2020年

5月

06日

◆信仰の先達の声に聴く◆

1.《罪: 欲望か、真理か》

“罪”とは、私たちの人生が、

”真理”によってではなく、“欲望”によって支配されているということである。

~D.M. ロイドジョーンズ~

Sin means that our lives are governed by desires and not by truth. D.M. Lloyd-Jones

2.《罪: 見過ごされる罪の災い》

なすままに許される罪ほど、

心の目をかくも暗くさせ、

良心をかくも鈍らせるものはない。

~J.C. ライル~

Nothing darkens the eyes of the mind so much, and deadens the conscience so surely, as an allowed sin. – J.C. Ryle

3.《選び: すでに主に見いだされてあり》~スポルジョン①

キリストを探し求める人々は、

既にこのお方に探し求められているのだ。

【解説】これは、古くはカルヴァン、そしてスポルジョンもまた強調した“神の選び”の教理です。救いは、私たちの“信仰”によりますが、それを神様から見れば、ご自身の主権的な恵みの“選び”に基づきます。キリストは天地の創られる前から私たちを探し求めて救いにお選びになり、その私たちの心に主を求める思いをお与えになるのです。値なき者に対する神の選びと召しは、けだし神秘の奥義です。

(エペソ 1:4,5) 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

They who seek Christ are already being sought by Him. – Charles Spurgeon

4.《救い: 神のあわれみは一切えこひいきなし》

もし神が、それに値する者たちにだけ、あわれみを示されるなら、

あわれみを示す人は、一人もいないであろう。

~トマス・ワトソン~

If God should show mercy to such only as are worthy, He would show none at all – Thomas Watson

5.《証し: 福音の証人として生きる》

あなたは、罪びとたちに、

「あなたは神様から和解していただけるのです」と語るために、

この世に生かされているのです。

~ジョン・マッカーサー~

You live in this world to tell sinners, “You can be reconciled to God. “ – John MacArthur

6.《信仰: 神は“常設”の避けどころ》

私たちに、みもとに行ける神がおられることは、

試みに悩む日の大いなる慰めである。

~マシュー・ヘンリー~

It is a great comfort in a day of trouble that we have a God to go to. -Matthew Henry

7.《祈り: “主よ”と呼びまつれ》~スポルジョン②

祈りを聴かれる方に心を強められて、かく祈れ。

「主よ、我が心を清めたまえ。

主よ、我が心を新たにしたまえ。

主よ、我が心に悔い改めを起こさせたまえ。」と――。

Take your heart in prayer to Him who understands it and say, “Lord, cleanse it, Lord, renew it, Lord, work repentance in it.” -Charles Spurgeon

8.《聖化: み顔の輝き》

キリストの内に、

我らのごとき貧しく、ふさわしからざる罪びとの前に、

恵みと優しさに満ちて、

神のみ顔は輝きいでたり。

~ジョン・カルヴァン~

In Christ, God’s face shines out, full of grace and gentleness to us poor, unworthy sinners. – John Calvin

【解説】ここにご紹介した7人は、16~20世紀に生きた偉大な信仰の先達です。彼らの言葉の中に、私たちがしっかりと受け取り、継承してゆくべきキリスト教信仰のコア(真髄)が込められています。けれど私は、情報量が加速度的に増え、生活と価値観が多様化している現代の中で、これらの真髄がかなり甘くなっているのではないかと危惧します。とりわけ、“罪”に対する許容度が、時代と共に大きくなっているのではないでしょうか? 神のみ言葉に照らし合わせて、悪いものは悪いと断ずる厳しさと、多様な生き方の中でキリストの聖さを求める清廉さを失ってはならないと、自らに言い聞かせています。

 

【FBギャラリー】No.138 マイケル・デュダッシュ「祈りの平安」

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2020年

5月

04日

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

我が愛する友よ、私はいまだに貧しい罪びとで、救われた最初の日にそうしたように、今も毎日、キリストに頼らなければならない。私と思いを同じくされよ! 私と一緒に来られよ! ある雪の朝、私があの方を見上げ、心を光で照らされてから、多くの歳月がたった。この雪の夜、ここにおられる幾人かの魂もまた、彼を待ち望み、生きられんことを!

【解説】 彼がここで触れている、自身の回心の話は有名ですね。1850年12月15日の日曜日、16歳でまだ信仰を持っていなかった彼は、突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでプリミティブ・メソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験しました。その時、彼の心を刺し貫いた聖書の言葉は「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザヤ書45章22節)でした。以来、1892年、58歳で召されるまでの40年余り、彼は19世紀イギリスの産んだ大伝道者として多くの魂を主に導くのですが、彼は死ぬまで、この16歳の吹雪の朝のキリストへの献身の思いから離れることはありませんでした。様々な試練の中にあっても、彼はいつもこの“原点”に立ち返って、キリストから新たな力を与えられたのです。私たちが、何よりも彼から学ぶべきものは、この徹底した“キリストへの信従”です。

なお、この優しそうな(!)顔写真は、私の知る限り、初めてのものです。

(ヘブル 4:12) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

(黙示録2:10) 「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

My dear Friend, I am still a poor sinner and I have to look to Christ every day as I did at the very first. Come along with me! Come along with me! It is many, many years since, on a snowy morning, I looked to Him and was lightened. I wish that, this snowy night, some soul here would look to Him and live!

【祈り】

み父よ、キリストを通して私に救いをお与えくださり感謝します。キリストをいつも私の人生の中心に据えることができるように助けてください。私は、キリストを通して自由に、満ち足りて生きる道を選びます。この世の出来事を超えて、このお方に信頼することを選びます。キリストの内にのみ、私は満ちあふれる人生を見いだします。み父よ、ありがとうございます。イエス様の力あるみ名によって祈ります。アーメン。

Father, thank you for gifting us with salvation through Christ. Help me to keep Jesus in the center of my life. I choose to live freely and fully through Christ. I choose to trust in Him over the things of the world. In Christ alone, I find abundant life. Thank you Father. In Jesus’ Mighty Name, AMEN!

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2019年

11月

21日

◆神の人たるの資格◆

1.《無条件に神に愛される人》

キリストは、あなたの良き行いのゆえに、あなたを愛したのではない。良き行いは、神があなたを愛するきっかけとなった理由ではない。

それゆえ、現在でも彼は、あなたの良き行いのゆえに、あなたを愛するのではない。良き行いは、神があなたを愛し続ける理由ではない。

キリストは、あなたを愛する意志のゆえに、あなたを愛するのだ。

【解説】 あなたのために命を捨てた十字架のキリストに現された神の愛は、天地の創られる前にあなたを救いに選ばれた時も(エペソ1:4)、現在も、そしてあなたをご自身と同じ栄光の姿に変えてくださる未来も、あなたの良き業によるのではありません。「私はあなたを愛すると決めた。故にあなたを極みまで愛するのだ」という神様の絶対的ご意志と主権によるのです。このような愛は、地上には存在しません。これは神様の“絶対愛”です。この愛を知ったら、私たちは、自らの汚れと、そのあわれみのかたじけなさに、ただ恐れおののきます。そして、あの詩篇の記者のように、「あなたはなぜこのような者を顧みられるのですか?」と叫ばざるを得ません(詩篇8:4)。そして、この愛にほんの少しでも報いるために、ひたすら良き業に励むのです。それが、神があなたを愛する理由ではなく、神へのあなたの感謝の応答であることを、神にも人にも示すために――。

(エレミヤ31:3) 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

Christ did not love you for your good works,--they were not the cause of His beginning to love you;--so He does not love you for your good works even now; they are not the cause of His continuing to love you. He loves you because He will love you.

 

2.《神によって教会に遣わされた人》

熱心で、疲れをいとわず、神(聖霊)の油注ぎを受け、“魂の漁(すなど)り人”となるべく主の教えを受けた人。

このような人が、教会に遣わされることに勝る大いなる祝福を、私はついぞ知らない。

【解説】 日本の教会の働き人が減っています。高齢化して第一線を退かれる人が増えているのに、新しい献身者が少ないのです。スポルジョンが“最大の神の祝福”と呼ぶ神の人が一人でも多く与えられるよう、私たちは膝をかがめて祈らなければなりません。それと共に、私たちは、あのイエスに香油を注いだマリアにならなければなりません。キリストの体なる教会に遣わされた者の一人として、私たちにも、「自分にできること」があるのです(マルコ14:8)。キリスト者は、例外なく、主に仕える小さな“神の人”なのですから――。

(マタイ 9:37,38) 「そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

I scarcely know of any greater blessing to the church than the sending forth of earnest, indefatigable, anointed men of God, taught of the Lord to be winners of souls.

 

3.《み霊の導きに従順な人》

もし私たちがキリストに従順でないなら、ご安心あれ、私たちはキリストのみ霊を持っていないのだ。そして私たちは、キリストのものではなくなる。

(ローマ8:9) 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

(エゼキエル 36:27) 「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

(ルカ 9:23) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

【解説】 「ご安心あれ」と言われて、「?」と思うのはいいですが、素直に安心しないでください! これは「間違いなくそうなる」という、スポルジョン流の痛烈な皮肉なのです。イエス・キリストを主、救い主として告白した者は、即、“神の人”です。キリストのみ霊が、その瞬間から、あなたの心の奥深くに内住されます。そして、み霊のコントロールのもと、私たちはキリストに服従する者になります。そこには、主に従わず、安楽な道を行かせようと誘惑するこの世との闘いも生まれます。それでも、本当にキリストのみ霊を持っている人は、キリストに従うのです。前者があって後者がない人は、うわべだけの信仰者であり、“キリストのもの”ではありません。罪と弱さのゆえに、キリストに従いきれなかったときは、内住のみ霊が、必ず認罪と悔い改めに導かれます。これが真に“キリストのもの”とされた動かしがたい証拠です。それがほんとの“ご安心あれ”ですね。

If we are not obedient unto Christ we may rest assured that we have not the Spirit of Christ - and are none of His [Romans 8:9]."

Charles Spurgeon (Joshua's Obedience)

"I will put My Spirit within you and cause you to walk in My statutes, and you will be careful

to observe My ordinances." - Ezekiel 36:27 ".FOLLOW ME” - Christ (Luke 9:23] - 

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2019年

10月

30日

◆スポルジョンの語る子育てと死への備え◆

1.《子は父のどこを見て育つか?》

子どもたちは、父の“悪”をまねる。

父の“悔い改め”をまねることは、ほとんどない。

【解説】 これが現実です。“悪”と訳したviceヴァイスには、「悪徳、悪癖、悪習、性格の欠点、弱点、堕落行為」など、父親の持ちうる“悪”が網羅されています! 子はそれをまねるのです。考えてみたら、家庭教育で、これほど恐ろしいことはありません。だからこそ、父親は、子どもの前で、妻に、子どもに、心から謝るべきなのです。それは父親が己のプライドに打ち勝って示す最大の“勇気”であり、その勇気は、子どもの心を打たずにはおきません。その最大の報酬は、子どもからの“尊敬”です。

Children will imitate their fathers in their vices, seldom in their repentance.

 

2.《叱る時に叱って“頭痛の種”を摘み取れ》

もし私たちが、小さな子どもたちを叱ることで頭を痛めないなら、

彼らが成長した時に、絶えない頭痛に悩まされるだろう。

【解説】 はい、子どもは、叱るべき時に、しっかり叱るのです。それは頭も心も痛むことです。でも、子どもを甘やかし、過保護にし、人として絶対にしてはならないこと、言ってはならないことを教えず、「誰も見ていなくても、神様は見ているのよ」と、見えざるお方を畏れることを教えないなら、子どもが成長してから、その何十倍もの苦労をすることになります。子どもが大きくなった分、ゆがめられたままの性質もゆがみを増し、親は毎日泣きながら、頭を抱えることになるのです。少子化の現代、その可能性は、ますます増しています。大人社会のあまたの悲劇は、子育ての”頭痛”を恐れて手を抜いたことに原因があることを、親だけでなく、私たち全ての大人が心に刻まなければなりません。

If we never have headaches through rebuking our little children, we shall have plenty of heartaches when they grow up.

 

3.《スポルジョン流”メメント・モリ”(死を覚えよ)》

“死”に備えない人間は、並のバカではない。

その人は正気を失っているのだ。

【解説】 2行目のmadman、“穏やかに”訳しましたが、直訳すると、「気違いだ」となります! 神のメッセンジャー、スポルジョン、人の頭でなく心の愚かさには、ハンパなく手厳しいのです。また私事になりますが、この2月に妻が突然、一夜にして召天した時は、本当に衝撃でした。妻の体を抱きしめて、「主よ! なぜですか?!」と絶叫したのが、昨日のようです。その時から、”死”は、私の最も身近なものになりました。クリスチャンも死ぬ。しかも、何の前触れもなく、想像もしなかったときにも、”神の時”が来れば、死ぬのです。この私も、それまでは、「あと10年は大丈夫。いや、主許したまわばあと15年は…」と思っていたのが、今、この瞬間にも召されるかもしれないという現実を、愛する者の亡骸は、冷然と教えてくれました。

年を経た者だけでなく、まだまだこれからの人たちも、毎日、“死”と隣り合わせて生きています。ただ気がつかないだけ、考えようとしないだけです。でも、死の瞬間には、もう私たちは生きてはいない。この当然の事実を、私も、あなたも、もっと真剣に考えなければいけません。しなければならないのに、「今忙しいから、もう少し時間の余裕ができたら」と思っていることはありませんか? 「あの人に、どうしても謝らなければ…。この感謝を伝えておかなければ…」と思っていることはありませんか?――それが、“死に備える”ということです。財産の処分方法を遺言に書き記すだけが、死への備えではありません。これは“生き方”の問題です。「たとえ明日、世界が滅びると知っても、私は今日、リンゴの木を植える」と言ったのはルターだと言われていますが、私たちも、明日は来ないつもりで、今日の一日を後悔なく生きることです。

He who does not prepare for death is more than an ordinary fool. He is a madman.

