2017年
8月
24日
木
「すみません」は“言葉”です。
「もうしません」は“約束”です。
「どうやって埋め合わせたらいいでしょうか?」は“責任”です。
【解説】 3つの言い方は、過ちを犯した人が、それをどれほど悔いているかの程度を表します。それに比例して、相手の人の“赦し”の程度も深まります。そしてそれは、その後の二人の関係の深まりの程度にも通じるのです。イエス様はこう言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9) “平和”は、黙っていてもそこにあるものではありません。“つくらなければ”ならないのですが、それを実践するのはいかに難しいことか。“平和”というのは、“自分は正しい”と思っている人の間には決して成立しません。国家間においても同様です。それは、へりくだって、自分の非を心から悔いて、進んでそれを償おうとする人の間に、初めて生まれるのです。最後の“責任”という言葉の原文responsibilityは、たとえどんなに負担になっても償おうとする、具体的な強い意志を伴った言葉です。あなたは、どこまで言えてますか? それが、あなたを“平和をつくる人”にするカギです。
2016年
6月
21日
火
“山上の垂訓”は、クリスチャン社会がどのように見え、また反映しているべきかを示す、最も明瞭な掟である。
~ステュアート・グリーヴズ~
(マタイの福音書)
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
“The Sermon on the Mount is the clearest prescription of what Christian community should look like and reflect.”
—Stuart Greaves