2020年

1月

15日

◆忘れえぬ あなたへ◆

この目で君を(あなたを)見ることは、もうできない。

この手で触れることも。

けれど、この心で

君を感じているよ/あなたを感じています。

とこしえに――。

【訳者ひと言】 私事ですが、昨年2月17日、妻が突然に天に帰ってから、間もなく1年になります。私の団体の教会でも、2人の奥様が敬愛する牧師であるご主人を亡くされました。FBフレンドのY姉妹も昨年、突然ご主人を主に召され、先日はI兄が、覚悟のことでしたが、最愛の奥様を見送られました。これを読んでいるあなたも、あるいは知っている方の中にも、そのような悲しみを抱えている方がいるでしょうか。でも、そのたびに、天には一人が増し加えられ、愛する人は今、霊となって主に在る眠りの中にいます。もはや体が届くことはない。でもこの心に“感じ”続けている限り、私たちの愛する人は生きています。やがて霊の体によみがえり、喜びの再会の日が訪れる、その日まで――。

I can no longer see you with my eyes, or touch you with my hands but I will feel you in my heart forever.

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2018年

5月

14日

◆死: このゼッタイ的な現実を前に◆

ちょっと立ち止まって、考えてください!

 

“人生”とは何でしょう? 私たち全ての人は、この世に生まれ、ある日、死んでいきます。“死”は、この点では差別しません。死は、あなたが何者であるか、どこの出身か、貧しいか金持ちか、移民かネイティブか、高学歴かなど一切 気にしません。私がこの目で人間を見て思うに、私たちは自分が思い込んでいるのとは裏腹に、この世界で最も進歩していない動物です。私たち人類を見てください。私たちは、破壊的な戦争を生み出す唯一の生き物です。他人(ひと)を憎み、赦すことができず、もっと欲しがり、心には怒りを蓄積させ、貪欲で、嫉妬深い者ですが、最後にはみんな死に、そこで全ては終わってしまうのです。

 人生とは、あえて生きにくくするに値するものでしょうか? 私たちが追い求め、探し求めたり憧れたりするもの、便利な道具や装置、富や所有物などの一切は、やがてある日、終わりを迎え、私たちはそのうちのどれ一つ、墓まで持ち込むことはできません。けれども一つだけ、いつまでも残るものがあります。それは私たちがこの世に名前と共に残す“自分”という遺産です。この世に何か“違い”をもたらすために、お生きなさい。

 

~サミュエル・リー~

 

Pause and Think for A While!

 

What is life about? We are all born and we all die one day. Death does not discriminate in this. Death doesn’t care who you are, were you come from, poor rich, migrant, native, or highly educated.

When I look at humans, I think, unlike what we believe, we are the least advanced creatures in the world. Look at us humans: we are the only creatures that creates destructive wars: we hate, we cannot forgive, we want to have more, we store anger in our hearts, we have greed, we are jealous, but in the end we all die and everything will be over.

Is life worth making it difficult? All the things we are chasing, looking after or longing, tools and gadgets, wealth and possessions, will finish one day, we cannot take them to our graves, but one thing will always remain and that is the legacy and the name we leave

behind. Live to make a difference!

 

—Samuel Lee

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2018年

4月

12日

◆スヌーピー的生き方◆

チャーリー「僕たち、いつかある日、死ぬんだよ、スヌーピー。」

 

スヌーピー「うん。でもその日の他は、ボクたち、毎日生きるもんね。」

 

【解説】 はい、少々センチメンタルなチャーリーに対し、あくまで楽天的スヌーピーです。どちらの言ってることも真実。違うのは、生き方の視点ですね。“死”に焦点を当てて、その日を恐れて、無気力に日々を生きていくか(チャーリーのことではありません)、その日まであと何日あるか分かりませんが、いつその日を迎えても悔いのないように、“生”に焦点を当てて、与えられた一日一日を精いっぱいに生きるか。聖書の勧める答えは、おのずと決まっています。なんといっても、私たちには、共に生きてくださる主イエスがおられますから―。

 