 

(写真)2枚ともスポルジョン。右は34歳、妻と。

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2019年

9月

16日

◆キリストが全て◆

(ピリピ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

1.《俗の中で聖を生きる》

神を志向して生きる者には、俗なるものは何もない。全てが聖いのである。

【解説】 短い言葉ですが、これが、キリストの血潮によて洗い清められ、ひとたび罪の世から贖い出されて、再び罪の世に証し人として送り出されている私たちの生き方を決める基本的な信条です。「神を志向する」とは、優れて「神の聖さを志向し、その聖さの中に自らを置く」ということです。そしてその聖められた神の視点でこの世を見るとき、全ては聖く見えるのです。”聖さ”の中に、“罪”は入り込むことができません。

(Ⅰペテロ 1:15,16) 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」

(テトス 1:15) 「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」

To a man who lives unto God nothing is secular, everything is sacred.

 

2.《キリストの部屋をつくる》

もしあなたがキリストのための部屋をつくるなら、その日からのち、この世はもはや、あなたのための部屋を持たないことを覚えておきなさい。

【解説】 これは、上記1.の姉妹編です。そしてまた、あのガラテヤ2章のハイライトの言葉を、スポルジョン流に、分かりやすく言い換えたものです。このみ言葉と共に味わってください。

(ガラテヤ 2:19,20) 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

If you have room for Christ, then from this day forth remember, the world has no room for you.

 

3.《心配を“癒やしの案内人”に》

究極の目的は、心配から逃れることではなく、それをしてイエス・キリストの癒やしのご臨在の中に私たちを導く“案内人”にすることである。

【解説】 私たちは、一人の例外もなく、心配、不安、懸念、気遣いの中で生きています。そしてその一つ一つを、主の十字架のもとに携えて、重荷を取り去っていただくのですが、スポルジョンは、このようなユーモアさえ感じさせる表現で、私たちに“思い煩い”に対する新たな取り組み方を提示しています。それは、心配を、主の癒やしに私たちを導く“案内人”にするということです。私たちに心配事のあるところ、そこには必ず主の癒やしがあります。しかも、”イエス・キリストの癒やしのご臨在“という原文には、主が、“心配氏”に案内されてご自身のもとに来たあなたを、2000年前、地上で人々を癒やされた時のように、あなたの前に、生きて手を差し伸べて待っておられるという臨場感があります。心配何するものぞ。恐れたり、避けたりする必要はありません。それに向かって「さあ速やかに主のもとに連れていきなさい」と命令し、その場で主の癒やしを体験してください。それが、あなたに心配事が起こる究極の目的なのですから――。

(ピリピ 4:6,7) 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

The ultimate aim is not to escape anxiety but to allow it to usher us into the healing presence of Jesus Christ.

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2019年

8月

18日

◆信仰生活3つのチェックポイント◆

《罪》

罪は、あなたの涙や行いによって除き去ることはできない。

【解説】 言うまでもありませんが、この“涙”は後悔の涙です。そしてこの“行い”は、善き行いです。いずれも、これによって、犯した罪をなかったこととして帳消しにしようとする試みですが、決して成功することはありません。罪は、”悔い改める”ことによってしか、赦されることはないのです。

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

Sin cannot be removed by thy tears or by thy deeds.

 

《聖書の無謬性》

もし私が、聖書の無謬性-始めから終わりまで全編を通しての絶対的な不可謬性(誤りがないこと)を信じなかったら、私はこの説教壇に立つことは決してなかったであろう!

【解説】 19世紀イギリスのスポルジョンも、20世紀アメリカのビリー・グラハムも、あれほどに神様に用いられ、あれほど多くの人々を回心に導けたのは、神の言葉、聖書に対する100パーセントの信頼があったからでした。人が救われ、生きる力を与えられるのは、語る人の力ではなく、語られるみ言葉の力なのです。

(Ⅱテモテ 3:16) 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

If I did not believe in the infallibility of Scripture – the absolute infallibility of it from cover to cover, I would never enter this pulpit again!

 

《舌を制する》

自分の舌を、頭脳を飛び超えて勝手にしゃべりださせないよう気をつけなさい。

【解説】 “舌”が独立した人格のように言っているところが面白いですが、実際のところ、そんな気がすることがありますよね。「舌が勝手にしゃべりだして、気がついたら言ってはいけないことを言っちゃってた。」…こんな苦い経験は、誰にもありそうですが、でもこれは半分の真理でしかありません。舌が、勝手にしゃべることは現実にはないわけで、頭脳からの指令によってモノを言うのですから、やはりこれば、究極的には脳のコントロール力の問題なのです。舌がむずむずしてきたら、ぐっと唇をかみしめて、“自分が相手の立場だったら?”ととっさに考えましょう。頭脳のコントロール力は、ひっきょう、あなたの内なる聖霊のコントロール力に比例するのです。

(ヤコブ 3:9,10) 「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」

Beware of letting our tongue outrun our brains.

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2019年

6月

19日

◆信仰生活3つの局面-新生、教会、忍耐◆

1.

《神から生まれる》

人は、自分自身をかなり変えることはできるかもしれない。

多くの悪習を追い出し、多くの肉欲にふけることを捨て、

悪しき習慣に打ち勝つこともできよう。

だが、この世で誰一人、自分自身を神から生まれさせることはできない。

人は、自分の力を超えたことを成し遂げることは、決してできないのだ。

【解説】 “神から生まれる”とは、“新しく生まれる=新生”するということです。人は、努力によって、ある程度まで自分の人格を変えることはできます。世の宗教は、その自己完成の道を求めますが、自分の力で新しく生まれ変わることはできません。どんな人格者でも、内に潜む“罪”の問題を根本的に解決しない限り、それは不可能ですが、生来の罪びとである私たちは、他人の罪はおろか自分の罪さえ解決することはできないのです。それがお出来になるのは、私たちの罪の身代わりに、十字架にかかり、三日目によみがえられた神のみ子イエス・キリストだけです。その恵みのゆえに、私たちは新しく神から生まれ変わることができるのです。”福音”が、全ての人に必要なわけは、まさにこの一点にあるのです。

(ヨハネ 3:3)「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

A man may reform himself very much, he may cast away many vice, forsake many lusts in which he indulged, and conquer evil habits; but no man in the world can make himself to be born of

God; he could never accomplish what is beyond his power.

 

2.《聖書に従わぬ教会から去れ》

もしあなたの属する教会に、

霊感されたみ言葉に反することがあるなら、

その教会を去りなさい。

【解説】 “そんな教会があるのか?”と思いますが、現実にはあるのです。まず第一に異端です。私の属する教会に、半年ほど前から一人の男性が出席されて、熱心に求道されています。しばらく、エホバの証人(ものみの塔)の教会に出ておられて、彼らの聖書に加えて正統的な聖書も購入され、両者を比較して、何かが違うと感じて、うちの教会に来られたそうです。次に、聖書の権威に100パーセント従わず、恣意的に解釈して、人間の権威が支配している教会もそうです。ただし、その見極めは、とても難しいことで、各々が“自分は正しい”と思っているうちは、争いや分裂が起こるだけです。聖職者も、信徒も、互いに教会の頭である主イエス・キリストの前にひざまずいて、謙遜に主のみ声に耳を傾けることが必要です。“風は思いのままに吹く”(ヨハネ3:8)。聖霊は、教会の中で、ご自身の書かれた聖書の権威と共に働かれます。イエスのみ霊が、いつも教会の中を吹き抜けているような教会、聖職者も信徒も、その風を感じながら、互いにみ言葉に仕え合っていく教会となるよう、祈らねばなりません。不幸にして、明らかにこれに反する事実がなくならないとき、どうすべきかも自分で決めてはなりません。そのときは聖霊が、み言葉による確信をもって「この教会を去れ」と導かれるはずです。(スポルジョンの真意はそこにあり、安易な教会離れを進めているわけではありません。)

If there is anything in the church to which you belong which is contrary to the inspired Word, leave that church.

 

3.《一に忍耐、二に忍耐》

忍耐! 忍耐!

あなたは、いつも急ぎすぎる。

だが、神はそうではないのだ。

【解説】 全くそのとおりですね。私たちの“聖徒養成学校”で、一番難しいのはこれかもしれません。「もう3か月もたつのに」「これほど祈ってお願いしてるのに」「これはゼッタイ神様のみ心にかなうことなのに」…まだ神様はかなえてくださらない。でも、神様の”時”の長さは、人間が考えるのとは違うのです。神様はいつも、“永遠”の視点から物事を進められます。「神は急がない」。心がはやるたびに、これを唱えませんか? そして、どんなときにも“時にかなって美しい”(伝道者(コヘレテ)の書3:11)神の時を、忍耐をもって待ちましょう。

(ヘブル 10:36) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

Patience! Patience! You are always in a hurry, but God is not.

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2019年

5月

25日

◆私にもできる二つの生き方ガイド◆

《祈りの中で生きる》

私たちは、誰もが議論に長(た)けているわけではない。だが、誰もが祈れるのだ。

私たちは、誰もがリーダーにはなれない。だが誰もがプリーダー(神への嘆願者)にはなれるのだ。

私たちは、誰もが弁舌に巧みとは言えない。だが誰もが“神と語らう生活”を送ることはできるのだ。

【解説】 クリスチャンであれば、誰でもできるもの、1つ目は“祈り”です。祈りには、議論で説き伏せる力も、人をリードする力も、言葉で人を酔わせる力も一切不要です。ただ神と語らう。神に必要と、癒やしのために、ひたすらお願いする。それは自分のためだけでなく、愛する人のためのとりなしもありますね。この2番目には、一見して分かる原語の片仮名読みで記したように、スポルジョンの踏韻の修辞があります。そして3つ目。後半の原文を直訳すると、「祈りを普及させる(優勢にする。支配的にする)」となります。祈りが、私たちの生活の中で、もっと大きな部分を占めるように、というニュアンスを、無い知恵を搾って「神と語らう生活」としてみました。私事で恐縮ですが、妻という最良の語らう相手を失ってしまいましたので、私はいろいろなことを、生活の中で声に出して神様とお話ししています。この訳語は、誰よりも、今の私にとってピッタリなのです。あなたにも、そうでありますように――。

We cannot all argue, but we can all pray; We cannot all be leaders, but we can all be pleaders; We cannot all be mighty in rhetoric, but we can all be prevalent in prayer.

 

《主の権威のもとに生きる》

「かく主は言われる」―これが、神の教会における唯一の権威である。

私たちの誰であれ、”私は主イエス・キリストのもの”と認めるのに、何か恥じるものがあるというのか?

【解説】 この2つの文章は、ソースは別のものですが、あえて一緒にしました。その意図は、「教会の主は、その教会に連なる一人一人のキリスト者の主である」という真理を、もう一度確認したかったからです。

私たちが絶えず吟味しなければならないことの1つは、「教会の中で、イエス・キリストだけが、唯一の権威者となっているか」ということです。時には牧師、時には長老・執事・役員、時には高額献金者などのキリスト以外の人間的権威が教会を支配していることはないか? 私たちは、いつもへりくだって、この「主は言われる」の唯一の権威のもとに、ひざまずかなければなりません。

もう1つは、「私は自分の置かれた生活の場所で、“主のものとされた自分”を周りの人々に明らかにしているか」ということです。いざというときに、あのペテロのように「私はこの人を知りません」と否定はしなくても、クリスチャンであることを恥じて、言葉を濁したり、話題をそらしたりすることはないだろうか?

私たちは自己中心で、また弱い者です。知らず知らず、教会の中で主の権威を犯していた罪を聖霊に示されたら、また生活の中で主を恥じていた自分に気づいたら、その罪を悔い改め、主の赦しを請いましょう。私の、あなたの自己中心も弱さもよくご存じの神様は、赦して、聖めてくださいます。

(ローマ1:16) 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

“Thus saith the Lord” is the only authority in God’s church.

What is there for any of us to be ashamed of in acknowledging that we belong to the Lord Jesus Christ?

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2019年

4月

29日

◆スポルジョンが語る信仰生活6つの要諦(かなめ)◆

1.《宣教―永遠につながる神の業》

宣教は子どもの遊びではない。それは労力と気遣いなしにできることではない。それは神聖かつ厳粛な業である。しかしてそれが永遠にまで関わることに目を留めるならば、大いなる方への畏敬の思いを込めてなされるべきものなのだ。

Preaching is not child’s play, it is not a thing to be done without labor and anxiety it is solemn work, it is awful work if you view it in its relation to eternity.

 

2.《魂の漁り人に》

“魂の漁り人(すなどりびと)”になることは、この世で最も幸せなことである。

【解説】 この幸せを、あなたは今、感じていますか? この前 感じたのはいつのことでしょうか? 長い間、この幸せから遠ざかっているのではありませんか? “魂の漁り人”と訳した原語の soul winnerソールウィナーは、直訳すれば“魂を勝ち取る人”です。滅びに向かっていた自分が、神様のあわれみによって救われ、永遠の命を与えられている――この恵みは、他の人々を救いに導くことによって神様にお返ししなければなりません。「救わんがために救われたり」と言ったのは救世軍の創始者ウィリアム・ブース大将ですが、これはクリスチャンが、片時も忘れてはならないことです。ここで心すべきは、魂を救うのは私たちではなく、神様の主権的なみ業であるということです。私たちにできるのは、愛する魂のために祈り続けること、そして神様の“時”を逃さずにその魂に証しすることです。私の亡き妻は、死の床から十字架のイエス様に救われてから、家族や友のために祈り始めました。そしてその“時”を心に感じた時、本当は身内への伝道は一番難しいと言われるのに、30年間祈り続けていた母に証しをして、救いに導いたのです。あとの家族のことは私に託し、妻は今

天国で、その母と楽しく語り合っていることと思います。この世の幸せは、つかの間に過ぎ去ります。魂の漁りだけが、永遠に失われることのない、まことの幸せなのです。

To be a soul winner is the happiest thing in the world.

 

3.《家庭の中の自分をありのままに見せよ》

家族の中にいるときの自分の性格によく気をつけなさい。

そこでのあなたの立ち居振る舞いが、

本当のあなただからだ。

【解説】 さすがスポルジョン、一方では上記1のような宣教の神学の真髄を説きながら、一方で彼の目は、限りなくリアルに人間そのものの上に注がれているのです。今日の6つの言葉のうち、ひょっとしてあなたは、他のどれよりも、この3に「言えてる!」と思ったのではありませんか? クリスチャンになったからと言って、決して背伸びして、“自分以上の自分”をご家族に見せようとしないでください。相変わらず欠点だらけの、“ありのままの自分”でいいのです。ただ、こんな私が、イエス様に愛されて、救われて、生かされている。―その喜びと感謝を、素直に表すことです。その姿をご家族は見ているのですから。「何がこの人を(この子を)こんなにしたんだろう」と内心驚き、いぶかりながら――。それが、家族の救いへの小さな第一歩です。

Take care of your character in the home. For what we are there, we really are.

