2020年

3月

16日

◆心の至聖所を守れ◆

あなたの内なる聖域、最も聖なる宮を、

外からの否定的なものに蹂躙させたり、汚染させたりしてはなりません。

そこは神様の住みたもう、あなたの魂のコア(神髄)なのです。

どんなことがあっても平安の内にとどまることによって、

あなたの“至聖所”を聖別し続けなさい。

 

【解説】 クリスチャン生活の中で、大切なことは幾つかありますが、私は、その中で最も大切なものは、“聖さ”であると思います。この世の中が、罪によって汚れれば汚れるほど、これはますます大切さを増してきます。残念なことですが、カトリックでもプロテスタントでも、表面はどんなに敬虔を装っても、一枚外の扉を開けると、そこには、多くの権力欲、性的支配、搾取などの罪が渦を巻いていると言っても過言ではありません。イエス様がパリサイ派、律法学者たちに向かって「汝ら、白く塗られた墓よ」(マタイ23:27)と怒られた偽善が、ほかならぬキリストの教会にはびこっているとしたら、教会の頭(かしら)である主の怒りと嘆きは、いかばかりでしょうか。その醜さに気づいた人々が、キリスト教につまずき、教会につまずき、背を向けて立ち去り、以来かたくなに信仰を拒み続ける現実を、私たちは心から悲しみ、悔い改めるべきです。今、下に掲げるみ言葉によって、一人一人が、言葉において、考え方において、行いにおいて、聖霊の泉に浸され、聖められなければなりません。そして、イエスのみ霊の住みたもうあなたの”至聖所”を、日ごとの献身によって聖く守り続けなければならないのです。

 

(Ⅰコリント 6:19) 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

(ヘブル 12:14) 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

(Ⅰペテロ1:15,16) 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」

(ローマ12:1) 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 

Do not allow outer negativities to penetrate and contaminate your inner sacred sanctuary, your hallowed space which is your core where the Divine dwells. Keep your Holy of Hollies consecrated by staying in peace no matter what. (by Soul2Soul)

0 コメント

2017年

1月

16日

◆”人間”を目指そう!◆

もし神が人となることを選ばれたのなら、私たちもまた、どれほど人間であろうと努めなければならないことだろう! “ことば”が肉体を取られた! イエスは、私たちの内に、“アダム”を回復しようとして来られたのだ! あのエデンの園の中で、私たちは信仰を失ったのではなく、自らの“人間性”を失ってしまった。信仰は人間がつくり出したものだが、人間性は、神が創られたものなのだ! キリスト・イエスの内にある人間性――これが、私の目指すゴールである。
~サミュエル・C・リー~

 

《石碑の文字》 「私には、人間は見える。だが、人間性が見えないのだ。」

 

(ヨハネ1:14) 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ガラテヤ4:19) 「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」

 

If God chose to become a human, how much more human we would have to be as well! The Word became flesh! Jesus came to restore us to Adamhood! In the garden of eden we did n't loose a religion, we lost our humanity. Religion is man-made but Humanity is God-made! Humanity in Christ Jesus is my Goal.
 -Samuel Lee

0 コメント

2016年

12月

17日

◆C.S.ルイス流「卵が先か」論◆

キリスト者は、「神様は、我々が善良だから愛するのだ」とは考えません。
神様が私たちを愛しておられるから、私たちを“善き者”に変えてくださるのです。
  ―C.S. ルイス

 

The Christian does not think God will love us because we are good, but that God will make us good because He loves us.

-C.S. Lewis

0 コメント

2016年

11月

20日

◆聖化に”結果オーライ”なし◆

その道程において聖くない者が、三重にも聖い神が栄光のうちにご自身を現される聖なる目的地にたどり着くことなど、できはしない。

 

【解説】 「三重にも聖い神」、面白い表現ですね。つまりスポルジョンは、“言葉に表せないほどの大いなる聖さ”を言っているのですが、そこには、三位一体の神のご性格が暗に表されています。聖い父なる神、聖い子なる神、聖いみ霊なる神の、三重の聖さの中にいましたもう神ということですね。
さて、私たちの社会では、「結果オーライ」「終わり良ければ全て良し」と言って、途中がどうでも、求められた成果さえ出せれば万事上々という、業績至上主義がともすればまかり通りますが、信仰者が歩む聖化の過程では、それは全く通用しません。なぜなら、日々の歩みを聖く保ち、神さまに喜ばれる生き方をしない限り、“キリストのかたち”は決して成らないからです。その意味では、私たちには、「千里の道も一歩より」「ローマは一日にして成らず」という格言のほうが、むしろ当を得ていると言えるでしょう。

もう一つ、この世の業績至上主義と聖化の道の違うところは、後者では、具体的・数字的な目標設定はできないということです。あなたの一日一日の、生けるイエスのみ霊と共なる歩み、そして、その時その時の、罪との戦い――悔い改めと、献身による勝利の積み重ねが全てなのです。そのように歩んだあなたの信仰生活の”実”として、気がついたらいつしか“聖い者”と変えられていた、というのが、神様の望まれる真の“聖化への道”だと私は信じています。

 

(Ⅰテサロニケ 4:3) 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」

 

He that is not holy on the way will not come to that holy end where the thrice holy God reveals himself in his glory.

0 コメント

2016年

11月

05日

◆聖性のシンプルテスト◆

聖さを愛する人は、世的な繁栄・成功のたぐいをうらやむいささかの理由も持ち合わせてはいない。

 

No one who loves holiness has the slightest cause to envy the prosperity of the worldling.

0 コメント

2016年

11月

02日

◆聖化への渇きを持て◆

私たちは、すべからく、傷や汚れのない人格を持つことを願わねばならない。
私たちは、このお約束が成就することを望まなければならないのだ。
(箴言10:7) 「正しい者の呼び名はほめたたえられる。」

 

We ought all to wish to have an unblemished character; we ought to desire to have that promise fulfilled, “The memory of the just is blessed.”