(ヨハネ14:19) 「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」

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2017年

11月

03日

◆ハレルヤ 死の恐れなし◆

“死の死”を死なれたお方を見つめ、頼る他に、本当に死の恐れから解き放てるものはない。

 

【解説】 「“死の死”を死なれたお方」。すみませんが、ちょっと分かりにくいでしょう? 原文を生かしつつ、なんとか日本語にしようと思ったら、これで精いっぱい。原文を直訳すると、「その死が“死の死”であられたお方」となります! “死の死”とは、動詞形にして「死に対して死んだ」「死を死なせた」と考えれば、少しは分かりやすくなりますね。そうです、イエス・キリストが、罪の究極の結果である“死”に対して、ご自身のあの十字架の身代わりの死によって、勝利を収められたことを指しているのです。死は一人の例外もなく、誰にも訪れますが、このお方に在って、私たちはすでに死の恐れから解き放たれているのです。パウロの勝利の叫びを、あらためて感謝のうちに聞きましょう。そして、この平安を、愛する人にも知っていただけるよう、“全力を注いで”(口語訳)証しの業に励みましょう。

 

(Ⅰコリント15:54-58)「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 

"There is no true deliverance from the

fear of death except by looking to him whose death is the death of death."

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2017年

10月

23日

◆墓のかなたの喜び◆

私たちは、一人また一人と、“死”による別れを嘆き悲しんできた。

だが私たちは、もはや墓場の存在しない、永遠の地へ行こうとしているのだ。

 

【解説】 私自身も、17年前に母を、15年前に義母(妻の母)を、7年前に義弟(妻の妹の夫)を、そして2年前に義兄(妻の兄)を亡くしました。それぞれに、生前良き交わりを頂き、かけがえのない家族でした。あなたにも、愛する人を亡くされた悲しみの記憶がきっとおありだと思います。しかもその記憶は、決してとどまることがなく、一つ、また一つと増えていき、やがて自分も、残された人の記憶の中に入る日が確実に訪れるのです。それが人の世のならいです。でも、主イエス・キリストを信じる者は、この地上の命を終えても、たちどころに“永遠の地”へ移されるのです。(“墓場の存在しない地”というスポルジョンの描写が新鮮で心に迫ります。)私たちは、かの地で、永遠に主と共に、主を賛美しつつ生きられるだけでなく、主にある人々と再び相まみえることができます。冷たい死の墓の向こうには、大いなる喜びが待っているのです。この希望の中に、愛する人を、一人でも多くくわえることができるように、今日もこの人のために、あの人のために、主にとりなしをせねばと祈らされます。

 

(ヨハネの黙示録21:3,4) 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

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2017年

7月

29日

◆死は懲罰か? 喜びか?◆

信仰者にとって、死は懲罰ではない。

それは、終わりなき喜びに入る門口なのだ。

 

(ピリ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

【解説】 先日、日野原重明先生が105歳の天寿を全うして、天国に凱旋されましたが、多くの天使たちに守られて、この“喜びの門口”を入っていかれたことでしょう。故古山洋右先生は、「死は天国への待合室」と言われ、末期がんの苦しみの中でも、感謝と喜びと賛美に包まれて、天に帰っていかれたそうです。私事ながら、私の母が召天してもう17年になりますが、その葬儀に来てくれた会社の女性の一人は、クリスチャンではなかったのですが、「こんな葬儀なら私もしてもらいたい」と言っていました。

クリスチャンにとって、なぜ死は裁きではないのでしょうか? それは生前善行を積んだからではありません。自らの自己中心と不信仰の罪を認め、イエス・キリストの身代わりの死と復活を信じて、罪を赦されたからです。信じない者にとっての、究極の裁きである“死”の縄目から解放されたからです。なぜ“終わりなき喜びへの門口”なのでしょうか? 主イエス・キリストと共なる永遠の命の世界に入れられるからです。愛する人と再会し、もはや死も悲しみも叫びもない世界で、永遠に主を賛美することができるからです(ヨハネの黙示録21:4)。この確信を持って、私たちは、この喜びの門口をいつでもくぐれるように、死と隣り合わせの人生を、天を仰いで生きてまいりましょう。

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2016年

8月

23日

◆メメント・モリ(死を覚えよ)◆

 

私たちは、生き始めた瞬間に、死に始めているのである。長年にわたって生長し続けている木は、やがてあなたの柩を造るために刈り取られることになる。あなた方 全てのために、芝生(訳注:棺を覆うための)は既に用意されているのだ。

 

 

 

The moment we begin to live we begin to die. The tree has long been growing that shall be sawn to make you a coffin. The sod is ready for you all.