 

4.《結婚の祝福》

夫と妻がよく“くびき”を共にするとき、二人の重荷は、いかに軽くなることであろうか!

【解説】 “くびき”とは、“首に架けられる木”が原意で、ご存じのように二頭の馬や牛の首に木の棒を横に渡して固定することによって、二頭を同じ方向に動かす道具ですね。これを付けることによって、二頭の力はまさに二倍以上に用いられます。イエス様も、「私のくびきを負いなさい。私の荷は軽いからです」とおっしゃいました(マタイ11:29,30)。また妻の話で恐縮ですが、彼女は教会のあるカップルの結婚の席の祝辞で、「二人で手を取り合えば、祝福は二倍になり、重荷は半分になります」と言って、そのハンデを負った者同士のカップルの門出を祝いました。スポルジョンの妻スザナも、病弱で、40歳まで生きられなかったのですが、生涯夫を支え、夫のために自分にできることを精いっぱいにしたのです。その妻への感謝を込めて、彼はこの言葉を口にしたに違いありません。(下の写真は、今に残るその二人です。)

When husbands and wives are well yoked, how light their load becomes!

 

5.《柔和さはどこから?》

まことの強さは、

柔和さの“背骨”である。

【解説】 真の強さを内に秘めない柔和さは、“軟弱”につながります。“背骨”と訳したbackboneは、今ではそのまま“バックボーン”とも言いますね。物事の背後にあって支える“中枢”“基幹”を成す力です。その強さは、真理はどんな困難にも負けずに守り通し、虐げられ、苦しめられている人々にはとことん寄り添う勇気の中に秘められています。そこから生まれる柔和さこそが、人間関係の軋轢を解きほぐし、あなたを“平和をつくり出す人”にし、“神の子”と呼んでいただけるのです(マタイ5:9)。

Real strength is the backbone of meekness.

 

6.《隠れた祈りこそ天国と地獄を隔てる》

隠れたひそかなる祈りは、

天を開くカギであると同時に、

地獄の門を閉じるカギでもある。

【解説】 古今、祈りの効用、祈りの大切さは、あらゆる言葉で言い表されてきましたが、これがスポルジョンの言葉です。”天を開くカギ”は、イエス様によってペテロにも与えられましたが(マタイ16:19)、私たちが神のみ前に祈る祈りの力は、それだけではなく、“地獄の門を閉じる”力も持っているというのです! すなわち、祈りがサタンの暗躍を封じ込め、今まさに地獄の滅びに入っていこうとする愛する者を、その門の手前でつなぎ留めるのです。神様がお与えくださった恵みの数々の中で、私たちは今、改めて“祈り”の恵みと力に刮目すべきではありませんか? そしてあまりに貧しい自らの祈りに心刺され、ひざまずいて、「主よ、私に祈ることを教えてください」と懇願すべきではないでしょうか?(ルカ11:1)

As private prayer is the key to open heaven, so it is the key to shut the gates of hell.

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2019年

2月

11日

◆忘れてならない”信仰の基本”4か条◆

1.《人間の罪は、神のみ子でも容赦されない》

神がイエスを“罪びと”としてご覧になったとき、神はみ子を容赦されなかった。

そして神は、キリストを拒み、悔い改めない人々を見たら、彼らを容赦なさらないだろう。

【解説】 この端的なスポルジョンの言葉に、福音の“恵み”と“厳しさ”がよく表れています。神のみ子は、すでに2000年前のあのゴルゴタの十字架で、私たち全ての人間に代わり、“罪びと”として父なる神に裁かれたのです。父なる神様は、たとえご自身の独り子といえども、十字架の上で“罪びと”となったイエスを、人間(私たち!)への愛のゆえに、容赦なく死に渡されたのです。その大いなる恵みを知りながら、なおもこの”福音”を拒む者には、もはや罪からの救いの道は残されていないことに、私たちは粛然として気づかなければなりません。

(Ⅱコリント 5:21) 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

When God saw Jesus in the sinner’s place, He did not spare Him; and when He finds the unregenerate without Christ, He will not spare them.

 

2.《罪の裁きと訓練の懲らしめを混同しない》

“信仰者の処罰”などという話をするおつもりか! そんなものはない。人の世における様々な苦難は、キリスト者の罪に対する処罰などではない。それは、“天の父の懲らしめ”であって、“裁判官の下す刑罰”とは違うのだ。

【解説】 これは、信仰者も避けて通ることはできない様々な人生の苦しみに対して、“それは神からの罰だ”という間違った考えに対する、スポルジョンの聖書に立った論駁です。それは、私たちの内に“キリストのかたちが成るため”(ガラテヤ4:19)の、父なる神様からの信仰の訓練なのです。これが、信仰を持つ前、神を信じないで自分中心に生きる人間に対する神の“永遠の裁き”と、信仰を持ったのち、私たちを神の人になるために訓練として神様がお与えになる“苦難という懲らしめ”の違いです。この違いをよく理解しないと、私たちの信仰生活は、いつも神の裁きを恐れる、喜びのないものとなります。下のみ言葉を、しっかりと心に据え直しましょう。

(ヘブル 12:6,7) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」

Talk of the punishment of a believer! there is not such a thing. The

afflictions of this mortal life are not punishments for sin to Christians, they are fatherly chastisements, and not the punishments of a judge.

 

3.《救いの原点に立ち返る》

かの大いなる“身代わりびと”の上に

我が罪 裁かれ

永遠に取り去らるるを見しとき

我は驚きに目を見張り

我が生けるを知り

自由となりし喜びに跳ね踊りたり。

(イザ 45:22) 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

【解説】 これが、有名なスポルジョンの“我が回心の記”です。1850年12月15日の日曜日、彼は突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでメソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験したのです。これはその時、決め手となった聖書の言葉です。彼を冷たく命のない、暗黒の世界に閉じ込めていたのは、神なしに独り己が道を手探りで進もうとする自我の“罪”でした。その罪を、無条件に引き受けて、十字架で身代わりに死んでくださった神のみ子イエス・キリストを仰ぎ見たとき、彼はあまりの恵みの深さに言葉を失い、今こそ自分が真に生きていることを魂の底から実感し、罪の縄目から解放された喜びに、文字どおり雪道の上を喜び踊ったのです! 彼のその後の目覚ましい宣教の働きの原点は、この回心にありました。私たちもまた、人生の様々な試練に出会い、信仰を試されるときは、自らの“原点”に立ち返らねばなりません。“救いの原点に返る”――これは、あの背信を繰り返した旧約の民が、大いなる”出エジプト”の原点に幾度も立ち返ったように、そしてペテロが、パウロが、新約の教会が、主イエスの“赦しの愛”の原点に立ち返ったように、私たちの信仰の旅路を最後まで全うさせてくださる、神様の恵みのたまものなのです。

I looked, and lived, and leaped in joyful liberty as I beheld my sin punished upon the great Substitute, and put away for ever. “Look unto me, and be ye saved, all the ends of the earth, for I am God, nd there is none else.“-Isaiah 45:22

 

4.《“悔い改め”もまた成長する》

”信仰”が成長するように、”悔い改め“もまた成長する。そのことを、決して誤解してはならない。”悔い改め”とは、せいぜい数日、数週間のものとか、できるだけ早く乗り越えるべき一時的な改悛などのたぐいではないのだ! 違う。それは、“信仰”そのものがそうであるように、生涯にわたる“恵み”なのだ。小さな神の子たちも悔い改める。同じように若い人たちも、親となった人たちも悔い改める。“悔い改め”と“信仰”は、切り離すことのできない“伴侶”なのである。

【解説】 上記3.の、「救いの原点に立ち返る」ことを可能にするもの、いえ、その”絶対条件”と言ってもいいものは、この”悔い改め”です。悔い改めなき原点回帰は、何度繰り返しても無駄なことです。

けれども一方で、“悔い改め”もまた、“信仰”と同じように成長できるのです。悔い改めの深化は、信仰の成長と比例します。なぜなら、信仰の成長に伴って、私たちの霊性は研ぎ澄まされ、“罪”への感覚が深まるからです。それまでは気にも留めなかったもの、”これぐらいは誰でもやってる。赦される”と思っていたものが、”これもまた罪だ”と分かってきます。それは、自分の言葉や行為を受けた相手の人の立場に立って考えられるようになるから―あなたの中の“愛”が深まるからなのです。

そしてまた、人は、子どもも大人も悔い改めることができるし、いつになっても、死の瞬間でさえも悔い改めは可能です。だからこそ、“悔い改め”が許されているということは、その都度心の痛みは伴いますが、神の備えられた大いなる“恵み”なのです。

げに「信仰とは、”生涯の悔い改め”と見つけたり。」 私が、あなたが、どんなに大きな失敗をしても、悔い改める限り、再び神様の愛の懐(ふところ)に飛び込んでいけるのです、あのペテロのように――(ルカ22:32、ヨハネ21:15-17)。

Repentance grows as faith grows. Do not make any mistake about it; repentance is not a thing of days and weeks, a temporary penance to be got over as fast as possible! No; it is the grace of a lifetime, like faith itself. God’s little children repent, and so do the young men and the fathers. Repentance is the inseparable companion of faith.

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2019年

1月

21日

◆神のスパークを受けよ◆

神は、世界を炎で燃やす火花を作ることができる。

神は、一人の貧しい“祈り人”の火花によって、

国全体を照らし出すことがお出来になるのだ。

あなたも、そのために用いられるかもしれない。

だから、勇敢でありなさい。

 

【解説】 ご存じのように、車のエンジンは、一瞬のスパーク(電気火花)によって点火し、重い車体を高速で走らせることができます。昔は、火をおこすのが大変でしたが、火打ち石が発見されて、かまどに火をともすことが容易になりました。やがてそれがマッチになり、ライターになりましたが、原理は全て同じ、一瞬の火花によって、着火させることです。目にも入らないような微小な光と熱の玉が、時に燎原を、森を燃やし尽くし、時に家全体を明るく照らす光のもとになるのです。

霊の世界においては、救われて神のしもべとなった私たちの誰もが、神のスパークを受けることができます。”神のスパーク”とは、祈りとみ言葉を通して、あなたの魂に働きかける“聖霊の火花”です。神様の目で見る世界の歴史は、旧約の時代も、新約の時代も、それに続く2000年の歴史も、このような聖霊の火花を受けて立ち上がり、自らを、そして周りの人々を、遂には国家を燃え輝かせた人々によって前進してきたのです。

「確かにそう。でも私などは…」と思いましたか? スポルジョンが「あなたも、そのために用いられるかもしれない」と言った原語には、“まだ間に合う”というニュアンスがあります。「私にはなんのたまものもないから」「私はもう年だから」という言い訳は、神様の前には通用しません。そんな私たちの弱さを百もご承知のうえで、“点火”してくださるのは、神様なのですから。そして最後の「勇敢でありなさい」は、読んで気づかれた方もいるでしょうが、あのヨハネ16:33のみ言葉です。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

この罪の暗黒の世で、光り輝こうと思ったら、たちどころに艱難が襲います。でも私たちには、あの十字架と復活によって、サタンの支配する罪の世に勝たれた主イエス・キリストがおられるのです。この主に在って、私たちは“まだ間に合います”。まだ用いていただけるのです。私が、あなたが、“聖霊の火花”を受けるために、まず“一人の貧しい祈り人”として、み前に自らを差し出す限り――。

God can make a spark set a world on fire-he can light up a whole nation with the spark of one poor praying soul. You may be useful yet; therefore be of good cheer.

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2019年

1月

09日

◆スポルジョンの説く救いと信仰のキモ◆

救うのは、偉大な信仰ではなく、“まことの信仰”である。

そして救いは、信仰の中にあるのではなく、信仰が寄り頼む“キリスト”の内にある。

熟慮すべき点は、信仰の程度ではなく、信仰の“誠実さ”である。

 

【解説】 さすがスポルジョンの“三段論法”は、一段一段、大切なポイントを衝いていますね。では、今日は、彼なら、このように解説するかもしれない、という語調で、説き明かしてみます。

第1段: 人を救うのは、“偉大な信仰”ではない。もしそうなら、救われる人は極めて少ないだろう。そもそも“偉大な信仰”などというものは、人間の評価であり、神の前には存在しない。神がご覧になるのは、たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても、いかに真実に、偽りなく、心から神の救いを信じたかにあるのだ。

第2段: しかしながら、いかにあなたの信仰が真実であっても、“救い”は信仰そのものの中にあるのではない。徹頭徹尾自己中心な人間は、ともするとそう考えてしまう。そのとき、信仰は己の“業”になる。人は己の業である信仰を誇り、それによって自分は間違いなく救われているという錯覚に陥る。そこにはもはや、神の“恵み”は存在しない。大切なのは、信じる“対象”である。私たちの救いは、私たちが救い主と信じ、主としてより頼む、“イエス・キリストご自身”のうちにのみある。“業”というなら、キリストが、私の罪の身代わりに十字架の上で命を捨てられ、三日目によみがえられた、あの”救いのみ業”そのものの中に、私たちの救いはあるのだ。

第3段: 最後に、私たちが深い洞察を持って、正しく理解しなければならないのは、“信仰”というものの内実、核心は何なのか、神が最も大切なものとしてご覧になるのは、私たちの信仰の、どのポイントなのかということだ。私がmeasure“程度”と言ったことの中には、信仰歴、神学の学歴と得た学位、関わった働き、そのために得た肩書、著した本の数…、など、およそ数字的に測りうる全ての外面的な評価を指す。しかしながら、それをもって神のみ前に出ようとするならば、神はたちどころに顔を背けられるであろう。それらのものは、人には誇れても、神に対して誇れるものではない。(Ⅰサムエル16:7)「人はうわべを見るが、主は心を見る。」 信仰の核心は、人に見せるうわべの“計測値”ではなく、神に包み隠さず見せるあなたの心の“信頼度”―あなたが、どんな場合でも、いかに誠実に、陰ひなたなく、ありのままで神を信頼してきたか、それだけなのだ。

 

It is not great faith, but true faith, that saves; and the salvation lies not in the faith, but in the Christ in whom faith trusts. It is not the measure of faith, but the sincerity of faith, which is the point to be considered.