0 コメント

2016年

7月

04日

◆自家製人間は困りもの◆

 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―自家製人間は困りもの―

 

 

 

自力で己を仕上げた人間は、まずい仕上げ方をした者である。

 

 

 

【解説】 “自力で仕上げた”と訳した原語のself-madeセルメイドは、あのセルフサービス(自力給仕)と同じ用法です。“自作の/自己の力で成功した/独立独行の”人ということで、self-made manと言えば、“自分の腕一本で叩き上げた人、立志伝中の人、独力で叩き上げた人”ということです。そんな人は、この世では称賛され、模範とされますが、ひとたびキリストを信じた私たちには、はっきり言って間違った生き方です。“神の人”作製マニュアル(聖書!)には、セルフメイド法は入っていないのです。なぜなら、私たちは、イエス・キリストを信じたときに、もはや自分を中心に、自分の力で己を完成させる生き方を放棄して、100パーセント神様の支配権に己の身も心も委ねたからです。神様を知らずにいたときの私たちを導いたのは、自分自身=自我でした。聖書では、そのようにして自己完成を目指す人を“肉の人”と言います。それに対して、信じた私たちをコントロールし、導かれるのは、内なるみ霊です。このような人は“霊の人”と呼ばれます。霊の人は、残された人生の中で聖化の過程を歩み、その目指すゴールは、自らの内に“キリストのかたちが成る”ことです(ガラテヤ4:19)。

 

けれども、私たちのうちには、かのパウロさえ、「私はなんと言う惨めな人間だろう」とうめいたように(ローマ7:24)、生来の“肉”(己の力で救いを完成させようという律法主義)の力との間断なき闘いがあります。“霊”(み霊の力に寄り頼んで救いを完成させようとする、恵みと信仰による生き方)で始めたことを、再び”肉”で完成させようという誘惑は、死ぬまでなくなることはないのです(ガラテヤ3:114)。この誘惑に打ち勝つには、自分で闘うこと(セルフファイト!)ははなから捨てて、その誘惑の一つ一つをキリストの十字架に打ち付けることです。イエス様だけが、あのゲッセマネの園で、“自力で救いを完成させる(=神としての全能のお力で、時の権力者に勝利する)”誘惑に打ち勝ち、父なる神のみ心に従い、私たちの罪を身代わりに負って十字架で死なれ、復活され、約束の聖霊を送られることによって、私たちにまことの“救いの道”と共に、“霊によって救いを完成させる”道を開いてくださったからです。

 

(ガラテヤ 2:19,20 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

ここにのみ、私たちの勝利のカギがあります。この生き方に従い通すときにのみ、やがて私たちは主のみ前で、「Well done! よい仕上げをした!」と言っていただけるのです。

 

 

 

A man who is self-made is badly made.

0 コメント

2016年

6月

21日

◆み霊の働きなくば…◆

もし聖霊が心を新しくするのでなければ、我々はそうすることができない。

 

【解説】 たびたび申しますが、私たちの信じる神は三位一体の神様です。そんじょそこらの人間の頭が考え出した偶像神とは違うのです。その中で際立った働きをなさるのが、第三位格の聖霊です。それは、“人の心を変える”というお働きです。どんなに頑固な人も、あるいは極悪非道な人の心も、み霊がひとたび“この人の心を新しくしよう”と意志なされば、たちどころに変わるのです。私の義弟は、何事も理詰めの実証主義者で、“誰が救われてもあれは無理だろう”と思われていたのが、見事に変わりました。いえ、正しくは“変えられた”のです。羽鳥明先生も、よく弟の純二先生のことをそうおっしゃってましたね。「あのバリバリの共産主義者が…」と。

(Ⅰコリント12:3 「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」

このみ霊のお働きは、ひとたび信じた人のうちにも働きます。その人の心にお入りになって、その人の生涯にわたって、絶えず“新しく”変え続けられ、私たちのうちに、”キリストのかたち”をかたちづくってくださいます。これが“聖化”の働きであり、これによって、み霊の実を結ばせてくださるのです。

(ガラテヤ5:22,23 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

私たちは、この聖霊が人の心を“新しくする”お働きを、もっと大胆に信じなければなりません。私たちの人間的な力で人を変えようとしても、それは徒労に終わるだけです。あなたの愛する人の心を、そしていまだにかたくなな自分自身の心を、このお方の主権的ご意志に委ねて、「主よ、心を新たにしてください」と祈るのです。あなたはきっと、神様の驚くべきみ業をその目に見ることができます。

 

If the Holy Spirit does not renew hearts, we cannot do it.

0 コメント

2016年

5月

30日

◆手入れを怠ると実を結びませんよ◆

 

たまものは与えられるものですが、

 

その実は成長しなければなりません。

 

~リック・ジョイナー~

 

 

 

【解説】 そのとおりですね。“たまもの”とは“賜りもの”、己の業によらず、一方的な恵みとあわれみによって、神様から授かるものです。でも神様がたまもののをお与えくださるのには“目的”があります。それは私たちがそのたまものを用いて、豊かに実をならせるということです。見えざる神様が、いかにすばらしいお方であるかということを、そのたまものを十分に用いることによって、人々に証し=証明するのです。そこには、雨や嵐の日にも、焼き尽くす日照りの日にも、不要な枝の剪定や雑草取り、害虫の駆除、必要なときにたっぷり与える水やりと肥料などによって、やがて花開き、時が来ればたわわに実を結ばせる農夫の、絶え間ない努力と気遣いがマストです。そう、“与えるは神の性(さが)、実を結ばせるは人の汗”(これ、“小川語録”です。(笑))。神様の栄光のために、たまものをフルに生かし、努力と精進でさらに成長するのは、それを労せずに与えられた私たちの責任なのです。

 

 

 

(ヨハネ15:8 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

 

 

 

Gifts are given, but fruit must be grown.

 

-Rick Joyner-

0 コメント

2016年

5月

29日

◆聖潔への勧め◆

 

ああ、私のきょうだいだちよ、これまでにまして祈りに打ち込みなさい。

 

敬虔な心で、神をあがめることに時を費やしなさい。

 

これまで以上に熱心に、そして継続的に聖書を読みなさい。

 

自分の人生をもっと注意深く観察しなさい。

 

より神に近く生きるのです。

 

 

Oh, my brethren; be much more in prayer than ever. Spend more time in pious adoration. Read the Scriptures more earnestly and constantly. Watch your lives more carefully. Live nearer to God.