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2016年

6月

05日

◆備えは、いかにや?◆

 

私は、死に対して備えている人が、あなた方の半分もいないのではと恐れる。それは本当だろうか? かく話している自分自身に尋ねよう、「私は我が創り主に、顔と顔を合わせて相まみえる備えができているだろうか?」と。 ああ、その場に座して、あなたの魂に、この厳粛なる自問自答をしてみられよ。皆さんそれぞれが、自分自身にこう問うのだ。「死への招きがあるときに、私に備えはできているか?」と――。

 

I fear not one half of you are prepared to die. Is that true? Yea, let the speaker ask himself the question, “Am I prepared to meet my Maker face to face? Oh, sit in your seats and catechise your souls with that solemn question. Let each one ask himself, “Am I prepared, should I be called to die?”

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2016年

3月

09日

◆メメント・モリ 死を覚えよ◆

 

これは多くの人がいつもは考えない事実だが、私たちは全て、ほんのしばらくののちには死ぬのである。

 

願わくは、私は突然に死にたいものだ。なんとなれば、突然の死は、突然の栄光だからだ。

 

 

 

It is a fact we do not often think of, that we shall all be dead in a little while.

 

I would to God that I might die suddenly, for sudden death is sudden glory.

 

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2016年

3月

06日

◆”死”とは何ものぞ◆

 

”墓”とはなんであろう? それはキリスト者が自分の身に着けていた衣服を浸して洗い清める浴槽のようなものである。”死”とはなんであろう? それは私たちが不死のための礼服を着る控えの間のようなものである。またそれは、かのエステルのように(訳注:エステル記2112)、主の抱擁にふさわしくあるように、己が身をかぐわしい香料入りの沐浴槽に浸す場所のようなものである。死は、“命”への門なのだ。私は死ぬことを恐れはしない。

 

 

 

The grave-what is it? It is the bath in which the Christian puts the clothes of his body to have them washed and cleansed. Death-what is it? It is the waiting room where we robe ourselves for immortality; it is the place where the body, like Esther, bathes itself in spices, that it may be fit for the embrace of its Lord. Death is the gate of life; I will not fear to die.

 

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2015年

12月

02日

◆”死”は恐怖か? 喜びか?◆

“死”は終わりなき喜びへの門だが、あなたはそこを入ることを怖じ恐れるのか? なんとまあ! 腐敗の温床から解放されるのが怖いと言われるか? ああ、そうは言わないでほしい。むしろ、喜々として身を横たえ、イエスのうちに眠られよ。そして祝福されんことを――。

 

Death is the gate of endless joys, and dost thou dread to enter there? What! fear to be emancipated from corruption? Oh! say not so, but rather, gladly lay down and sleep in Jesus, and be blessed.


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2015年

10月

10日

◆キリスト者の幸福感・死生観◆

キリスト者の最大の幸福は、聖くされることである。

突然の死は、突然の栄光である。

 

The greatest happiness of a Christian is to be holy.

Sudden death is sudden glory.


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2015年

8月

29日

◆厳粛な質問◆

もし今夜、あなたが教会の会衆席にいるとき、あるいはそこのバルコニー席で立っていて、その場で倒れて死んだとしたら、あなたはどこへ行くだろうか? 天国か、それとも地獄か?

 

If tonight you fell down dead in your pews, or where you are standing in the gallery, where would you be? in heaven or in hell?


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2015年

7月

06日

◆死と愛が残すもの◆

”死”は、誰も癒やすことのできない

心の痛みを残します。

“愛”は、誰も盗むことのできない

思い出を残します。

 

Death leaves a heartache no one can heal, love leaves a memory no one can steal.


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