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2019年

1月

02日

◆年の初めに思う2つのこと◆

1.《時のあるうちに》 

草の一生とは、このようなものだ。

蒔かれ、生長し、風に吹かれ、刈り取られ、消え去る。

人間の一生も、大した違いはないのだ。

【解説】 これは、さしずめスポルジョンの「伝道者(コヘレト)の書」ですね。原文では、韻を踏んで修辞を施していますし、人間の一生に、巧みになぞらえています。すなわちこうです。「蒔かれ(ソーン。誕生)、生長し(グローン。成長)、風に吹かれ(ブローン。試練)、刈り取られ(モーン。死)、消え去る(ゴーン。忘却のかなたに)。まさに、はかない一生です。私たちは、新しい年が明けて、それぞれに1つ年を重ねました。それは、地上で残された年月が、1年減ったということでもあります。これだけを読んだら、そぞろ寂しさが募るだけですが、スポルジョンの言わんとするのは、《だから》なのです。

1つは、《だから》やがて消え去る地上のものに一切望みを置くのではなく、永遠に残る神のみ言葉に、いよいよ固く立つということです。

(イザヤ 40:6-8) 「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

もう1つは、《だから》残された時を生かし、心を込めて主を求め、主の業をせよ」ということです。聖書の中には、与えられた“時”を逸して、もはや取り返しのつかない後悔をした愚かな人々の例えが多く出てきます。蟻に学ばなかった怠け者(箴言6章)、ランプの油を用意しなかった5人の花嫁(マタイ25章)、家族に神の国を語らなかった金持ち(ルカ16章)…。私たちは、光なるイエス・キリストと共に、昼の間に働かなければなりません。“究極の夜”である“死”は、しばしば突然にやってきます。あわれみによって生かされている“今日”という日を、無為に過ごしてはいけないのです。

(イザヤ 55:6) 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」

(ヨハネ9:4,5) 「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

Here is th history of the grass – sown, grown blown mown, gone; and the history of man is not much more.

 

2.《この恵み、忘れまじ》 

神は、あなたの良き業のゆえに、あなたを愛したのではない。

あなたの悪しき業のゆえに、あなたを捨て去るのでもない。

ただあなたを、“イエスの贖いの血によって洗われた者”と見てくださったのだ。

【解説】 これが”福音”です。これ以上でも、これ以下でもありません。徹頭徹尾自己中心な“生涯現役の罪びと”(!)である私たちは、ほんの少し良き業をしても、「これで主は愛してくれる」とうぬぼれ、性懲りもなく同じ間違いをして、人を言葉や行為で傷つけては、「またやった。もう主は見捨てるかも」と自分を責めるのです。どちらの場合も、その瞬間、あなたは大切なことを忘れています。「イエス様は、命を捨てて、私の罪を自分の身に負ってくださった」という永遠の事実を――。新しい年も、この“驚くべき恵み”の中にとどまり続けましょう。人生のどんな修羅場の中でも、あなたに注がれる主のまなざしを決して忘れずにいましょう。

(イザヤ43:1 「主】こう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」

(Ⅰヨハネ4:10) 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

He never loved you for your good works; never cast you away for your bad works; but beheld you as washed in the atoning blood of Jesus.

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2018年

12月

11日

◆クリスマス: かのみどりごを想え◆

あなたの道を行かれよ。喜びもて。

されど あなたの断食において、

ベツレヘムの あの方を想え。

あなたの心に、あの方の場所を備えよ。

彼に栄光を帰するのだ。

 

あの方を身ごもりし乙女を想え。

されど何にもまして、

あの“人と生まれし方”、“与えられしみどりご”を想うのだ。

 

再びこう述べて、ペンを措こう。

「あなた方 全てに、

クリスマス、おめでとう!」

 

"Go your way, rejoice; but, in your feasting, think of the Man in Bethlehem; let him have a place in your hearts, give him the glory, think of the virgin who conceived him, but think most of all of the Man born, the Child given. I finish by again saying, “A HAPPY

CHRISTMAS TO YOU ALL!”

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2018年

11月

19日

◆暗い影のかなたの光を見よ◆

私の道に、暗い影がよぎっていた。

だが私はそこを通り抜けた。

陰はあるのに全く目に入らなかったのだ。

なぜだろう?

私の目は、かなたの強い光に注がれていた。

だから私を苦しめ悩ます暗い影に、

気づかなかったのだ。

 

【解説】 19世紀の大伝道者スポルジョンの文章は、格調高さの反面、やや近寄りがたい雰囲気もありますので、今回は詩文体で訳してみました。

誰の人生にも“影”はあり、ときどき私たちの前をよぎり、時には長いこと立ちはだかります。それは私たちを苦しめ、悩まし、悲しませます。でも、そこを通り抜ける道が1つだけあります。それは、その影のかなたの“光”にしっかりとフォーカスを当てて、それから目を離さずに、一歩一歩進んでいくことです。先が見えないような暗い影にさえ気づかせないほどの、強い“上よりの光”こそ、私たちの主、イエス・キリストです。

 

(ヨハネ8:12) 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

A dark shadow fell across my road, but I passed through it. I hardly realized it was there. Why? I had my eyes fixed on a strong light beyond, and I did not notice the distressing dark shadow.

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2018年

11月

01日

◆ヨブ、イザヤ、パウロさえ…◆

もしヨブや、イザヤや、パウロらが、一様に「私は汚れた者です」と言わざるを得なかったとすれば、ああ、哀れな罪びとよ、あなたはこの告白に加わることを恥とされるのか?

 

【解説】 ヨブ、イザヤ、パウロ…。彼らは聖書の中でひときわ光を放つ信仰の偉人です。しかし彼らは、聖なる神のみ前に立たされた時、「ああ、主よ、私は汚れた者、堕落し、恥ずべき者、悪質で、鼻持ちならない、卑しい者、無きに等しい者です」(いずれも原語vileヴァイルの訳です)。いいえ、彼らだけではない。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、ペテロも、皆そうでした。聖い神様のみ前で、己を“汚れなき者”と誇りうる人は、この地上に誰一人いないのです。このスポルジョンの問いに対する答えは、即座に「いいえ」ですね。私たちは、ともすれば、これらの信仰の先達たちの“偉大さ”に圧倒されて、「自分にはとても…」とたじろぎますが、私たちは、彼らの“罪、弱さ、欠け”も、ありのままに見つめなければなりません。そして、この地上でただ一人、罪なき神の子でありながら、私たちへの愛のゆえに、十字架の上で、”罪びと”となる道を選ばれたイエス・キリストに、叫ばざるを得ないのではありませんか? 「ああ、主よ、彼らでさえそうなら、この私は、本当に汚れ果てた者です。どうぞこの罪を赦し、清めてください」と――。

 

(ヨブ40:4) 「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」

(イザヤ 6:5) 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

(Ⅰテモテ1:15) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

If Job, and Isaiah, and Paul were all obliged to say, “I am vile,” oh, poor sinner, wilt thou be ashamed to join in the same confession?

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2018年

10月

01日

◆スポルジョン流 信仰の三つの柱◆

1. 《誰を信じるか?》 あなたは、”死せるイエス”を信じるよう求められてはいない。あなたが信じるのは、私たちの罪のために死なれたが、私たちを義とするために、再びよみがえられた“生けるイエス”である。

You are not asked to trust in a dead Jesus, but in one who, though he died for our sins, has risen again for our jusrification.

【解説】 孔子、釈迦、モハメッド、いずれも世界の歴史を変えた偉大な教えを後世に残しましたが、皆、死にました。一人、神のみ子イエス・キリストだけが、人類最大の敵、“死” を打ち砕いて復活されたのです。私たちは、単に2000年前のキリストの教えを守り、それに従っているのではありません。私たちは、日々、一瞬一瞬、生ける主と交わり、主と共なる人生を歩んでいけます。私たちは何かの宗教に帰依しているのではなく、命の主、キリストに在って信仰に生きているのです。

(Ⅰコリント15:17) 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

 

2. 《寝ているサタンを起こすな》 それゆえ、私たちは、極めて真剣に“誘惑”を避けなければならない。しっかりと武装して、“従順”の道を歩むことによって、決してサタンに、自分を誘惑させようと誘惑するようなことをしてはならない。私たちは、ライオンを探してやぶの中に分け入ってはいけないのだ。

Very earnestly, therefore, should we avoid temptation, seeking to walk so guardedly in the path of obedience, that we may never tempt the devil to tempt us. We are not to enter the thicket in search of the lion.

【解説】 強敵サタンに対して武装した私たちの姿は、エペソ書6章を思い出させますね。 “従順の道”とは、言わずもがな、み霊の与える剣である「神のみ言葉」への徹底した従順です(エペソ6:17)。その際にも、み言葉を自分に都合のいいように解釈させようとするのは狡猾なサタンのテクニックであることをお忘れなく(創世記3:1-5)。後半、「自分を誘惑させようと誘惑する」の一節が、面白いですね。でも私たちは、自分でも気づかないうちに、これをやっているのです。それを、そのあとのライオンの藪をつつく例えで言っているのですが、ありていに言えば、サタンに“隙”を見せるということです。最も危険なのは、自己過信。「俺は絶対負けないよ。試しに俺を誘惑してみな」という態度を見せるのが、サタンの最高の誘惑欲をそそるのです!

(エペソ6:11) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」

 

3. 《リバイバルはどこから?》 もし私たちがリバイバル(信仰復興)を望むなら、私たちはまず“神のみ言葉への畏れ”をリバイブ(復興)しなければならない。

If we want revivals, we must revive our reverence for the Word of God.

【解説】 私たちの思い描くリバイバルは、教会に、神学校に、そして地域社会に、ある日突如として起こる熱狂的な信仰のムーブメントです。それは、あのペンテコステに始まります(使徒の働き/使徒言行録2章) 。そしてキリスト教史2000年の中で、世界の各地に、また日本にも起こりました。でもそこに共通しているのは、それが “一人から始まった” ということです。それはまるで、長時間くすぶっていたワラの一本に、パッと火がついたようなものです。するとたちまち、燎原の火のように燃え広がっていくのですが、その一人の人に聖霊の炎がともるまでには、長い間のみ言葉への謹従と祈りがあったのです。私の聖書は、単なるアクセサリーになっていないか? ともかく読んでおく程度の習慣になっていないか? 本当に襟を正して、聖書を通して私に語りかける臨在の神様への畏れをもって、“拝読”しているか? スポルジョンの問いは、時空を超えて、私たちに迫ってきます。リバイバルは、まずこの私自身から始まらなければならないのです。

(ヘブル 4:12) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

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2018年

9月

14日

◆神の約束の真実◆

もし私が、そのお約束の言葉のゆえに神を信じるなら、約束を果たす責任は私のうちにはなく、神にある。神が約束なさったのだ。

 

【解説】 これは言うまでもなく、スポルジョンの“責任逃れ”論法ではありません。これは、約束をしばしばたがえる人間の弱さ、ずるさに対して、ひとたびみ言葉をもって約束なさった神は、必ずそれを守られるという、神の「約束の言葉」への“絶対的信頼宣言”です。聖書の中には、いかに多くの神のお約束があることでしょうか。そのお約束を自分のうちに実現できるかどうかは、このお約束への、あなたの“信頼”と“忍耐”に懸かっているのです。

 

(ヘブル10:23,36) 「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。…あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

If I take God at His word, the responsibility of fulfilling His promise does not lie with me, but with God, who made the promise.

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2018年

8月

27日

◆スポルジョン流 ベストライフへの5つの勧め◆

1.《悪に“選択権”ナシ》 二つの悪から選ぶとしたら、どちらも選ぶな。

Of two evils, choose neither.

 

2.《物があれば幸せか?》 私たちを幸福にするのは、どれだけ多く持っているかではなく、どれだけ多くそれを楽しんだかにあるのだ。It is not how much we have, but how much we enjoy, that makes

happiness.

 

3.《キリスト者の“特命”とは?》 神を偉大なるものとし、己を小さき者とするのは、私たちの特別な“聖務”である。

To make God great and ourselves little is our peculiar occupation.

 

4.《“息抜き”を軽視するなかれ》 “休息(レスト)の時”は、“無駄(ウェイスト)な時”ではない。新たな力を得ることは自然の秩序であり、時々休暇を取ることは知恵なのだ。長い目で見れば、時々手を休めることによって、私たちは、もっと多くのことができよう。

Rest time is not waste time. It is economy to gather fresh strength… It is wisdom to take occasional furlough. In the long run, we shall do more by sometimes doing less.

 

5.《ベストモデルは他人(ひと)にあらず》 他人の振る舞いを、自らの模範にしてはならない。彼らが自分に接するように、こちらも相手にそうすれば十分である。キリスト者にとって、唯一無二の鑑(かがみ)は、“キリスト”ご自身である。

We may not take the conduct of others for our model, and treat them as they treat us; the only pattern for a Christian is Christ.

 

 

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2018年

8月

11日

◆我が望み、信頼、信仰の拠りどころ◆

私の“希望”は、私が罪びとでないからではなく、私が罪びとで、その私のためにキリストが死んでくださったゆえに、生き続ける。

私の“信頼”は、私が聖いということにではなく、聖くないというところにある。神が、私の義だからである。

私の“信仰”は、今の私や未来の私に依っているのではなく、私が何を感じるか、何を知っているかの上にあるのでもない。キリストが私のために何をしてくださったか、今、何をしてくださっているかに基づいているのだ。

ハレルヤ!

 

My hope lives not because I am not a sinner, but because I am a sinner for whom Christ died;

My trust is not that I am holy, but that being unholy. He is my righteousness.

My faith rests not upon what I am or shall be or feel or know, but in what Christ is, in what He has done, and in what He is now doing for me. Hallelujah!