0 コメント

2016年

5月

05日

◆教会でもキリストに倣われよ◆

 

教会でもキリストのようでありなさい。あなたの群れの中には、デオテレぺスのように、人より抜きん出たい人がどれほどいるだろうか? どれほどの人が、教会では全ての人がきょうだいのように平等であり、そのように受け入れられるべきことが、全ての教会の基本的なルールであることを思い出す代わりに、仲間のクリスチャンたちの上に権威を振りかざし、力で従えようとしているであろうか? それならば、あなたがどのような群れに属していようとも、あなたは“キリストの心”を成し遂げるように努めなさい。あなたの教会員の同朋たちから、このように言わしめるのです。「あの人は、いつもイエス様と一緒です」と――

 

 

 

Be like Christ in the church. How many there are of you like Diotrephes, seeking pre-eminence. How many are trying to have some dignity and power over their fellow Christians, instead of remembering that it is the fundamental rule of all our churches, that there all men are equal-alike brethren, alike to be received as such. Carry out the spirit of Christ, then, in your churches, wherever ye are; let your fellow members say of you, “He has been with Jesus.

0 コメント

2016年

4月

30日

◆み霊によって歩むとは?◆

 

私たちは、神様と話す以上に、み霊によって歩くことはできません。

 

~マイク・ビックル~

 

 

 

【解説】 この言葉は、私たちがよく知っている、そして“信仰生活のキモ”とも言うべきみ言葉、「み霊によって歩みなさい」(下記ガラテヤ書)という聖書の勧めの大切さを、改めて考えさせてくれます。2つのポイントをお話ししましょう。

 

1つは、“み霊によって歩む”とは、どういうことか、ということです。み霊=聖霊は、言うまでもなく三位一体の神様の一位格で、信じる者の心の内に住みたもうお方です。このみ霊は、父なる神様のみ霊であり、子なるキリストのみ霊でもあります。キリストは、天に挙げられる前に、下記のみ言葉(ヨハネの福音書)のとおり、ご自身の代わりにみ霊をお与えくださると約束なさいました。したがって、私たちが「み霊によって歩む」と言うとき、それは今も生きて、あなたの内に在って働いておられる“内住のキリスト”の導きのもとに生きるということです。このお方がなされる様々な業の中で、最大のもの、そしてまたすべてのみ業の”集大成”とも言うべきものは、これも下記のみ言葉(ガラテヤ書)のように、私たちの内に“ご自身のご人格をかたちづくらせる”ということです。それは、具体的にはどういうプロセスでなされるのでしょうか?

 

それが2つ目のポイントです。その”聖化”のプロセスは、内に生きておられる内住のキリストとの、途絶えることのない“会話=祈り”によってなされるのです。それは、静思の時だけではありません。目覚めているときも、眠っているときも、絶えず、心を100パーセント、このお方にオープンにして、このお方のみ声を聴き、またあなたが話しかけることによってなされます。そして、これが今日の言葉のコア(中枢)ですが、私たちの、“み霊によって歩むこと”=“内住のキリストと共に生きること”➡ “私たちの内にキリストのかたちが成ることの達成度、成熟度は、私たちの神様との会話の程度=内住のイエス様との親密度に比例する、決してそれを超えることはないということです。

 

いかがですか? ただ頭の中で、み霊によって歩もうと観念的に願っても、それだけでは決してかなうことはありません。そのカギは、あなたの、日々、刻々の、内なるイエス様との会話=生きた交わりにかかっているのです!

 

 

 

(ガラテヤ5:16,25 「私は言います。御霊によって歩みなさい。… もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

 

(ヨハネ 14:16,17,20 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。…その方は、真理の御霊です。… その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」

 

(ガラテヤ4:19 「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」

 

 

 

We won’t walk in the Spirit more than we talk to Him.

 

-Mike Bickle-

0 コメント

2016年

4月

14日

◆起きよ、光を放て◆

 

(イザヤ60:1 「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」

 

 

 

今が起き上がる時、今が輝く時です。

 

今こそ、あなたの心の中に、時間の中に、感情の中に、

 

神の霊にお入りいただく時です。

 

~ウェス・ホール~

 

 

 

"Arise, shine; for your light has come!" (Isaiah 60:1)

 

It’s time to arise, it’s time to shine.

 

It’s time to let the spirit of God break in upon your heart, your time, your emotions.

 

-Wes Hall

0 コメント

2016年

4月

12日

◆霊的成長の証拠とは?◆

 

全てのことの中に”神”を見いだせる心の状態は、恵みと感謝の心における成長の証拠である。

 

~チャールズ・フィニー~

 

 

 

A state of mind that sees God in everything is evidence of growth in grace & thankful heart.

-Charles Finney-

0 コメント

2016年

4月

10日

◆罪の”自殺”◆

 

罪は、救い主を死に追いやったその時、実質的に“自殺”したのだ。なんとなれば、イエスの死は、罪の死となったからである。

 

 

 

【解説】 面白い、そしてちょっぴり衝撃的な言い方ですね。“罪の自殺”! 救い主、神のみ子を十字架につけたのは、人間の最大の罪ですが、その罪を犯した瞬間に、罪もまた自らを滅ぼしたというのです。なぜならキリストは、十字架で罪の支払う最大の報酬である死に打ち勝つことによって、罪に対して勝利宣告をなさったからです(ローマ6:23)。

 

そのイエス様を信じる私たちも、信仰によって罪に対して死んだ者となりました。このお方を信じた瞬間に、私たちの内でも、罪はもはや死んだのです。聖書はこう言います。

 

(ローマ 6:67,11 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。…このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 

これが、神様のみ前における、信仰者の“身分証明”です。けれども実際には、罪はいろいろなところで頭をもたげて、私たちを悩まします。この新しい身分にもかかわらず、しぶとく生きている罪の現実に、パウロ自身が、「私は、本当に惨めな人間です」(ローマ7:24)と絶望的なうめき声を上げました。この、内なる霊と肉との戦いは、主に召されるまで続きますが、その過程で、私たちは、少しずつ少しずつ、キリストのかたちに変えられていきます。罪はその力を次第に失っていくのです。これが“聖化”のプロセスです。しかし、この戦いには、一つ一つ、“勝利”を収めていかなければなりません。一つの小さな勝利が自信となって、次の勝利に結びつきます。そのカギは、自らの“肉”を、その戦いのたびに、罪の絶対的勝利者であるキリストの十字架に釘付けにすることです。執拗に迫る罪の誘惑の背後には、サタンがいます。このサタンに向かって、「私は罪に対して死んだ者だ。お前は私に対して、なんの力もないのだ」と、内なるみ霊の証印のもとに、この身分証明書を突きつけるのです。パウロは、この身分証明書に、このように記しました。

 

(ガラテヤ2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

これが、私たちの神学上の身分を、日々の生活の中で、実際に”証明”していくキーワードになります。勝利を目指すあなたの、主に在るご健闘を祈っています。

 

 

 

Sin virtually committed suicide when it slew the Saviour, for His death became its death.

