2019年

11月

29日

◆not 自己信頼but神信頼◆

キリストにとどまることによってのみ、私たちは、自分であること、自分の言うこと、自分のすることに確信が持てます。これは“自己信頼(自信過剰!)”とか、“自尊心(うぬぼれ!)”(世はこう呼びます)ではなく、むしろ“神信頼”、“キリスト尊心”と呼ぶべきものです。

~ナンシー・ミスラ―~

(ピリピ 3:8,9) 「…それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義を持つことができる、という望みがあるからです。」

【解説】 多くの人は、自分の存在に自信が持てなくて、苦しんでいます。セルフイメージが、驚くほど低いのです。それに比例して、周りの人の自分を見る目が気になります。セルフイメージが低ければ低いほど、周りが気になり、悩むのです。その対極にあるのが、やみくもに自分を頼り、究極的には自分を神格化して、他者を不幸に陥れるエゴイズムです。家庭内の悲惨なDVから、日本ではオウム真理教の教祖、はたまた世界征服の妄想に走ったヒトラーに至るまで、その根は同じです。いずれの場合も、その本当の理由は、”自分”という存在をこの世に生み出したお方を知らず、そのお方に信頼し、自己存在の絶対的な根拠として、そのお方の愛の内にとどまるすべを持っていないからです。

 他者と比較することなく、自由に、安らかに、“自分自身”でいられること。そこに、人間本来の、本当の生き方があります。そのためには、どんな場合も、迷わず、ぶれず、「キリストにとどまる」。ここにあなたの“揺るぎない存在”の根拠があるのです。

(訳者の舞台裏、ひと言: 原文の"God-confidence" "Christ-esteem"はいわゆる”造語”です。そうなると、翻訳者も、日本語で造語せざるを得ません。“神信頼”はいいとして、“キリスト尊心”! いかがでしょうか?)

(ヨハネ15:5,9,10) 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。…父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」

Only by abiding in Christ will we gain confidence in who we are, what we say and what we do. This is not "self-confidence" or "self-esteem" (as the world calls it), but rather "God-confidence" and "Christ-esteem".

✏ Nancy Missler

"...that I may gain Christ, and may be found in Him, not having a righteousness of my own...but that which is through faith in Christ..."

📖 Philippians 3:8-9

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2017年

8月

19日

◆信頼―このかけがえなきもの◆

「信頼」は、

打ち立てるには“何年も”かかるが、

崩すにはほんの“数秒”で十分、

回復するには“永遠”の時が要る。

 

Trust takes years to build, seconds to break and forever to repair.

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2017年

4月

01日

◆信頼された、そのときは◆

―信頼された、そのときは―

誰かがあなたに信頼を寄せるとき、その人はこう言っているのです。
『あなたが一緒なら、私は大丈夫。』
その信頼を打ち砕いてはなりません。
それを正しく受け止め、感謝なさい。
~ドディンスキー~

【解説】 ”信頼”。美しい響きを持つ、私の好きな言葉の一つです。あなたはどうですか?
そして、それを端的に言い表した言葉、「あなたが一緒なら、私は大丈夫。」――これも、心の琴線に響く言葉です。これは「あなたと一緒にいるなら、私は安全(原意)、何も怖くない。生きていける。」ということです。あなたは誰かにこう言われたら、どう思いますか? どうしたいですか? それを示したのが、続く2行です。
(1) 一つは、“信頼された者の責任”です。その信頼を、私たちは決して裏切ってはならないのです。人の信頼に応えず、それにふさわしくない言動をとり、その結果、相手を傷つけ、悲しませることは、たとえそれで法の制裁は受けないとしても、私たちを“信じて生きる者”として創られた神の前には、万死に値します。その罪を犯したことを主に示されたときは、私たちはどんな犠牲を払っても、たとえ一生かかっても、その償いをしなければなりません。
(2) もう一つは、“信頼の受け止め方”です。自分はこれだけのことをやっているのだから、信頼されて当たり前、と考えるのは人間の傲慢です。原文のappreciateが意味するところは、①こんな取るに足らない者を信頼してくれた相手の人の心の広さ、人を見る目の確かさと温かさを尊敬し、評価し、称賛することであり、②決して誇るためではなく、さらに信頼される者となるために、自分の何が、どういうところが信頼してもらえたのかを正しく知ることであり、③その信頼を神様からの“ご褒美”として、ありがたく受け入れ、心から感謝することです。 そして、み前にこう祈りましょう。(ルカ17:10)「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」

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2016年

11月

18日

◆信仰版”お言葉に甘えまして”◆

人生には、君がどうやっても負いきれない重荷って、確かにあるんだよ。
君の主は、それを丸ごと下に降ろして、彼に信頼してみないかと聞いておられる。
彼の申し出に、ひとつ甘えてみるのも、いいと思わないか?
~マックス・ルケード~

 

"There are certain weights in life you simply cannot carry. Your Lord is asking you to set them down and trust Him. What do you say we take God up on His offer?"
– Max Lucado

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2016年

4月

04日

◆イエスが見えなくなった時こそ◆

 

イエス様がほとんど見えなくなる苦しみのときは、

 

かつて一度もなかったほどに、

 

イエス様を信じてお任せするときです。

 

~アレン・フッド~

 

 

 

The time of trouble when Jesus is the least visible is the time to trust Jesus like never before.

-Allen Hood-

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2015年

11月

05日

◆失望したときは◆

あなたをがっかりさせること、それは、

「もっといいものを用意しているよ」という

“神様流”のメッセージなのです。

 忍耐なさい…

   信仰を持ちなさい…

     神様を信頼なさい…

 

【解説】思ったとおりにならなくて、ポケットに手を突っ込んで、うなだれて(ふてくされて?)歩いている男の子の姿は、思わず笑いを誘いますが、この後ろ姿、たぶん神様の目から見た私たちですよ!

 


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