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2018年

7月

18日

◆神の選びの教会◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

―神の選びの教会―

 

神の選びの教会は、

天の寵愛せるもの、

キリストの宝、

その頭(こうべ)にかぶれる冠、

その腕にはめたるブレスレット、

その心に当てたる胸当て、

その愛の真髄にして

彼の最も心を寄せたるものなり。

 

【解説】 この19世紀の偉大なる福音宣教の先達の、“神の教会”への一級の賛辞を日本語にするには、現代文では軽きに失しますので、文語にしてみましたが、いかがでしょうか。

ここで考えなければならないのは、1つは、ひょっとして”神に選ばれない教会”というのはあるのだろうか、という問題ですが、答えは、異端の教会を別にすれば、はっきりと「ノー!」です。全ての教会は、“神の選びの教会”です。なんとなれば、その教会をかたちづくる私たち一人一人が、神の選びと召しにあずかっているからです。

2つ目は、この実に美しい“教会賛歌”は、果たして今の自分の教会に当てはまるのだろうか、という疑問です。“神の教会”と言いながらも、あなたの教会には、全く問題はありませんか? 人間関係は良好ですか? 牧師と信徒の間ではどうですか? 「全て良好です」と言える教会は、おそらく一つもないのではないでしょうか? かく言う私の教会も、牧師と信徒の高齢化、会員減少、新しい受洗者が与えられない…と、問題は山積みです。しかしそのような、多くの問題を抱えた一つ一つの教会に対し、神様は、「我が宝、我が冠、我が最も心を寄せるもの」と呼んでくださるのです。なぜなら、この地上の教会に連なる私たちは欠けだらけの者ですが、この群れは、神のみ子がご自身の命をもって贖われた、“キリストの体”だからです。私たちは、自らのうちに、そして自分が集う教会の中に、様々な“破れ”と“ひずみ”を見るときにこそ、この神様の“選び”の目で、イエス様の“十字架の愛”の目で、見つめ直す必要があるのです。そのときに、不満と裁きの目には見えなかった、この教会に注がれている神様の“あわれみと恵み”のみ手が、はっきりと見えてきます。そしてこの“キリストの体”への新たな献身の思いと、兄弟姉妹への暖かい主に在る愛が、静かに心の深いところから湧き上がってくるのを体験なさるはずです。

 

(エペソ 1:23) 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

The elect church is the favorite of heaven, the treasure of Christ, the crawn of His head, the bracelet of His arm, the breast plate of His heart, the very center and care of His love.

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2018年

6月

06日

◆福音とみ霊に力あり◆

福音をして宣べ伝えさしめよ。み霊をして満たさしめよ。あなたは見るであろう。それが良心を変えさせ、行いを改めさせ、品格を向上させ、邪(よこしま)なる心根を懲らしめ、抑制するのに、どれほど力を持っているかを――。

ああ、かかる私も、地獄から引き出され、裁きから解放された己(おのれ)を見て、どれほど大きな声で賛美すべきであろうか!

 

律法は、自己義認者のため、彼らの誇り高ぶりをへりくだらせるためのものである。

福音は、失われた者のため、彼らの絶望を取り去るためのものである。

 

Let the gospel be preached and the Spirit poured out, and you will see that it has such power to change the conscience, to ameliorate the conduct, to raise the debased, to chastise and to curb the

wickedness of the race.

Oh! how loud ought I to sing, seeing I am out of hell, and delivered from condemnation.

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2018年

5月

18日

◆ネヴァー・セイ・トゥー・レイト(「遅すぎる」と言うなかれ)◆

(1)あなたを待ち続けるのは誰?

誰も、「私は神を待っている」などと言うべきではない。愛兄姉よ、違う、私たち人間の誰が神を待つにもまして、大きなみ手を広げて私たちを待っておられるのは神なのだ。

 

(2)ゆえに“救いの時”にタイムリミットはないのです

人生のどんなに遅い時であろうと、人は回心することができる。その人は、他の誰とも同じように、信じる者への特権と約束を享受できるのだ。自由なる恵みは、惜しみなく与えられ、何人(なんぴと)をも批判することはない。

 

【解説】 神様の定義は、あまたありますが、ここでは躊躇なくこう言いましょう。私たちの神様は、「待ちたもう神」だと。キリスト者の徳の一つである「忍耐」は、実にこの待ちたもう神の忍耐に範をとっています。この真理に目覚めたら、私たちは、「俺は神のお呼びを待ってるんだけど、なかなか来ないんだよ」などとあまのじゃくなことは、決して言えなくなるのではありませんか? 私たちにできることは、欠けだらけの自分を、「私のもとにおいで」と言われる神様の大きなみ手の中に、今、丸ごとお預けすることだけのはずです。

 

そして、神様の忍耐が受け入れてくださる「人生の遅い時」は、実にあなたの今わの際にまで及びます。私たちは、あの十字架上で死の直前に天国に凱旋した強盗の一人と同じです。イエス様はあの時、「お前はどうしてもっと早く私を信じなかった? そうすればお前の悪事はもっと少なくて済んだろう。バカな男だ。お前の悪事がどれほど人の人生を苦しませたか、考えたことがあるか?」などという“批判”は、ひと言もおっしゃいませんでした。「あなたのみ国の座で、(せめて)私を思い出してください」と涙ながらに願った彼に、「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいます」と、“惜しみなき恵み”を、あふれんばかりにお与えくださったのです。

 

これが、「福音」でなくて、なんでしょうか?

 

No man ought to say, I am waiting for God.

No, beloved, it is God who is waiting for us generally, rather than any of us waiting for him.

 

However late in life a man may be converted. He shall enjoy the same privileges and promises as others. Free grace gives freely and does not upbraid.

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2018年

5月

03日

◆キリスト者の完全◆

 クリスチャンにとって必要な2つの種類の“完全”がある。1つはイエスの人格における“義認”の完全であり、もう1つは、聖霊によって、人のうちに働く“聖化”の完全である。

 現在において、堕落は新生した人間の胸のうちにいまだに眠っている。現在において、心は部分的に汚れている。現在において、欲情や悪しき想像心がいまだにある。

 しかしながら、ああ、神が始められた働きが完成を見る日が来ることを知って、私の魂は歓喜する。その時、神は、私の魂を―キリストにおいて完全であるのみか、聖霊においても完全で、しみも傷も、そのたぐいのものも一切ない魂を、お示しになるのだ。

 

【解説】 “キリスト者の完全”ということは、キリスト教教義の中でも大切なものの一つですが、この2つの完全をしっかりと心にとどめておきましょう。1つは、分かりやすく言えば、人が救われて義とされることの完全で、それは瞬間的なものです。もう1つは、救われたキリスト者が、その後の信仰生活でキリストに似た者されていく聖化の完全で、これはやがて栄光の姿に変えられる(栄化)までの長いプロセスを要します。前者が”点”における完全、後者が“線”における完全と言ってもいいでしょう。

 そしてもうひとつ大切なことは、この“完全”は、人間の側の状態にかかわらず、神様が完全なものとしてくださるということです。私たちの救われた証しが、どんなにささやかなものであっても、またたとえその確信や喜びが、ドラマティックなものでなくても、「イエス・キリストは私の主、救い主です」というひと言の言の信仰告白をもって、神様は100パーセント完全に、あなたを“義”(罪なし)と認めてくださるのです。聖化における義認も同様です。スポルジョンが正直に記したように、どんなに長く聖化の道を歩んだとしても、なお私たちの心の奥深くには、肉の思いが潜んでおり、折あれば頭をもたげます。それでも神様は、私たちの聖なる者への歩みを、完全なものとみなし、堕落への道からお守りくださり、その完成の日を迎えさせてくださるです。その”栄化”は、私たちの信仰の始まりの”義認”の時と同じように、一瞬のうちになされます。

 なんというかたじけなさ、なんという神様の哀れみでしょうか。そう、“キリスト者の完全”とは、100パーセント、神様の主権において、なされることなのです。“アメイジング・グレイス 驚くべき恵み”の業として――。

 

There are two kinds of perfection which a Christian needs-one is the perfection of justification in the person of Jesus; and the other is, the perfection of sanctification worked in him by the Holy Spirit. At present corruption still rests even in the breasts of the regenerate. At present the heart is partially impure. At present there are still lusts and evil imaginations. But, Oh! my soul rejoices to know that the day is coming when God shall finish the work which he has begun; and he shall present my soul, not only perfect in Christ, but, perfect in the Spirit, without spot or blemish, or any such thing.

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2018年

4月

13日

◆「十戒」の真の効用◆

「十戒」を読み、その一か条ごとに、自分の罪について思い巡らすのは、時として、自分自身にとって有益であるということが分かる。

なんという罪のリストだ。しかしてそれを繰り返し読むならば、私は何と塵灰(ちりはい)の中にへりくだらされることだろう!

 

十戒 (出エジプト記20:3-17)

1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

2.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

3.あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

5.あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

6.殺してはならない。

7.姦淫してはならない。

8.盗んではならない。

9.あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

10.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

 

I find it sometimes profitable to myself to

read the ten commandments, and to think over my sins against each one of them.

What a list it is, and how it humbles you in the dust to read it over!

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2018年

3月

28日

◆聖霊の力◆

聖霊の力は、あなたの砦であり、このお方の全能の力が全て働いて、あなたを守るのである。あなたの敵は聖霊の全能の力に打ち勝てるのか? そうなら、彼らはあなたを征服できる。彼らは神と格闘し、地に投げ捨てることができると言うのか? それなら彼らは、あなたを征服できるやもしれない。なんとなれば、聖霊の力は、私たちの力だからだ。聖霊の力は、私たちの強き力なのである。

 

【解説】 福音的キリスト教は、聖霊を三位一体の神の一位格と信じます。もちろんスポルジョンも、固くその信仰に立って、聖霊を、異端の教派が説くように、人格(正しくは神格ですが)のない、神から出る“力”のようなものとは考えず、「このお方」(原文はhe“彼”)と呼んでいます。「聖霊の力は我が砦」、なんという力強い言葉でしょうか。それに続く彼の2つの問いは、言うまでもなく反意の答えを期待する修辞用法の問いで、”敵(サタン)は聖霊の力には絶対に打ち勝てず、したがって私たちを自分のものにすることは不可能だ“と宣言しているのです。

 私たち自身は欠けだらけの弱い者です。そして神を信じる者の群れである教会も、ひとたび己の力を誇り、己の力に依って宣教の業をなそうとするとき、それは、よどんだ沈滞を生み出すか、あるいは様々な不協和音が生じ、対立が生まれ、果ては不幸な分裂にまで発展することになります。背後では、サタンが“してやったり”と高笑いをしているのです。全て、肉の力に依り頼み、聖霊の力を封じ込めてしまった結果です。

 「風(聖霊)は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)。

 私たちは、主の前にへりくだって、この力ある聖霊の風に全てを委ねるべきです。今こそこの方に、ご自身の主権を持って、思いのままに、私のうちを、私の愛する教会の中を、吹き巡っていただかなければならないのです。

 

The power of the Holy Spirit is your bulwark, and all his omnipotence defends you. Can your enemies overcome

omnipotence? then they can conquer you. Can they wrestle with Diety, and hurl him to the ground? then they might conquer you. For the power of the Spirit is our power; the power of the Spirit is our might.

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2018年

3月

17日

◆終わりが始まりの時◆

私が“自分自身の終わり”を迎えるとき、私は“キリストの始まり”の場に立つのだ。

 

【解説】 はい、これは臨終のときに初めて真の信仰を知る、という意味ではありません。肉の自分自身に死ぬときです。その時から、キリストがあなたのうちに生きることを始めるのです。その“時”は、人がキリストの十字架のもとに立つときに訪れます。そして私の経験によれば、人は自らの人生の中で、幾たびかそのようなときを迎えます。そのたびに私は、我がうちに真にキリストが始まるように、悔い改めと、自我の磔殺(たくさつ)による生みの苦しみをするのです。十字架は、いつも私が帰るべき、魂の原点です。

 

(ガラテヤ2:20) 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

(ガラテヤ4:19) 「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」

 

When we come to the end of self we come to the beginning of Christ.

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2018年

2月

19日

◆♪楽しき祈りよ 憂きこの世 離れ

(1) 主をよく知ることこそ...もし私たちが、静思の時を持ち、神を黙想することにもっと時間を割くならば、今よりもはるかに良く神に仕えることができると私は思う。(2) それには、夜の時を“夜”は、デボーション(静思の時)を持つには、とりわけふさわしい時間のように思う。その荘重とも言える静けさは、この世の様々な気遣いがもたらす、ひっきりなしの騒音から私たちの心を解き放ってくれる。そして天から私たちを見下ろす星は、あたかも私たちを、神のもとに引き寄せるように、輝くのだ。【解説】 はい、今回も、スポルジョンの2つの言葉をテーマにそって合わせてみました。(1) 私たちが上に立つ人によく仕えるには、教会の牧師先生でも、職場の上司でも、相手をよく知ることですね。相手に関心を持ち、その人がどんな理想を持っていて、私たちにどうあってほしいと考えているのかをよりよく理解できれば、その考え方に沿って、自分の持てるものを全て動員して、その人を喜ばせる奉仕ができます。相手が主の主、王の王であるイエス・キリストであるならば、なおさらのことです。「マスター(主)をよく知らずして、良きサーバント(しもべ)になれると思うなかれ」ですね。私たちが、この世のどんな仕事、いえ、教会のどんなに大切な奉仕にさえもまして、“主と交わる”ことを第一にすべき理由は、そこにあるのです。(2) 朝、それもできるだけ早く静思の時を持てる人は、幸いな人です。そのような人に、神様の祝福が豊かにあることを、私は信じて疑いません。でも、現実は、朝は一日の始まり、あらゆる活動と喧騒の始まりでもあり、目覚めたその時から、“時間”との闘いになってしまいます。これは、スポルジョンの生きた19世紀のイギリスも同じだったようで、現代は、さらに加速度的にその様相を呈しています。――そこで、“夜”なのです! 改めて、“夜のデボーション”の恵みを考えてみなければならないと思います。ただ、現代を精いっぱいに生きている私たちには、夜にも闘わなければならない問題があります。それは“疲れと睡魔”です! 夜のデボーションの時に睡魔に襲われたら、いえ、始める前からすでに睡眠モードに入ってしまったら…、スポルジョンは「星空を見よ」と勧めます! ここには、スポルジョンの意外とも言えるロマンティックな一面がのぞいていて思わず微笑んでしまうのですが、いっとき窓を開けて、夜空を仰ぐのは、確かにいいかもしれませんね。とりわけ冬の冷気は、睡魔を吹き飛ばしてくれます。澄んだ空気の中で一段と輝く星々は、私たちの思いを創造者のもとに引き上げ、このお方に創られ、守られている恵みに浸してくれることでしょう(詩篇8:3,4、19:1)。(解説・聖書引用・訳 小川政弘)I think we might serve God all the better if we had more time for quietude and musing on him.Night appears to be a time peculiarly favourable to devotion. Its solemn stillness helps to free the mind from that perpetual din which the cares of the world will bring around it; and the stars looking down from heaven upon us shine as if they would attract us up to God.