0 コメント

2016年

4月

06日

◆”聖徒”の見分け方

 

“聖徒”と呼ばれる人物は、しばしばその人の“会話”によって見いだされるものだ。

 

 

 

【解説】 よく聞きますよね、「あなた、黙ってると賢く見えるんだけど」なんて! はい、このスポルジョンのひと言に奮起して、「よ~し、会話力に磨きをかけよう! 上品な言葉で、教養を前面に出して…」などとやっても、それは無理というものです。なんとなれば、技巧的に会話術を磨いても、それで聖徒が生まれるわけではないからです。言葉は、その人の人格そのものであり、生き方そのものです。そしてもう一つ、マザー・テレサも、他のどの聖徒にしても、本人は、自分がそうだなどとはつゆも考えてはいなかったのです。この言葉は、長い間に、そのように変えてくださった、内住のキリストのみ霊にのみ、お返しすべきものですね。

 

 

 

A saint will often be discovered by his conversation.

0 コメント

2016年

4月

03日

◆神様は決して あなたに飽きません◆

 

あなたは自分の人生に飽きておられるかもしれない。

 

…だが神様は違います! 

 

彼は、ご自身があなたの中になしておられることに、

 

限りなく心を躍らせておられるのです。

 

~ジョン・パイパー~

 

 

 

【解説】 あなたは、何かに興奮したときに、自分の心臓がドッキンドッキン高鳴っているのを感じたことはありませんか? 霊の世界でも同じことが起こるのです。あなたの中で、あなた以外の人格が(正しくは神格ですが)、生き生きと働いているのを感じる…。自分にはない、不思議な力が、魂の底から湧き上がってくる…。これはまさしく、内なるご聖霊の働きです。そしてそれは、あなたには時々感じられることかもしれませんが、ご聖霊は、ひとたび信仰告白をしたあなたの内にお入りになると、“限りなく”(無限に、継続的に)、その業をなさるのです。やがてあなたの内に、栄光のキリストのかたちなるまで――。そして、あなたが、自分のうちにあるそのご人格の働きに、どれほど敏感に、速やかに気づくようになるか、そこに神様は、あなたの聖化の跡をご覧になり、またまた心を躍らせられる(直訳は、“エキサイト: 興奮する”です!)ことでしょう。

 

 

 

You may be bored with your life – God is not! He is infinitely excited about what He is doing in you.

 

-John Piper-

0 コメント

2016年

3月

14日

◆あなたの”内なる王国”◆

 

その人が、“愛”を携えて

 

訪れるのでない限り、

 

あなたの“内なる王国”に、

 

誰をも入れてはなりません。

 

  ―アジャメ

 

0 コメント

2016年

3月

14日

◆聖潔の実◆

 

聖潔のうちを歩むことがもたらす”実”は、神様の愛を感じたり、体験する霊的能力が強まることです。

 

 

 

The result of walking in purity is that our spiritual capacity to feel or experience the love of God increases.

 

0 コメント

2016年

3月

07日

◆汝の罪、帳消しにされたり◆

 

神に義とされた人間として、神の書(聖書)には私を裁くただ一つの罪もない。もし私がこの神の永遠の書をひっくり返すならば、私はそこに、受け取られ、帳消しにされた、私の負債を洗いざらい見ることであろう。

 

 

 

As a justified man, I have not a sin against me in Gods book. If I were to turn over Gods eternal book I should see every debt of mine receipted and cancelled.

 

0 コメント

2016年

3月

06日

◆その罪、ホンモノのお医者さんにお任せなさい◆

 

私たちは、自分の罪について、自分自身で“手術”することをやめる必要があります。そうすれば本当の“医者”であられる方が、ご自身の腕を振るうことがおできになるのです。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

We need to stop practicing surgery on ourselves in ou sin, so that the true Physician can do His work.

 

-Joy Knight-

 

0 コメント

2016年

2月

28日

◆目が、涙が聖められたとき◆

 

◆信仰と希望と愛の庭で◆

 

―目が、涙が聖められたとき―

 

 

 

もしも“目”が魂をのぞかせる窓なら、“涙”は天に降る雨である。

 

~アンソニー・リシオーン~

 

 

 

【解説】 これは、陸軍の予備役に籍を置きながら、精力的に詩や記事をブログに投稿している現代アメリカの若き詩人の言葉です。彼は、…やはり詩人ですね。そしてキリスト者の私たちにとっては、この一節は、ある大切な真理を教えているような気がします。それは、私たちが聖霊のみ力によって聖められるとき、その聖潔は文字どおり“身も心も”、そう、目にも、涙にさえも及ぶということです。そうです、よみがえられたイエス様のみ体が、もはや地上のものではなかったように、それは依然として私たちの肉体の一部でありながら、それを超えて霊の世界をかいま見る器官に変えられているのだということです。私たちの目は、人の魂の内をまっすぐに見られるほどに、そしてあなた自身の人格を一目で見せられるほどに、澄んでいるでしょうか? そして魂のために流す涙は、たとえ悲しみと苦しみのさなかであっても、そのあとに来る主に在る喜びを信じて、天=神のみそばに差し出されているでしょうか?

 

 

 

If eyes are windows to the soul, then tears are heavens rain.”

