2017年

8月

21日

◆いつまでも握りしめないで…◆

あなたの手から、

放してあげるとき、

あなたは、“奇跡”へのドアを、

開けるのです。

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2016年

9月

18日

◆私の考える自由◆

“自由”というのは全体的に考えるべき事柄です。ある人が、たとえ私と同じように信じ、考えていないとしても、自由であることを否定されているとしたら、私は自由を楽しむことはできません。同時にまた、“自由”というのは、お互いの尊敬と、愛と、人間性の尊厳の境界を踏み越えることによって、それぞれの人の人生を、荒々しく足蹴にして歩み去ることでもありません。
~サミュエル・C・リー~

 

Freedom is a matter of wholeness. I cannot enjoy freedom, when to another fellow human being freedom is denied--even when that fellow human being doesn't believe or think like me. At the same time freedom doesn't mean to brutally walk over each others' lives, by breaking the boundaries of mutual respect, love and human dignity. - Samuel C Lee

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2016年

6月

26日

◆主に鎖を解かれた人こそ◆

 

み子が自由とされた人は誰であれ、本当に自由なのであり、もはや私を妨げる鎖などは、どこにもないのだ。ハレルヤ!

 

~コーリー・アズバリー~「み子が自由にされた人」

 

 

 

Whom the son sets free is free indeed and there ain’t no chains that can hinder me. Hallelujah.

 

-Cory Asbury “Whom the Son sets free”-

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2016年

3月

17日

◆”自由意志”の教義とは◆

 

“自由意志”の教義、それはなんであろうか? それは、人を神にまで大きくするものである。それは、神の目的を“無効”と宣言する。なぜなら、人がそれに対する肯定の意志を示さなければ、神の目的は遂行されないからである。それは神の意志を、人の意志に対して“仕える下僕”の立場に置かせ、恵みの契約全体は、人間の行為に懸かってくる。不法のゆえに“選び”を否定することは、神を罪人に対する“負債者”の座にとどまらせることになる。

 

~チャールズ・ハドゥン・スパージョン(原音表記)(18341892)~

 

 

 

【解説】 何やら本格的な神学課題となりましたね。一見、なんだか人間が途方もなく大きく、“偉い”ものに、そして神様が申し訳ないほど小さく思えてきて、「これってホント?」と言いたくなりますが、これは神様のみ前における正真正銘の人間の立場です。このようなすばらしい特権を、神様は人間にお与えくださったのです。それはひとえに、人間に対する神様の大きな愛のゆえでした。ちょうど十字架を前にしたイエス様が、み心一つで天の軍勢を呼ぼうと思えばできたのに、それをせず、父なる神様の救いのご計画に従われたのと同じように、天地の創られる前から私たちを選ばれた神様は、そう望まれれば、私たちを一方的にお救いになることは即座にできたのです。なぜそうなさらなかったのか? それは私たちを、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、あるいは全く考えることのない反射的作用によってでもなく、与えられた“自由意志”を正しく用いて、自ら望んで創り主なる神様を信じ、このお方のもとに帰らせるためでした。この人間の“自由意志”が、神様の”選び”を「しかり、アーメン」と肯定し、受け入れるときに、初めて人は救われるのです。これこそはキリスト教教義の最大の神秘、奥義です。

 

しかしながら人間は、その罪のゆえに、この神の恵みと愛の最大のたまものを不法に用い、神を信じることを拒み、その選びを否定して、神に逆らう者となりました。その結果が、スポルジョンが断腸の思いをもってしたためた、このメッセージの最後の部分です。神様を信じない人間は、創り主なる神を、“負債者”=被造物にして不信者なる人間を創ったことへの負い目のある者、罪びととしているのです!

 

受難週を迎えるこの時、私たちは、この骨の髄まで自己中心な者を救わんとして、十字架に向かわれたお方のことを思います。最後まで愛をお示しなろうとして、ペテロ、ユダ、一人一人の汚れた足を、下僕のように洗われた主を思います。あなたには聞こえるでしょうか? 神様が今も、十字架のイエス様において限りなく自らを低くして、「あなたは、その自由意志で、私を受け入れてくださいますか?」と問いかけておられるみ声が――。

 

 

 

Free-will doctrine-what does it? It magnifies man into God. It declares God’s purposes a nullity, since they cannot be carried out unless men are willing. It makes God’s will a waiting servant to the will of man, and the whole covenant of grace dependent on human action. Denying election on the ground of injustice, it hold God to be a debtor to sinners.

 

-C. H. Spurgeon (1834-1892)-

 

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2015年

9月

30日

◆自由!◆

”(束縛からの)自由”は、誰もが生来持っている権利である。ある人は生まれついての物乞いかもしれない。ある人は、素性や親など全く分からない捨て子かもしれない。だが、この自由”は、誰も奪うことのできない、その人の“生得権”なのである。肌の色は黒いかもしれない。教育もなく、何も教わることのないまま生きているかもしれない。“貧困”を絵に描いたように貧しく、自分のものと呼べる土地のひとかけらも持ち合わせず、着るものと言えば、衣服などは皆無に等しく、身をかろうじて覆うほんの少しのぼろきれだけかもしれない。しかしながら、その貧しさのままで、造物主は彼を“(普遍的)自由”をもって装われた。彼には、この“自由である権利”があるのだから、もし彼が、生来の権利である“(束縛からの)自由”を得ていないのなら、それを勝ち取るまでは、満足してはならないのだ。

 

【解説】 彼が例として挙げた肌の色、物乞いや貧困の実態などに、貧民窟の蔓延していたイギリス、悲惨な奴隷制度解放の波が高まっていたアメリカの、19世紀という時代を感じさせますね。でもそれは、決して過去の遺物ではありません。今も、自由のための闘いは続けられているのです。“自由”と訳した原文には、free/freedomフリーとlibertyリバティーの二語が使われています。前者が、普遍的な自由、後者は様々な束縛・拘束からの自由ですので、カッコ内にそのように補訳してみました。スポルジョンの時代には、後者を使う割合が多く、現代では前者が多くなってきているのも、時代の流れです。この違いを踏まえて読むと、最後の彼の結論である、「人間は本質的に自由な存在(free)として創られたのだから、もし何ものかに拘束されて権利としての自由(liberty)を失っているなら、それを再び手にするまで、神の加護のもとに徹底的に闘うべし」という論旨もお分かりいただけると思います。併せてガンディーやマーティン・ルーサー・キングやマンデラのことを思い浮かべる方もおられるでしょう。そしてこの“自由”のテーマの究極の課題は、“罪からの自由”です。「全ての人は罪を犯している」(ローマ3:23)という現実を、自らの力で覆すことのできる人は、どんなに科学技術が発達しても、一人もいません。その死の縄目から私たちを解き放ってくださったのは、あの十字架と復活の主イエス・キリストだけです。聖書は、私たちにこの“自由”を与えることこそ、神様の救いの目的であったと言っています。ですから私たちは、どんなに感謝しても感謝し尽くせぬ思いをもって、信仰のゆえに与えられたこの無代価の恵みを、神様のために、愛のために用いなければならないのですね。

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」 (ガラテヤ513

 

Liberty is the birthright of every man. He may be born a pauper; he may he a foundling; his parentage may be altogether unknown; but liberty is his inalienable birthright. Black may be his skin; he may live uneducated and untaught; he may be poor as poverty itself; he may never have a foot of land to call his own; he may scarce have a particle of clothing, save a few rags to cover him; but, poor as he is, nature has fashioned him for freedom- he has a right to be free, and if he has not liberty, it is his birthright, and he ought not to be content until he wins it.


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