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2018年

1月

30日

◆知識か? 聖書の言葉か?◆

もし“知識”が祝福なら、悪魔は天にいるであろう。

私は、クリスチャンの大いなる誤りは、彼らが聖書を十分に探究しないことであると信じる。

 

【解説】 今回もまた、彼の2つの文章の抜粋ですが、人間の知識は、決して祝福ではないのですね。いにしえ、天使の一人は、神様のように賢くなろうとして、天を追われ、悪魔に堕落したのです。天では、己の知識を誇るものは一人も入る余地がありません。ところが、私たちは、ともすれば、信仰の道を究めようとして、いろいろな神学書を読みあさります。私の書棚にも、この半世紀で買いためた2000冊を下らない神学書が並べてありますが、それで神に関する知識は増えても、肝心かなめの聖書を、それに勝る情熱と飢え渇きを持って読んでいるかというと、忸怩(じくじ)たるものがあります。私たちは、絶えず聖書から、神様への信仰と、魂への愛を呼び覚ましていただかなければならないのです。私に、日々新たに神を見いだす喜びと、滅びゆく愛する魂への燃えるような救霊の熱情が失われているとすれば、「聖書第一」の姿勢が失われた当然の結果と言わなければなりません。このスポルジョンの言葉は、その意味で、まず私に向けられています。

 

(Ⅰコリント8:1) 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

 

If knowledge were bliss the devil would

be in heaven.

I believe the great fault of Christians

is that they do not search the Scriptures enough.

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2018年

1月

13日

◆ローマも教会も一日にしてならず◆

私たちは、“救霊”は、教会員名簿により多くの名前を性急に加えていくことによって成し遂げられるとは考えていない。

 

”ローマは一日にして成らず”、地域教会も一週にしては成らないのだ。人は、誰もが福音を初めて聞いて、その全てを受け入れるわけではない。イエスのために魂に食い入ることは、薪(まき)を割るのにどこか似ている。そのために私たちは、くさびを使う必要があるが、その一端は極めて細身で小さくはあっても、打ち込まれるほどに、その裂け目は大きくなっていくのである。

 

新しい回心者は、教会の“血管”に、新鮮な血潮を流し込んでくれる。

 

【解説】 これは、出典の異なるスポルジョンの3つの救霊論文からの抜粋ですが、”救霊”の業の労苦と喜びを、“くさび”と”血管”という巧みな例えを使って、実に的確に描いていると思いませんか? そして編訳しながら私が改めて心を探られたのは、私たちは、最初の部分の、いたずらにクリスチャンを“粗製乱造”して、名簿に教会員数が増えていくことに満足するか、あるいは最後の部分のように、かつて新しい信仰者の救われた喜びの証しを涙して聴き、彼らが主のためにいきいきと奉仕する様を心から感謝した日の記憶をいつの間にか忘れているかの、どちらかではないのか、ということでした。“救霊”と教会員数の増加は、本質的に似て非なるもの、後者は前者からの結果であって、断じて教会の目指す目的ではないのです。また、日本の教会に今一番必要なのは、一人の魂が救われたときの群れを挙げての喜びを取り戻すことです。そのために何よりも大切なのは、忍耐を持って、今与えられている求道者の人たち、祈りに覚えている友や家族の心に、“み言葉”のくさびを、忍耐を持って打ち込み続けることではないでしょうか?

 

We do not consider soul winning to be accomplished by hurriedly inscribing more names upon our church-roll.

Rome was not built in a day, nor will a parish be saved in a week. Men do not always receive all the gospel the first time they hear it. To break hearts for Jesus is something like splitting wood: we need to work with wedges that are very small at one end, but increase in size as they are driven in.

The new converts put fresh blood into the veins of the church.

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2017年

12月

27日

◆詩篇23篇に寄せて◆

「私は全てのものを持っていて、満ちあふれている。」

それは、私が銀行に多額の金を預けているからではなく、

日ごとの糧を得るための技術や才覚を身に着けているからでもない。

「主が私の牧者である」からなのだ。

 

【解説】 これは、詩篇23篇の中でも、冒頭の1節に寄せたものです。カッコにくくった部分を、倒置して読めば容易に分かりますね。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」(口語訳)

 そのうち冒頭のカッコの部分は、ピリピ人への手紙4:18をも踏まえています。

「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」(新改訳)

 またこの詩篇は、私たちの良き牧者、イエス様の言葉も思い起こさせますね。

(ヨハネ10:11) 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 ここで、“説教者のプリンス”と呼ばれたスポルジョンの目は、この1節の前後の関わりの大切さを見逃しません。「主は牧者であって、私は満ちあふれている。」―この前節、後節は、決して単なる並列ではなく、前者あっての後者であり、この前者は「主が牧者であるゆえに」という、後者の根拠を示しています。すなわち、私たちの満ちあふれて余りある一切の祝福の源を、「私の羊飼いであられる主」に置くべきことを、私たちに教えているのです。

 余談ですが、詩篇23篇には思い出があります。妻は十代の若い頃、病院伝道でイエス様に出会ったのですが、導いてくれた先生から詩篇23篇を教えてもらい、このみ言葉を口ずさんで、結核による肺切除の苦しみを耐えたといいます。結婚してからも、これは二人の愛唱詩篇となりました。やがて妻の母が、妻の導きによってイエス様を信じました。家庭礼拝では、もう80を過ぎた母に、一節一節繰り返して暗唱させ(“八十の手習い”ならぬ“聖句暗唱”は大変だったでしょうが!)、とうとう全節をそらで言えるようになりました。晩年は認知症になり、妻以外は、他の子供たちの顔も分からないほどでしたが、最期まで、詩篇23篇は口を突いて出たそうです。

   我がために命を捨てし君ゆえに 

         乏しきことの絶えてなかりき

   満ち足りて感謝のうちに今あるは 

         ただに主は我が牧者なりせば

 あなたも、詩篇23篇を、いま一度読み返してみませんか?

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2017年

12月

16日

◆”服従”への神の評価◆

1)半端な服従は、完璧な不服従である。

2)もし私たちが神の命令どおりに事を行って、成功したように見えないとしても、私たちの落ち度ではない。私たちが“服従”においては失敗しなかった限り、“失敗”それ自体は、“成功”と言えるからだ。

 

【解説】 改めて、”服従”に対する人間の規準と神の規準の違いを考えさせられますね。

1)において際立つのは、人間の規準の甘さと、神の規準の厳しさです。私たちは、ともすると「できるところまでは従ったんだから」と、神への服従に自分で限界を許容しようとしますが、神様はきっぱりと、「それは不服従と全く同じだ」と言われるのです。原文を“%”入りで訳すと、「50%の服従は、100%の不服従である」ということです。

2)においては、神様が問われるのは、どんな場合でも、「あなたは私の戒めに本当に従いましたか?」ということだけ。結果については一切問われないということです。結果が大成功であろうが、惨めに失敗しようが、神様には全く同じ、意に介されないのです。神様の目は、「たとえどんな結果になろうとも、神の言われるとおりにしよう」という私たちの心の“意志”にだけ注がれます。その結果、失敗したとしても、神様は言われるのです。「よくやった。あなたの、この世的な”失敗”は、私に従ったという一点において、この天においては“成功”なのだ」と――。

 

1) Half obedience is whole disobedience.

2) If we do as God commands, and do not seem to succeed, it is no fault of ours. Failure itself would be success as long as we did not fail to obey.

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2017年

12月

04日

◆楽しみは”数”によらず◆

私たちを幸せにするのは、

どれほど多くを持っているかではなく、

どれほど楽しんでいるかによるのだ。

 

It is not how much we have, but how much we

enjoy, that makes happiness.

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2017年

11月

23日

◆本に宿れ、されど聖書に住め◆

【解説】

今日は、珍しくもイラストでお送りします。(スポルジョンがこの漫画を描いた…わけではありません。)

本(神学書も含みます)と聖書の決定的な違いを、ホテルなどに短期間「滞在する

visit」のと、生涯「住む live」ことの違いに例えたところに、彼のイギリス流ウィットが感じられますが、それを巧みに生かしたこのイラストも秀逸ですね。拡大して見てみてください。住んでいるのはまさに「聖書の館(やかた)」で、温かい暖炉のあるリビングの壁は「イザヤ書45章」、その部屋にしっかり収まって目を通して(visitの別訳)いるのは普通の本、その人物は、もちろんこの館の主(あるじ)スポルジョンです。ちなみに、この45章の22節は、彼が劇的な回心に導かれたみ言葉です。

 

(イザヤ 45:22) 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

 

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2017年

11月

13日

◆争い: 大いなる自己矛盾◆

“争う羊”なるものは、理解しがたい生き物である。

同様に、“争うキリスト者”なるものは、誰の目にも自明な“矛盾”である。

 

【解説】 スポルジョンの“争う羊”の例えは、言い得て妙です。羊は、あらゆる動物の中で、最も“争い”とは無縁の生き物と言われていますので。私たちクリスチャンも、本来、イエス様の十字架を仰いで救われた瞬間から、この“争い”とは最も無縁の存在にされた者でした。けれども現実には、多くの争いがあります。教会の中に、教団・教派の中に、そして歴史は、“争い”が“戦い”になり(原文のfightはいずれにも訳せます)、信仰の名のもとに多くの血を流した事実を示しています。そんなとき、私たちは争うことによって、“平和の君”なるイエス様を、この身をもって証しすべきこの世の人々に、言葉以上の雄弁さでこう叫んでいるのです。「このとおり、私は矛盾した存在です。こうして人と争って、主イエスが私のために流してくださった貴い血潮を無益にしている者です。どうぞ、決してクリスチャンにはならないでください」と! 

あらゆる「争い」は、私たちの中の“肉”が、己の正しさを相手に認めさせようとしてなせる業です。柔和なキリストのみ霊が、私の魂の深いところを支配していないのです。完全に明け渡していないのです。そして、み言葉の権威への服従が、不徹底なのです。聖書は、始めから終わりまで、“神との平和、人との平和“を説いています。今、静まって、その中から、次のみ言葉を読み、み前に祈りの時を持ちませんか?――

(マタイ 5:9) 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

(エペソ 2:14-16) 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

(Ⅱテモテ 2:24,25) 「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。」

(ローマ 12:18) 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

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2017年

11月

03日

◆ハレルヤ 死の恐れなし◆

“死の死”を死なれたお方を見つめ、頼る他に、本当に死の恐れから解き放てるものはない。

 

【解説】 「“死の死”を死なれたお方」。すみませんが、ちょっと分かりにくいでしょう? 原文を生かしつつ、なんとか日本語にしようと思ったら、これで精いっぱい。原文を直訳すると、「その死が“死の死”であられたお方」となります! “死の死”とは、動詞形にして「死に対して死んだ」「死を死なせた」と考えれば、少しは分かりやすくなりますね。そうです、イエス・キリストが、罪の究極の結果である“死”に対して、ご自身のあの十字架の身代わりの死によって、勝利を収められたことを指しているのです。死は一人の例外もなく、誰にも訪れますが、このお方に在って、私たちはすでに死の恐れから解き放たれているのです。パウロの勝利の叫びを、あらためて感謝のうちに聞きましょう。そして、この平安を、愛する人にも知っていただけるよう、“全力を注いで”(口語訳)証しの業に励みましょう。

 

(Ⅰコリント15:54-58)「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 

"There is no true deliverance from the

fear of death except by looking to him whose death is the death of death."

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2017年

10月

23日

◆墓のかなたの喜び◆

私たちは、一人また一人と、“死”による別れを嘆き悲しんできた。

だが私たちは、もはや墓場の存在しない、永遠の地へ行こうとしているのだ。

 

【解説】 私自身も、17年前に母を、15年前に義母(妻の母)を、7年前に義弟(妻の妹の夫)を、そして2年前に義兄(妻の兄)を亡くしました。それぞれに、生前良き交わりを頂き、かけがえのない家族でした。あなたにも、愛する人を亡くされた悲しみの記憶がきっとおありだと思います。しかもその記憶は、決してとどまることがなく、一つ、また一つと増えていき、やがて自分も、残された人の記憶の中に入る日が確実に訪れるのです。それが人の世のならいです。でも、主イエス・キリストを信じる者は、この地上の命を終えても、たちどころに“永遠の地”へ移されるのです。(“墓場の存在しない地”というスポルジョンの描写が新鮮で心に迫ります。)私たちは、かの地で、永遠に主と共に、主を賛美しつつ生きられるだけでなく、主にある人々と再び相まみえることができます。冷たい死の墓の向こうには、大いなる喜びが待っているのです。この希望の中に、愛する人を、一人でも多くくわえることができるように、今日もこの人のために、あの人のために、主にとりなしをせねばと祈らされます。

 

(ヨハネの黙示録21:3,4) 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

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2017年

10月

13日

◆存在権のない教会◆

もし教会が...
異教徒や無神論者を教え導き、
悪と戦い、
誤りを打ち砕き、
偽りを“こき下ろす”ためにあるのでなく、
貧しき人々の側に立ち、
不法を糾弾し、
神の義を高く掲げるためにあるのでなければ、
その教会は“存在する権利”を持たない。
(訳 小川政弘)
A church that does not exist to reclaim heathenism, to fight with evil, to destroy error, to put down falsehood, a church that does not exist to take the side of the poor, to denounce injustice and to hold up righteousness, is a church that has no right to be.