 

Anthony Liccione

 

0 コメント

2016年

2月

27日

◆実を結ぶ◆

 

私たちは、二つのやり方で実を結びます。内に向かっては、私たちの性格(品性、人格、人柄)のうちに。外に向かっては、私たちの、他者に対して心から仕え、奉仕することの中に――。

 

 

 

【解説】 うちの教会に、“結実さん”というお嬢さんがいますが、ヨハネ15章から、キリストにつながって、豊かに実を結ぶようにというご両親の願いが込められた名前です。ぶしつけながら、あなたは、実を結んでいますか? 救われてから今までの、ご自分の性格の変化と、他者に対する態度の変化を見れば分かるとこの言葉の作者は言います。この実の結び方は、ぶどうの実の内側と外側になぞらえることができます。粒が小さくて、皮は硬い、実は酸っぱい…。これはまだ未成熟です。内ははかなり甘くなってきたけど、皮が堅い。人に敬遠されて、せっかくの甘い実を食べてもらえない。外は柔らかくなってきたけど、内側がまだまだ酸っぱい。だからひと口、口に入れてはもらえても、ペッと吐き出されてしまう…。⇒実も皮も十分熟して、黙っていても芳醇な香りを放ち、手に取ると「さあ召し上がれ」と言わんばかりに、弾力性があって柔らかい。一口かじると、「ぷちゅ!」と割れて、中の甘い果汁が口いっぱいに広がる…(なんか、よだれが出てきそうです!)。この二つのやり方は、統合性を持っています。持たなければなりません。カギは、…もちろん、イエス・キリストの太い幹にしっかりつながっていること、良き農夫である父なる神様から、日々み言葉によって養われ、実を結ぶ妨げになるエゴとか、無関心とかの余計な葉っぱなどを、いつも剪定してもらうことですね。そして、定期的にご自分でチェックしてみてください。「私、実を結んでるかな? 内側は? 外側は?」と――。

 

 

 

We bear fruit in two ways: inwardly in our character and outwardly in our ministry and service to others.

 

0 コメント

2016年

1月

29日

◆あなたの内なる王国◆

 

その人が、“愛”を携えて

 

訪れるのでない限り、

 

あなたの“内なる王国”に、

 

誰をも入れてはなりません。

 

  ―アジャメ

 

0 コメント

2016年

1月

14日

◆信じた人に与えられる義と聖さ◆

 

人に、キリストの”義”が転嫁されるとき、本質的な“聖さ”もまた与えられる。前者の”義”は、後者の”聖さ”によって、初めて確かめられ得るのだ。

 

A. W. ピンク~

 

 

 

Where the righteousness of Christ is imputed to an individual, a principle of holiness is imparted to him; the former can only be ascertained by the latter.

 

-A. W. Pink-

 

0 コメント

2016年

1月

07日

◆神は一流化学者の上をゆく◆

 

神は、化学者よりも賢くあられる。神は金を精錬なさるだけでなく、卑金属を貴重な宝石に変えられる。かくほどに、彼は、汚らわしさの極み、堕落の極みなる者を、栄光ある存在に変容させられる。かつては罪びとなりし者から聖徒を創り上げ、聖からざるものを聖めてくださるのだ。

 

 

 

God is more wise than the chemist: he not only refines gold, but be transmutes base metal into precious jewels; he takes the filthiest and the vilest, and fashions them into glorious beings, makes them saints, whereas they have been sinners, and sanctifies them, whereas they have been unholy.

 

0 コメント

2015年

12月

11日

◆”聖さ”とは◆

“聖さ”とは、私たちが、そのような者になるために、召されている事柄ではありません。それは、私たちがすでにそうであるがゆえに、なすべき事柄なのです。

~マーティン・ロイドジョーンズ~

 

(マタイ5:8 「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」

(ローマ12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 

Holiness is not something we are called upon to do in order that we may become something; it is something we are to do because of what we already are.

-Martyn Lloid-Jones-

 


0 コメント

2015年

12月

07日

◆肉には”ノー”、み霊には”イエス”◆

あなたが肉に対して“ダメ”と言い、み霊の内を歩むことに“はい”と言うたびごとに、あなたは、このお方への愛によって、イエス様の心を動かしているのです。

 

Every time you say no to the flesh and yes to walking in the Spirit, you move Jesus' heart by your love for Him.


0 コメント

2015年

12月

03日

◆聖化に必須な”磔刑宣言”◆

私たちが、自分の覆い隠された”ベール”を引き裂こうとして、内なる生活を“いじくり回す”のはやめようではないか。神が私たちのために全てをしてくださるのだ。私たちのなすべきことは、この身を明け渡して、信頼すること。私たちは、罪を告白し、それを捨て、自己中心の生活を拒否し、そしてそれらが十字架につけられたと、きっぱり断じることなのだ。

A. W. トーザー~


(ガラテヤ 2:20) 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

Let us beware of tinkering with our inner life, hoping ourselves to rend the veil. God must do everything for us. Our part is to ield and trust. We must confess, forsake, repudiate the self-life, and then reckon it crucified.

-A. W. Tozer-


0 コメント

2015年

11月

20日

◆聖なる者となさんとて(3)◆

◆今日の霊想◆

―聖なる者となさんとて(3)―

 

  1. ”聖性(聖くあること)”が大多数を駆り立てる力になったことは、ついぞありませんでした。けれども、それは、“神の国に入りたい”と願う者全てに対する神のご命令なのです。

  2. “父のみ心を行う”という一事に据えられた心は、決して恐れる必要も、敗北する必要もありません。

 

~エリザベス・エリオット~

 

【解説】 彼女のこの2つの言葉をつなぐもの、それは、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」という聖書の真理です(Ⅰテサロニケ4:3)。「父のみ心を行う」ことは、「聖くなる」ということだけではありませんが、その中心的なもののひとつであることは確かです。

 

  1. Holiness has never been the driving force of the majority. It is, however , mandatory for anyone who wants to enter the kigdom.

