2017年

8月

24日

◆どこまで言えてます?◆

「すみません」は“言葉”です。

「もうしません」は“約束”です。

「どうやって埋め合わせたらいいでしょうか?」は“責任”です。

 

【解説】 3つの言い方は、過ちを犯した人が、それをどれほど悔いているかの程度を表します。それに比例して、相手の人の“赦し”の程度も深まります。そしてそれは、その後の二人の関係の深まりの程度にも通じるのです。イエス様はこう言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9) “平和”は、黙っていてもそこにあるものではありません。“つくらなければ”ならないのですが、それを実践するのはいかに難しいことか。“平和”というのは、“自分は正しい”と思っている人の間には決して成立しません。国家間においても同様です。それは、へりくだって、自分の非を心から悔いて、進んでそれを償おうとする人の間に、初めて生まれるのです。最後の“責任”という言葉の原文responsibilityは、たとえどんなに負担になっても償おうとする、具体的な強い意志を伴った言葉です。あなたは、どこまで言えてますか? それが、あなたを“平和をつくる人”にするカギです。

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2016年

6月

21日

◆”山上の垂訓”の意味するもの◆

 

“山上の垂訓”は、クリスチャン社会がどのように見え、また反映しているべきかを示す、最も明瞭な掟である。

 

~ステュアート・グリーヴズ~

 

 

 

(マタイの福音書)

 

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 

 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

 

 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

 

 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

 

 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

 

 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

 

 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 

 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 

 The Sermon on the Mount is the clearest prescription of what Christian community should look like and reflect.”

 

—Stuart Greaves

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