we think that when we speak to you, your salvation or damnation in some measure depends upon what we say-when we reflect that if we are unfaithful watchmen, your blood will God require at our hands-oh, good God, when I reflect that I have preached to thousands in my lifetime, many thousands, and have perhaps said many things I ought not to have said, it startles me, it makes me shake and tremble.

 

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2015年

11月

13日

◆水増し説教を語るなかれ◆

ああ、私は正真の科学や本格的教育は大いに愛するが、我らが牧師たちが、それらに”迎合”するのには痛く嘆き悲しんでいる。すなわち、会堂を埋め尽くした大学生たちや神学部の教授たちに最適な、”知的”説教者であらんとして、“模範的”な説教を語り、神の言葉を哲学で薄めてしまっているのだが、それらは、単純さ、温かさ、熱心さ、あるいはしっかりとした福音的内実にさえ欠けており、聖餐式や礼拝には役に立たないものなのだ。

 

Ah! much as I love true science and real education, I mourn and grieve that our ministers are so much diluting the Word of God with philosophy, desiring to be intellectual preachers, delivering model sermons, well fitted for a room full of college students and professors of theology, but of no use to the masses, being destitute of simplicity, warmth, earnestness, or even solid gospel matter.


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2015年

10月

27日

◆サタンの快挙!◆

福音の基礎的な真理を否定するために、人の心に”俸給付き”福音説教者になろうという思いを吹き込んだのは、ただサタンにのみできた業であろう。


【解説】 牧師先生方の名誉のためにもひとこと記しておきますが、スポルジョンには、フルタイムの牧師として教会に仕えておられる教職の方を揶揄する意図はさらさらありません。これは、自分自身をも対象に含めた全ての説教者に対する“警告”です。牧師給を頂いているからと言って、会衆におもねたり、役員会の顔色をうかがいながら、説教してはならない。会社のお抱え弁護士の向こうを張って、“教会のお抱え牧師”に堕し、福音の基礎的な真理を曲げてはならない。その時は、サタンが”してやったり!“と高笑いするのだと言うのです。敬愛する牧師が、どんなときも、何ものにも妨げられずに、まっすぐみ言葉を語れるように、私たちが祈ることが何よりも大切な理由も、そこにあります。


 

"Only Satan himself could have put it into a man’s heart to become a salaried preacher of the gospel in order to deny its fundamental truths."


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2015年

9月

19日

◆そは福音か、はたまた霞か?◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

―そは福音か、はたまた霞(かすみ)か?―

 

我が友よ、私は、日曜の朝と夕ごとに”哲学”の一束を人々に与えておいて、この聖なる書の真理をないがしろにすることが、十字架につけられたキリストを宣べ伝えていることだとは信じない。神の言葉の主要なる教義を置き去りにして、そこに何ほどの確かな真理も宿さない、全てこれ靄(もや)か霞のような宗教を語ることが、十字架につけられたキリストを宣べ伝えていることだとは信じない。私は、最後まで一度もキリストの名を口に出さぬまま説教を続けたり、聖霊の働きを脇に追いやり、聖霊について一言たりとも語らざる者は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているのではないと受け取ることにしている。

 

My friends, I do not believe it is preaching Christ and him crucified, to give our people a batch of philosophy every Sunday morning and evening, and neglect the truth of this Holy Book. I do not believe it is preaching Christ and him crucified, to leave out the main cardinal doctrines of the Word of God, and preach a religion which is all a mist and a haze, without any definite truths whatever. I take it that man does not preach Christ and him crucified, who can get through a sermon without mentioning Christ's name once; nor does that man preach Christ and him crucified who leaves out the Holy Spirits work, who never says a word about the Holy Ghost.

 


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2015年

8月

02日

◆キリストなき説教よ、退け◆

説教が、その始まりと、中ほどと、終わりにおいてキリストを語らないとするならば、それは福音の概念において誤りであり、実践においては犯罪である。

 

"A sermon without Christ as its beginning, middle, and end is a mistake in conception and a crime in execution."


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