  2. The heart set to do the Father’s will need never fear defeat.

-Elisabeth Elliot-


0 コメント

2015年

11月

17日

◆聖なる者となさんとて(2)◆


  1. ”幸せになること”ではなく、“聖くなること”が、人間の第一の目的である。

  2. 人間の外側と実際の行動を決めるのは、“見えざるもの”と“霊的なもの”である。

  3. イエス・キリストは、1つの目的を持って人となられた。神に立ち返る道をつくることによって、人が神に創られたとおりの者、すなわち神ご自身の友、また愛する者として、み前に立つようにするためである。

    ~オズワルド・チェンバーズ~

    【解説】現代社会が、国内でも、国際的にも、日を追って破壊と混とんと暴力に支配されていくとき、信仰の先達たちの残した”聖性”への勧めは、いよいよ貴重になりますね。”聖くなる”ことが、キリストが召された「世の光、地の塩」であるための、絶対的な資格であることを、改めて心に刻みましょう。

  1. Holiness, not happiness, is the chief end of man.

  2. It is the unseen and the spiritual in people that determines the outward and the actual.

  3. Jesus Christ became incarnate for one purpose, to make a way back to God that man might stand before Him as He was created to do, the friend and lover of God Himself.

-Oswald Chambers-


0 コメント

2015年

11月

13日

◆C.S.ルイスが語る「お楽しみはこれからだ!」◆


  1. 私は、自分の内に、この地上で味わうどんな経験も満たすことのできない”願望”があることに気づいた。これについての、最も腑に落ちそうな説明は、“私は別の世界のために創られた”ということだ。

  2. 何ものも、まだ“真のかたち”を成してはいないのだ。
    (使徒321)「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」
    (ローマ 8:19 「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」

  3. “神が私たちのために最善を成してくださる”ということを、私たちは必ずしも疑っているわけではない。その最善がなされるときには、どれほどの痛みが伴うだろうかと、思い巡らしているのだ。
    (ローマ8:21,22,28 「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。…神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 

  1. I have found a desire within myself that no experience in this world can satisfy; the most probable explanation is that I was made for another world.

  2. Nothing is yet in its true form.
    "For the creation waits in eager expectation for the children of God to be revealed" (Rom. 8:19).

  3. We are not necessarily doubting that God will do the best for us; we are wondering how painful the best will turn out to be.
    "All things work together for good to those who love God" (Rom. 8:28).


0 コメント

2015年

11月

04日

◆罪の訴追者、一人だにあらず◆

神の書なる聖書には、私に立ち向かう罪はない。それらはキリストの血潮によって、全て、永遠に抹消され、彼ご自身の右の手によって無効とされた。私には何も恐れることはない。私を罪にとがめることはできない。(訳注:ローマ 8:33「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。」 それは神にあらず。彼は義としてくださったから。キリストにもあらず。彼は死んでくださったから。だが、私が「義とされた」と言う場合、誰がそうしてくださったのか? さらに加えよう。「私を私たらしめてくださった」と。“義認”は、徹頭徹尾、神のみ業である。”救い”は、主だけのものなのだ。

 

There is not a sin against me in Gods book: they have all been for ever obliterated by the blood of Christ, and cancelled by his own right hand. I have nothing to fear; I cannot be condemned. “Who shall lay anything to the charge of Gods elect?” Not God, for he hath justified, not Christ, for he hath died. But if I am justified, who made me so? I say “And hath made me what I am.” Justification from first to last, is of God. Salvation is of the Lord alone.


0 コメント

2015年

10月

30日

◆救い主の特性◆

もしも救い主が、あなたを聖別することなく、新しくもせず、罪に対する憎しみも、聖さへの愛をも与えなかったとするなら、彼はあなたのうちに、救い主の特性をなんら持ち合わせていないことになる。

 

【解説】 これは一種の反意強調で、事実は、救い主はこれらの全ての特性をお持ちのお方だということです。したがって、もしここに掲げられた救いの”実”が、一つでも結ばれていないとすれば、それは救い主の問題ではなく、私たちの救いの不徹底さの問題です。それらは、悔い改めと、内なるご聖霊様のみ力で、回復されていかなければなりません。

 

"If the Savior has not sanctified you, renewed you, given you a hatred of sin and a love of holiness, He has nothing in you of a saving character."


0 コメント

2015年

10月

28日

◆聖なるものとなさんとて◆


  1. 神は私たちの体をお創りになった。私たちは、“創った者の責任”云々で、このお方に不快感や怒りを覚えることは当たらない。神は、ご自身のみ手の業に対して、恥じることなど何もありはしないのだ。
    【解説】 「なんでこんな体に産んだの?」「生まれなきゃよかった」「産んでくれって頼んだ覚えはないぜ」私たちは、時としてこのような言葉を親に浴びせます。それは、不完全な自分自身に対する失望といらだちと不安のあまりの叫びなのですが、私たちが本当の創り主を知り、自分がこの世に存在することの意味を悟ったときに、初めて“生かされている”喜びに変わるものです。「こんな私でも、神様に愛されてる」「この体で、神様のすばらしさを証しできるんだ」「産んでくれてありがとう」と――。

  2. 自分の仕事が、”聖なる”ものか、“世俗的な”ものかを決めるのは、あなたが“何を”しているかによるのではない。“なぜ”それをしているのかによるのだ。“動機”が全てである。
    (Ⅰコリント人への手紙1031 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

  3. “個人的な信仰”が聖められるときに、“社会的な信仰”(訳注:教会のこと)は完全なものになる。“からだ”は、その個々の肢体が健康であればあるほど、ますます強くなるのである。
    (1コリント12:14-31参照)

     

    1. W. トーザー)

 

  1. God created our bodies, and we do not offend Him by placing the responsibility where it belongs. He is not ashamed of the work of His own hands.

  2. It is not what a man does that determines whether his work is sacred or secular, it is why he does it. The motive is everything.

  3. Social religion is perfected when private religion is purified. The body becomes stronger as its members become healthier.


0 コメント

2015年

10月

25日

◆キリストに目を転じた時◆

自分を聖めようとしていろいろ苦闘しても、繰り返し失敗する他なかった人は、もはや自分の魂をなんとかしようと“いじくり回す”のはやめて、“完全なるお方”に目を転じたときに、本当の“解放”を体験するであろう。彼がキリストを見続けている間に、長い間、なんとかやろうと試みてきたまさにそのことが、自分の中でひとりでにできているのだ。そのとき彼の中で、自分がどうすべきかを考え、それを行うために働かれるのは、神なのである。

A. W. トーザー~

 

The man who has struggled to purify himself and has had nothing but repeated failures will experience real relief when he stops tinkering with his soul and looks away to the perfect One. While he looks at Christ, the very things he has so long been trying to do will be getting done within him. It will be God working in him to will and to do.