 

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2017年

9月

28日

◆キリスト教の二つの衣◆

“慈愛“と“清廉”は、キリスト教の二つの衣である。

 

《ソフト現代訳》

“思いやり”と“清さ”は、クリスチャンの着る二着の衣服です。

 

【ひとこと】 原文では、この2つの語、charityチャリティーと purityピュリティーで韻を踏んでいます。

 

Charity and purity are the two garments of Christianity.

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2017年

9月

18日

◆♬私は小さい灯 光りましょう◆

あなたは、自分の明かりは小さいと思うかもしれない。

だがそれは、他の人々の人生の中で、

実に大きな違いをもたらすことができるのだ。

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2017年

9月

06日

◆あなたの心の王座に座るのは?◆

“罪”は、絶対的な“恵み”が引きずり降ろすまでは、

心の王座に君臨するのだ。

 

Sin is sovereign until sovereign grace dethrones it.

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2017年

8月

27日

◆救われるべき友のために泣いていますか?◆

主イエス・キリストは、エルサレムのために泣かれた。だからあなたもまた、あなたを通して救われるべき罪びとのために泣かなければならない。

愛する同信の友よ、真剣であれ。その救いの業に、あなたの魂の全てを注ぎだせ。それができなければ身を引くことだ。

 

(マタイ23:37,38)

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」

(ルカ 19:41,42)

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。』」

 

The Lord Jesus Christ wept over Jerusalem, and you will have to weep

over sinners if they are to be saved through you. Dear brethren, do be earnest,

put your whole soul into the work, or else give it up.

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2017年

8月

14日

◆天国に入れないクリスチャン?◆

“いっときクリスチャン”はクリスチャンではない。

信じ続けるまことの“信仰者”だけが、天国に入るのだ。

 

Temporary Christians are no Christians: only the believer who continues

to believe will enter heaven.

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2017年

8月

07日

◆”驚くべき恵み”も砂に書いたら◆

私たちは、あまりに多く、

“試練”は大理石に刻み付け、

“恵み”は砂の上に書き付けてしまいがちである。

 

【解説】 この性質は、そもそも、神の創造の恵みを忘れて、唯我独尊の道を選び取った人間の“原罪”以来、人の心に文字どおり刻み付けられた“負のDNP”ですね。以来人間は、どんな小さなことでも、他人から受けた被害は言葉でも行為でも決して忘れず、心の中にしかと刻み付け、増殖させ、復讐心を燃やし、過剰な報復をしてきました。人間関係の様々な軋轢、争い、傷害、殺人、戦争…全てはその結果です。また試みによって受けた心の傷は、いつまでも、時には永遠に続くかと思うほど心の奥深くにとどまり続け、どうにかしてそこから脱出して、新しい道に踏み出そうとしても、すぐに引き戻されてしまうのです。

一方で、受けた恵みを忘れることの驚くべき速さはどうでしょう。そもそも恵みを恵みとして感じる心の琴線が、この自我自尊の罪のゆえにかなりほこりがたまって鈍くなっているので、ほんのいっとき感謝に揺れても、すぐにその振動は止まってしまい、本来はいつまでも奏で続ける美しい余韻の響きは、ものの三日と持ちません。その時はどんなに大きな字で”感謝””ありがとう”と書き付けても、それが砂では、風や波で、たちどころにかき消されてしまうのです。

神様のみ力によって、大理石に刻み付け、砂に書き付ける内容を、完全に変換しなければなりません、“恵みは心の大理石に、試練は砂に”――。今からでも遅くはないのです。あなたの残された人生、このパラダイムシフト(劇的な思想転換)によって、どれだけ神様の祝福に満ちたものになるでしょうか。これができる力は、私たちの内にはありません。あの十字架の主を―ご自分を苦しめた人の赦しを願い、そのお姿を真下から見上げたヨハネに「ここに愛がある」と言わしめた、あのお方をただ仰ぐ以外には――。

 

(詩篇 119:71)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

(詩篇 103:2)

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

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2017年

7月

29日

◆死は懲罰か? 喜びか?◆

信仰者にとって、死は懲罰ではない。

それは、終わりなき喜びに入る門口なのだ。

 

(ピリ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

【解説】 先日、日野原重明先生が105歳の天寿を全うして、天国に凱旋されましたが、多くの天使たちに守られて、この“喜びの門口”を入っていかれたことでしょう。故古山洋右先生は、「死は天国への待合室」と言われ、末期がんの苦しみの中でも、感謝と喜びと賛美に包まれて、天に帰っていかれたそうです。私事ながら、私の母が召天してもう17年になりますが、その葬儀に来てくれた会社の女性の一人は、クリスチャンではなかったのですが、「こんな葬儀なら私もしてもらいたい」と言っていました。

クリスチャンにとって、なぜ死は裁きではないのでしょうか? それは生前善行を積んだからではありません。自らの自己中心と不信仰の罪を認め、イエス・キリストの身代わりの死と復活を信じて、罪を赦されたからです。信じない者にとっての、究極の裁きである“死”の縄目から解放されたからです。なぜ“終わりなき喜びへの門口”なのでしょうか? 主イエス・キリストと共なる永遠の命の世界に入れられるからです。愛する人と再会し、もはや死も悲しみも叫びもない世界で、永遠に主を賛美することができるからです(ヨハネの黙示録21:4)。この確信を持って、私たちは、この喜びの門口をいつでもくぐれるように、死と隣り合わせの人生を、天を仰いで生きてまいりましょう。

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2017年

7月

17日

◆福音はトーンダウンされていないか?◆

我が愛する友よ、

福音を、肉なる者(世的な人間)の心に心地よいものにしようとするなかれ。

十字架の真髄が失われぬよう、その”つまずき“を隠そうとするなかれ。

福音の片隅や人目に付かぬところこそ、その力。

そこを削り落とすことは、その力を奪い去ることだ。

福音のトーンを和らげるのは、十字架の力を増すのではなく、

その力をを殺すことなのだ。

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2017年

7月

04日

◆地上最期の慰め◆

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:34)

これは、死にゆく全ての聖徒への、キリストのささやきである。

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2017年

6月

25日

◆イエスのみ手の中で祈る◆

私たちの祈りや努力は、

私たちの心を正しく変えてくださるイエスのみ手を離れては、

天国に入るにふさわしい者とはしてくれない。

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2017年

6月

16日

◆守るべきは主のみ名か? 己が名声か?◆

私たちは、自分自身や自分の評判を守ることに必死である。

そしてしばしば、自分は“自己保身”こそ自然の最高の掟であると考えているかのように、行動するのだ。

 

We are keen to guard ourselves and our reputations, and often act as if we thought self-preservation the highest law of nature.

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2017年

6月

06日

◆厳粛な警告◆

“十字架”を無視してみよ。

あなたはイエスへの信仰を抹殺したことになるのだ。

 

 

Leave out the cross, and you have killed the religion of Jesus.

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2017年

5月

29日

◆祈りがライフラインなわけ◆

神からの逸脱は、十中八九じっちゅうはっく、神への個人的な祈りをないがしろにすることから起こるのだ。

 

Nine times out of ten, declension from God begins in the neglect of private prayer.

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2017年

5月

18日

◆サタンは忍者のごとし◆

私たちは、どんな時でもサタンを警戒していなければならない。なぜなら、あたかも泥棒のように、彼は近づくそぶりも見せないからだ。

 

【解説】 これにひと言、続けておきましょうか。「そして現れるときは、決まって“善人”を装うのだ。」 こちらも、頭から人を疑ってはいけませんが、サタンは、背後にあって善人をも用いることがあるから恐ろしいのです。ですから私たちも、鳩のように素直であると共に、蛇のように賢くなければなりません(マタイ10:16)。

 

(Ⅱコリント 11:14) 「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」

 

We must always be on our watch against Satan, because, like a thief, he gives no intimation of his approach.

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2017年

5月

04日

◆あなたの冠は、イバラか? ダイヤか?

主がイバラの冠を見いだされたところに、栄誉ある王冠を探す気など、私たちにはさらさらない。

【解説】 原文では、この2つの冠を、スポルジョンは注意深く使い分けています。「イバラの冠」と訳したcoronetは、王子や貴族のかぶる小さな冠、あるいは女性の冠状の頭飾りです。それに対し「栄誉ある王冠」と訳したcrownは、絶対的権威の象徴として、文字どおり王のかぶる王冠・宝冠です。

 栄光の天を離れて地上に来られ、人の自由と人間性を奪う地上の権力と権威とに立ち向かい、病める者、悲しみ悩む者、虐げられた者の友となられた神のみ子が、最後にかぶらされたイバラの冠は、頭皮に食い込み血が頬を伝う肉体の痛みと共に、恥辱と侮蔑と嘲笑の中に神のみ子としての己の尊厳を踏みにじられる霊の苦痛を伴うものでした。それは、私たち全ての人間が己の罪のゆえに味わうべき痛みを進んで負われた、主の“謙卑”のシンボルだったのです。その愛のゆえに救われ、生かされている私ちは、このイバラの冠(信仰のゆえに味わう試練や、苦しみ)を、今度は主に代わり、進んでかぶらなければならないのですが、現実にはどうでしょうか? 知らず知らずのうちに、地位・名声・財・学識・権力・権威などのこの世の“宝石”のちりばめられた、輝かしい王冠をひそかに求めてはいないでしょうか? 

 私たちの冠は、心の奥深くでかぶるものです。ですから一人一人、十字架の主のみ前に静まって、心の奥深くに、こう問わなければなりません。“私の冠は、主がかぶられたのと同じ、イバラの冠か? それとも、誇らしげにかぶる誉れの王冠か?”と――。

 

(ピリピ 2:6-8)「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 

Far be it from us to seek a crown of honour where our Lord found acoronet of thorn.

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2017年

4月

27日

◆”ほとんど救われた”ではダメなのです◆

”ほとんど救われている”というのは、要するに“失われている”のと同じことだ。

地獄には、かつて“ほとんど救われた”が、今は全く呪われている人々が大勢いる。

 

【解説】 “何とか救われてほしい”という思いが先走って、相手が少しでも“信じた気配”が見えると、それをもって安心して導きの手を緩めてしまう。それが、”ほとんど救われた”人、そしていつの間にか信仰から離れていく人を大量につくり出している原因だとスポルジョンは言います。すなわち救霊の“詰め”が甘いのです。魂を信仰に導くとき、私たちは;

① まずその人が自分の口で、はっきりと「私はイエス・キリストを私の救い主、主として信じ、受け入れます」という信仰告白をすることができるようにしてあげなければなりません。ただし、それを“強要”してはいけません。忍耐をもって、“神様の時”を待つべきです。

② そして、その後の信仰生活の基本である、聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、証しをすること、喜んで献金をすること、などをしっかり教えなければなりません。“鉄”は熱いうちにしっかり打ち鍛えないと、弱さともろさを抱えたまま、すぐに冷えていきます。

これは、牧師の責任であり、私たち先に救われた者の責任なのです。

 

(ローマ10:9,10)

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ12:11,12)

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 

Almost saved is altogether lost. There are many in hell, who once were

almost saved, but who are now altogether damned.

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2017年

4月

21日

◆目を上げて、とにかく彼を見るのです!◆

私たちは罪に満ちている。

だが救い主は、何としてもご自身を見上げるようにと、

私たちを促しておられるのだ。

 

We are full of sin, but the Savior bids us lift our eyes to Him.

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2017年

4月

12日

◆祈りに勝る親切なし◆

◆祈りの家◆

―祈りに勝る親切なし―

 

私のために祈ってくださるほど、より頼りになる親切のできる人は、この世にいません。

~チャールズ・スポルジョン~

 

【訳者ひとこと】 これはスポルジョンだけではありません。訳者の私にとってもそうです。かのパウロでさえ、「私のために祈ってほしい」と、聖書の中で7回も懇願しているのですから。エネルギッシュの化身のようだった彼も、同労者の祈りなしには、何ほどのこともできなかったのです。「小さな親切 大きなお世話」ということわざを耳にするたび、私は“人の親切を何で素直に受け入れられないのか”と、日本人のあまりの遠慮深さと、気位の高さと、許容力のなさを嘆く者ですが、こと祈りに関しては、「小さな祈り 大きな親切」と声を大にして言いたいですね。

 

①「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ロマ 15:30)

②「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」(エペソ 6:19)

③「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」(エペソ 6:20)

④「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください」(コロサイ4: 3)

⑤「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように祈ってください。」(コロサイ4: 4)

⑥「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」(Ⅰテサロニケ 5:25)

⑦「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。」(Ⅱテサロニケ 3: 1)

 

“No man can do me a truer kindness in this world than to pray for me.”

—Charles Spurgeon

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2017年

4月

11日

◆賛美で天を汚すなかれ◆

心のこもらない賛美は、天への侮辱である。

 

【解説】いつもながら、歯に衣(きぬ)を着せぬスポルジョンの鋭い言葉です。“天”はみ使いたちと神にあがなわれた人々の賛美に満ちあふれたところです(ヨハネの黙示録4:8-11、5:11-14他)。そこにおいてみ座に着いておられ、賛美を受けられるお方はイエス・キリスト。そしてその地上のみ体である教会においてささげられる賛美は、ストレートに天に届いているのです。教会の特質は、賛美において端的に表れると言います。けだるい、力のない、“心ここにあらず”のような賛美しかささげられない教会で、魂が次々に救われるということはまずありません。反対に、説教は多少つたなくとも、福音がまっすぐに語られ、心の底から喜びにあふれてくるような、力強い賛美がささげられる教会では、救われる方が不思議なほど次々に起こります。その人々は、賛美を通して、その対象であるお方の“命”に触れるからです。もうだいぶ前に、今は故郷に帰られたある姉妹から、「小川さんの賛美を聞いていると、神様を感じます」と言われたことがあります。今までに聞いた、何よりもうれしい言葉でした。
あなたの賛美はいかがですか? ゆめゆめ、心ならずも天の主のみ名を辱めることのないよう、「主よ、賛美の霊を与えてください」と日々祈る者でありたいですね。

 

(コロサイ 3:16) 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 

Heartless hymns are insults to heaven.

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2017年

3月

08日

◆もしや、あなたの王座にいるのは”Sin王”では?