-A. W. Tozer-


0 コメント

2015年

10月

23日

◆義とはせずとも正当化する◆

“業”は、神の前に人を義とはしないが、同輩たちの前で、自らの信仰告白を正当づけるものだ。

 

【解説】これは、キリスト者にとって大切な命題の一つであり、パウロとヤコブの神学の対比にしばしば用いられる、“信仰”と“業”との相関関係を、いかにも“論理を言葉で表す達人”のスポルジョンらしく見事に言い表した一節です。カギになる言葉はjustifyで、前半では「義とする」、後半では「正当づける」と訳しましたが、前半は、「人を神のみ前に義(正しい)とするのは、人の良き業・働きではなく、信仰のみである」というパウロ神学を表し、後半は、「しかし、信じたといいながら、それが良き業・働きとして表れない信仰は、まことの信仰とは言えない」というヤコブ神学を表しています。そしてこの両者は、いずれも聖書から導き出される、車の両輪として相互に補い合う“信仰”に関する真理なのです。

 

Although works do not justify a man before God, they do justify a man’s profession before his fellows.


0 コメント

2015年

10月

22日

◆命の冠◆

ああ、人よ、

力を尽くして神を信じなさい。

なぜなら、

希望は信仰の上に安らい、

愛は希望の上に、

勝利は愛の上に安らぐからです。

勝利のあとには報いが続きます。

―それは“命の冠”です。

けれども、この冠は、

永遠なるものの精髄なのです。

❤ハレルヤ!!!

 

【解説】個人的には、こういう文章は、内容の順序立てに頭を使うので、ちょっと大変なのです。たぶん皆さんも…と思って、順を追ってみますね。するとこうです――。

信仰⇒希望⇒愛⇒勝利⇒報奨“命の冠”(永遠なるものの精髄)

それにしてもこの絵、象徴的ですね。都の外で十字架につけられた主の頭には、いばらの冠。その冠から流れた血潮からは、かぐわしい真紅のバラが咲き、平和の鳩が世界に向けて飛び立つ…。

 

O man, believe in God with all your

 might, for hope rests on faith, love

 on hope, and victory on love; the

 reward will follow victory, the Crown

 of Life the reward, but the Crown is

 the essence of things eternal.

heart絵文字 Hallelujah!!! heart

*** AMEN ***


0 コメント

2015年

10月

22日

◆心に触れるということ◆

もしあなたが――

誰かの“人生”に触れるなら、それは“恩恵”です。

誰かの“心”に触れるなら、それは“祝福”です。

誰かの“思い”に触れるなら、それは“名誉”なことです。

誰かの“魂”に触れるなら、それは“勝利”です。

誰かの“霊”に触れるなら、それは“奇跡”です。

(ジェフ・ムラン博士)

 

【解説】はい、言うまでもなく、段階を追うごとに、その人との“触れ合い”は深まっていきますね。そして、最後の段階、その人の“霊”に触れるとき、私たちは天に新しい“霊の人”を加えることができますが、それはまさしく”奇跡”、人のできる業ではありません。私たちは、主のみ前に畏れを持って、ご聖霊がその人に触れてくださるように、そのためにこの欠け多き者を用いてくださるように祈りつつ、心を開いて接していかなければなりません。心も思いも魂も霊も持つ一人の人格は、神様がそのためにみ子を十字架につけられたほど貴いのですから――。

 

When you touch someone’s life – it is a privilege. When you touch someone’s heart – it is a blessing. When you touch someone's mind – it is an honor. When you touch someone’s soul – it is a triumph. When you touch someone’s spirit – it is a miracle.” – Dr Jeff Mullan


0 コメント

2015年

10月

20日

◆肉をみ霊に従わせる◆

  1. 私は、神のすばらしい“抑制を捨て去ろうとは思いません。神のみ言葉の中にあるご自身の見事な“境界線”を、私は抱きしめていたいのです。

  2. 私たちは、肉をもって肉を殺すことはできません。人間の意志の力は、たとえほんのわずかでも、聖霊の場所を奪い取ることはできないのです。
    (ヨハネ 14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

     

    ~コーリー・ラッセル~

 

  1. I dont want to cast off Gods wonderful restraints, I want to embrace Gods beautiful boundaries in His Word.

  2. We cannot kill the flesh with the flesh; No amount of will power can take the place of the Holy spirit.

-Corey Russell-

"But the Helper, the Holy Spirit...will teach you all things, and bring to your remembrance all things that I said to you" (Jn. 14:26).


0 コメント

2015年

10月

15日

◆あたしの心、こんなにきれいだといいけど◆

人を“測ろう”(評価しよう)と思ったら、その“心”を測りなさい。

 

To measure the man, measure his heart.

~ Malcom Forbes ~


0 コメント

2015年

10月

10日

◆見えるものと見えないもの◆

心と思いが”見えないもの”に焦点を当てるとき、私たちのうちに“見える変化”が表れ始めます。

そして、外側の人、目に見える人は、私たちが“目に見えない、隠れたキリストのご人格”に焦点を合わせた程度に応じて、キリストに似た者となるのです。

~アン・ヴォスカンプ~

 

【解説】 はい、キリスト者が生涯かけて目指す“キリストのかたちがなる”(ガラテヤ419)までの歩みは、「聖化」のプロセスですが、このキリストの麗しさは、お化粧と似ています。どんなに高価な化粧品を使って外側を装っても、内から現れてくるみ霊の実を結ばなくては、内なる美しさを外に表すことはできません。そしてその表れ方は、肉眼の目には見えないキリストに、どれほど深く確かに焦点を合わせたか、その程度に比例するというのです。ここまで書いたら、ふと、もう35年も前の富士フィルムの年賀状コマーシャルを思い出してしまいました。いわく「美しい人はより美しく。そうでない人はそれなりに。」 当時は、それを言ったご当人や、あの人、この人の顔を思い浮かべながら、大いに笑ったものでしたが、でもこれ、スピリチュアルの世界でも、真理ですね。これはまた女性に限ったことではありません。テレビで凶悪犯人の顔を見ると、「この顔じゃ、やるよなぁ」と思ってしまいます。”名は体を”ならぬ、“顔は心を表す”のです。キリスト者の”自分らしさ”は、すなわち“キリストらしさ”。それを外側に求めるむなしい努力は、今日限りやめましょう。そして、日々たゆみなく、み言葉にと祈りの中で、内なるキリストへの焦点をしっかりと据えて、歩んでまいりましょう。

 

When the heart and mind focus on things unseen, thats when theres a visible change in us.

And the outward and the visible only become like Christ to the extent we focus on the unseen and invisible person of Christ.

-Ann Voskamp-


0 コメント

2015年

10月

08日

◆大安心(3)◆

“神の書”なる聖書には、私を告発する一つの犯罪もない。それは永遠に消し去られ、清算されたのである。したがって、私は決して罰せられることはないのみか、罰せられる理由もない。キリストが私の罪のためにあがなってくださり、私は彼の“義”を受け取ったのだ。

 

There is not a crime against me in the book of God, it is blotted out for ever; it is cancelled; and not only can I never be punished, but I have nothing to be punished for. Christ has atoned for my sins, and I have received his righteousness.


0 コメント

2015年

10月

06日

◆大安心(1)◆

私に地獄はない。勝手に煙を上げ、燃え盛るがいい。私が信仰者である限り、そこに私の居場所はないのだ。私にとっては、永遠の拷問も、苦痛も存在しない。ひとたび義とされたからには、罪に定められることはあり得ないからだ。イエスが私の代わりに罰を苦しまれたのだから、私が再び罰されるようなことにでもなったら、神は不公平、不条理な方ということになる。キリストはひとたび苦しみを受けられ、それにより永遠に義の要求を満たされたからである。(続く)

 

For me there is no hell; let it smoke and burn, if I am a believer I shall never have my portion there. For me there are no eternal racks, no torments, for if I am justified, I cannot be condemned. Jesus hath suffered the punishment in my stead, and God would be unjust if he were to punish me again, for Christ has suffered once, and satisfied justice for ever.


0 コメント

2015年

10月

05日

◆全てはみ名のために◆

人を形成する要素の中には、それはまさしく“人間性”の一部であるが、神を賛美すべきでないようなものはない。しかり、ユーモアのセンスでさえも、いと高きお方に仕えるために、聖められなければならないのだ。
(訳 小川政弘)
(ひと言)ああ、ジョークを言っても、「おやじギャク、寒!」の代わりに「あの人の言うことは、ジョークまで聖い!」と言われるようにならねば…。
"There is no one part of a man’s constitution, which is really a part of his manhood, which should not praise God. Ay, even the sense of humor should be sanctified to the service of the Most High!"
0 コメント

2015年

10月

03日

◆心の変化も聖めも主の業です◆「

主は、あなたが自分自身の心を変えられないことも、自分自身の性質を聖めることもできないこともよくご存じだが、彼はまた、ご自分がそのいずれをもなし得ることを知っておられる。

 

The Lord knows very well that you cannot change your own heart and cannot cleanse your own nature,but He also know that He can do both.


0 コメント

2015年

8月

20日

◆卵が壊れるとき…◆

もし卵が、外からの力によってつぶされるなら、命は終わります。

 

もし卵が、内からの力によって破られるなら、そこから命が始まります。

 

“大いなること”は、内側から起こるのです。


0 コメント

2015年

8月

20日

◆少しずつ、時間をかけて◆

時間と、圧力と、忍耐を用いて、神様(直訳“宇宙”)は、イモムシを蝶に、砂粒を真珠に、石炭をダイヤモンドに変えられます。あなたもその過程にあるのですから、諦めてはいけません。今、あなたに何も起きていないからといって、決してこれからも起こらないということではないのです。(ルイーズ・スミス)

 

Louise Smith

 Using time, pressure and patience, the universe gradually changes caterpillars into butterflies, sand into pearls, and coal into diamonds. You’re being worked on too, so hang in there. Just because something isn’t happening for you right now, doesn’t mean it will never happen.


0 コメント

2015年

7月

29日

◆聖化の業を主に委ねる◆

私たちが、心を聖める業を神様にゆだねることは、このお方との交わりを深めます。

 

(箴言 22:11「心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。」


0 コメント

2015年

5月

08日

◆栄化、この確かな望み◆

「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか…を、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ118

----------------------------------------------

少しずつ効力が明らかになる、私たちの“召し”の望みは、神様の約束と、キリストが成し遂げられたみ業という土台の上に据えられており(Ⅰペテロ13)、これらのお約束が成就されることへの、確かな期待と、忍耐を伴う待望という性格を持っています。これこそは、キリストが再びおいでになる時、私たちがついに栄化され、神の栄光にあずかるということへの希望です。それが、この試み多き人生での、力と揺るぎなさの源になるのです。その結果として、この望みは、私たちを喜びで満たし、神に喜ばれる生き方をするように動機づけます。(ジョン・マッカーサーJr.

 

【解説】この頃は、マデレンさんが、私のタイムラインに「これ、日本の皆さんに紹介して!」と投稿なさるので、アクセスした方は、まずこの英文を読まれることになります。結果的に…、私は何が何でも翻訳しなければなりません!(笑) 

私たちの”召し”には、いろいろな意味合いがあります。入信への召し、職業への召し、結婚への召し、献身への召し…。そしてこれは、キリスト者の召しとしては、最も栄光に富んだもの、主の再臨の時の私たちの“栄化”への召しです。これこそ、“栄光の望み”ですね。この望みが与えられているからこそ、私たちはこのつらい世を、内なる喜びに満たされて、生きていけるのです。神様の備えてくださった、キリスト者の歩みとは、なんとすばらしいものでしょうか! (なお著者は、アメリカLAのマスターズ大学、神学校学長で、グレイス・コミュニティー教会の牧師、ラジオ放送牧師です。)

 

"I pray that... you may know what is the hope of [God's] calling."

 - Eph. 1:18

The hope of our effectual calling instills is grounded in God’s promises and in Christ’s accomplishments (1 Peter 1:3), and is characterized by confidently expecting and yet patiently waiting for those promises to be fulfilled. It is our HOPE of final glorification and of sharing God's glory when Christ returns. It is a source of strength and stability amid the trials of life. Consequently it should fill us with joy and motivate us to godly living.

~ John. MacArthur, Jr.

0 コメント