”罪”は、“恵み”なる主権者によって追放されるまでは、あなたの心の王座に君臨するのだ。

【解説】久々のスポルジョンです。上記で、”主権者”、”君臨する”と訳した語は、いずれもsovereignソヴァレインという語です。前者の名詞形、後者の動詞形、いずれにも訳される語ですが、ここにも一流の文筆家でもあった彼の修辞の冴えが見られます。名詞形では、“主権者”の他に”君主、王、支配者”とも訳されますが、スポルジョンがここで言っているポイントは次のことです。
① あなたの心の王座に君臨するのは、Sin(罪)王か、それともGrace(恵み)王か? という問いに、私たちは、静まって答えなければなりません。今だけでなく、日ごとの静思の時の中で――。
② “罪”の反対語は何か? いろいろに考えられますが、事、あなたのクリスチャン生活の祝福のカギという点から考えるなら、それは“義”でもなければ“善行”でもない。“恵み”なのだということです。これなしに、信仰生活は成り立ちません。もしそれを実行しようとするなら、厳しい律法主義の下で、絶えず罪意識におびえながら、命のない生き方を自らに課すしかありません。端的に言うなら、人は、”罪”に生きるか、”恵み”に生きるか、この二者択一しかないのです。
 ③ したがって、私たちは、その正しい選択を、日ごとに求められています。“罪”が君臨する中でその奴隷として惨めな屈従の生き方をするか、圧倒的な“恵み”に満たされて、喜びと感謝の生き方をするか――。その勝利のカギは、自分の力で罪と戦うのではなく(そこには敗北が待つだけです!)、“恵み”の王キリストを、あなたの王座にしっかりと据え直すことです。そして、この“恵み”王のあふれる力で、罪を駆逐していただくのです。王座から引きずり降ろして(原語 dethroneの直訳)いただくのです!
この世の様々な誘惑の中で、サタンをバックにした強力な罪の支配を脱する道は、これ以外にないことを心に刻み込みましょう。

 

Sin is sovereign until sovereign grace dethrones it.

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2017年

1月

21日

◆聖書: ”祈り”の最大の宝庫―

聖書のいかに多くの部分が、”祈り”というテーマで占められているか。――与えられた、私たちに必要な祈りの例、守るべき祈りの教訓や指針、そして明らかに宣べられた祝福の約束などについて考えてみるのは、興味深いことである。

 

It is interesting to consider how large a portion of the Bible is occupied with the subject of prayer, either in furnishing examples, enforcing precepts, or pronouncing promises.

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2017年

1月

19日

◆悲しみよりも力ある主をたたえて◆

私たち、召し出され、信ずる者とされ、選ばれた者たちは、自らの深い悲しみは遠くに追いやり、神のみ名によって、“信頼の旗”を打ち立てよう。余人には、彼らの問題を悲しませるがよい。私たちは、喜びをもって、主の大いなるみ力を褒めたたえるのだ。

 

We, the called and faithful and chosen, will drive away our griefs and set up our banners of confidence in the name of God. Let others lament over their troubles; we with joy will magnify the Lord.

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2017年

1月

18日

◆冒涜とは、神の恵みを無にすること◆

神は、この邪悪な世に対して、救い主を送らねばならない義務などなかった。だが、驚くべき恵み(アメイジング・グレイス)によって、彼はただ一人の愛するみ子をお与えくださったのだ。
この神のたまものを拒むことは、最大の“涜神罪”(神を冒涜する罪)に当たる。

 

God did not owe this wicked world a Saviour. But in amazing grace, He gave His only begotten Son. Rejecting His gift is the highest blasphemy

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2017年

1月

17日

◆今日も、漂うのですか?◆

私たちは、“永遠”という名の大海原に近づいていく”時”という名の川に沿って、漂っているのだ。

 

【解説】 スポルジョンには珍しい、何やら哲学的瞑想にいざなう一節ですね。仏教の時の概念が”円”(輪廻)であるならば、キリスト教のそれは“線”です。しかもそれは不可逆線で、決して引き返すことができません。まっすぐに終末と永遠の世界に向かって延びているのです。スポルジョンは、この線を川に例え、永遠の世界を大洋に例えました。多くの人々は、自分の乗った船がどこに行くかも知らないまま、日々漂っています。目的地を持たない人生は“漂流人生”です。いつしか流れの中で朽ち果てるか、やっとたどり着いた先は永遠の滅びです。友よ、大洋の深みに向かってこぎ出すのです! 人生の川は時には大揺れに揺れます。でも、しっかりと舵を定めた船は、もはや漂うことなく、着実に前に向かって進んでいくのです。はるかな、しかし信じる者には確かに待っている、主と共なる永遠の大海原を目指して!

 

We are drifted along the river of time nearer to the ocean of eternity.

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2017年

1月

16日

◆”生きる”備えはできていますか?◆

“死”に備えるということは、“生”に備えるということである。“永遠”に対して備えるということが、本当に意味するところは、今の“時”に備えができているということなのだ。

 

(ピリピ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

To be prepared to die is to be prepared to live; to be ready for eternity is in the best sense to be ready for time.

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2017年

1月

09日

◆恐るべき逆転◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆
Charles Spurgeon - The Prince of Preachers
―悲しむべき逆転―

私が子供の頃は、「人の主な目的は、神を褒めたたえ、永遠に神を喜ぶことである」と学んだものだ。だが、現代では、新神学なるものによればこうなのだ。「神の主な目的は、人間を褒めたたえ、彼を永遠に喜ぶことである」。しかしながらこれは、物事を逆さまにするものだ。

【解説】 スポルジョンが子供の頃に学んだもの、そして私たちクリスチャンが、現代でも依って立つキリスト教信仰の揺るぎない基盤は、あなたもよくご存じの「ウェストミンスター小教理問答」の第1問ですね。それを覆したのが、ドイツに始まり、全世界の福音主義神学の”神第一”の信仰に悪しき影響を与えた、“人間の理性第一”の自由主義神学でした。スポルジョンは、その考え方の誤りを、このように痛烈な皮肉をもって、厳しく正しています。しかしこれは、神学の世界のことだけではないのです。人類は今、本来は神を褒めたたえるために与えられた知能を目まぐるしい速さで進化させて、神の領域にどんどん踏み込もうとしています。最も危険な隣国北朝鮮の、核開発による世界平和への挑戦、生命倫理の一線を踏み越えて、人間が、思いのままの生命を創り出そうとしている医学界の現実――。人が、創造者を畏れることを忘れ、己に栄光を帰し始めるとき、それは神の裁きによる人類滅亡への始まりとなります。この信仰の先達の警告を、私たちキリスト者は引き継いで発し続けなければなりません。遅すぎないうちに――。

 

I learned, when I was a boy, that the chief end of man was to glorify God and enjoy him forever; but I hear now, according to the new theology, that the chief end of God is to glorify man and enjoy him forever. Yet this is the turning of things upside down.

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2017年

1月

07日

◆時がよくても悪くても…◆

もし収穫のない季節が訪れたら、種蒔きはやめにせずばなるまい、などということを想像してはならない。
私たちの仕事は、“行動”することであって、“結果”を見ることではないのだ。

 

We are not to imagine that if unfruitful seasons come, we are therefore to cease from sowing our seed. Our business is with act, not result.

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2017年

1月

06日

◆私が”選びの教理”を信じるワケ◆

私は“選び”の教理を信じる。なんとなれば、もし神が私を選んでくださらなければ、私が神を選ぶことは絶対なかったことを、心から確信しているからである。

 

【解説】 はい、この2行の文章に、身びいきでもなんでもなく、「さすがスポルジョン!」と私はうなりました。なぜなら、「選び」というキリスト教の奥義中の奥義は、詳しく説明しようと思ったら、このテーマで本を書けるほどのもので、それでも完璧に説明し尽くすことのできない神秘なのですが、それを彼は、幼子のような単純さをもって、このように言い放ったからです。これは“神の選びと人の信仰”の表裏一体性を、聖書の中から正しく、深く組みだした彼にして言い得る“信仰告白”とも言えるでしょう。

 

(ヨハネ 15:16) 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

(エペソ 2:8,9) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

I believe the doctrine of election, because I am quite sure that if God had not chosen me I should never have chosen Him.

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2017年

1月

05日

◆新年に気をつけたい2つの徴候◆

聖霊なる神が人に自分自身を見せてくださるときは、ひそかに高く評価していた自分自身にほとほと嫌気がさすものだ。

 

私たちの“祈りの膝”が弱くなるときは、あなたが“全人的”に弱くなっているしるしである。

 

【解説】 “警告者”スポルジョンの毒舌…ならぬ鋭舌はなおも続きます。この徴候、前者は「潜在性自己過大評価症」、後者は「霊的膝関節症」と申しまして、そのままにしておきますと、私たちの信仰生活に重大な支障を来します。両者に共通しているのは、内なるみ霊のご支配の不十分さ、あるいはさらに進行すると欠如です。それに代わって、この世の様々な思い煩いや、外面的な成功による自己過信が、いつしか私たちの心の領域を大きく占めるようになっていくのです。最も効果的な治療法は、ズバリ“祈る”ことしかありません。示された罪は悔い改め、生活全般の中に、そしてあなたの心の王座に、聖霊なる神様のご支配領域をしかと定め直すことです。

 

(詩篇139:23,24) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

When God the Holy Ghost gives a man a view of himself, he is utterly loathsome in his own esteem.
When we grow weak on our knees it is a sign of weakness throughout the entire man.

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2017年

1月

04日

◆主のいますところ、敵もまたあり◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆
Charles Spurgeon - The Prince of Preachers
―主のいますところ、敵もまたあり―

キリストがおられるところには、”ヘロデ”や”ユダ”もどこか近くにいるということは、私たちがいつも体験するところである。

【解説】 スポルジョンは、“直截の人”であり、また“警告の人”でもあることを知らされますね。この警告を聴いて、私の心にまず浮かんだのは次の聖句です。
(Ⅰコリント10:12) 「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」
私たちが“立っている”と思うとき、それは、“私は今、キリストと共にある、喜びと主の臨在に満たされている。全てのものが、祝福に満ちている”と感じるときです。だがそこに、ヘロデ=主の主権を奪おうとするこの世の様々な圧力と、ユダ=思いもかけずに私を裏切る身近な人が現れ、私たちは大きくつまずき倒れることがあるのです。
そしてもう一つの聖句はこれでした。
(Ⅰペテロ 5:8) 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
ヘロデヤユダの背後にある敵の正体は、空中の権を持つ者、サタン=悪魔です。そしてサタンがいる最もあなたに近い場所、それはあなたの“心”の中です。堕落した天使であるサタンの地上の住みかは、一貫して人の心なのです。決してこの狡猾な闇の主権者に、あなたの心の主のみ座を明け渡してはなりません。そばに近づけてもいけません。そのためには、“身を慎み、目を覚まして”いることです。サタンが最も好きなエサは、人間の“高ぶり=傲慢”であることを、ゆめお忘れなきように――。

 

We always find that, where Christ is, there is a Herod or a Judas somewhere near.

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2017年

1月

03日

◆”神の選びの民”を探せ!◆

私たちは、異邦人(異教徒、未信者)を回心させなければならない。神は彼らの中に、あまたのご自身の“選びの民”をお持ちなのだから、私たちは出ていって、どうあっても彼らを見いださなければならないのだ。

 

(使徒 18:9,10) 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」。

 

【解説】 今日のスポルジョンの言葉に、2つのことを教えられます。
① 引用した聖句を皆さんはどう解釈していましたか? 私は、この「わたしの民」とは、既にイエス様を信じているが、諸事情で教会を離れている人、母教会の圏外に引っ越して、教会を探している人のことと思っていました。でもこれは違うのです。本人はまだ信じていないけれど、神様にはすでに“選ばれて”いる潜在的クリスチャンのことなのですね。
② したがって、これは、「神の選びと召し」という大いなる信仰の奥義を秘めた言葉だと言えます。すなわち、私たちの宣教論は、どんな場合でも、証しし、伝道する私たち人間の目線でではなく、永遠の昔から、既にご自身の民を選んでおられる神様の視点で語られ、理解されなければならないということです。スポルジョンは、must(…ねばならない)という最上級の強い義務感を表す言葉を2度も用いていますが、これは決してクリスチャンの伝道の義務を人間的観点から強いているのではなく、“神様にすでに選ばれている人を、私たちの怠惰によって失ってはならない。どんなことをしても、その人々を探し出さなければ!”という、神様の促しへの“応答”の決意の表れなのです。
この新しい年も、2000年前の弟子たちのように、“神の選びの民の探索者”として、恐れずに語り続けねばと思わされることです。

 

We must have the heathen converted; God has myriads of His elect among them, we must go and search for them somehow or other.

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2017年

1月

02日

◆まず己の栄光に死ぬべし◆

何よりもまず、神があなたの“自賛心”を殺してしまうまでは、あなたは神を喜び誇ることはできない。

 

You will never glory in God till first of all God has killed your glorying in yourself.

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2016年

12月

30日

◆詰め込まれた知識よりも…◆

1オンスの“心の理解力”は、1トンの“頭の知識”に値する。

 

【解説】 スポルジョンは数学者でもあったか! と言いたくなるような“比較の真理”ですね。数字に弱い方のためにざっと計算しますと、前者の1オンスは約0.028キログラム、後者の1トンは1,000キログラムですから、前者は、後者の約35,700倍の力を持つということです! とは言っても、ここはもちろん数学の問題ではありません。前者の価値は、後者とは異次元と言っていいほど、けた外れに貴重だということですね。
私はクイズが大好きで、「Qさま!」「くりいむクイズ」、「初耳学」「高校生クイズ」…など、およそクイズと名の付くものは欠かしたことがなく、知識量としては相当いい線ではないかとひそかに思っているのですが(と、堂々とひけらかしております)、頭の知識はともすれば、他者と比較して自分を誇ります。けれどもそれは、他者を生かすことはできません。その人の悲しみも、痛みも癒やすことはできないのです。それができるのは“心”の理解力、感受性です。自分自身の心を開いて、目の前の人の心と同化させ(心理学では感情移入(エンパシーempathy)と言いますね)、まるで自分のことのように、その人の心の重荷を受け止めてあげる受容力です。人々の驚嘆と喝采を誘う己の博覧強記を誇るよりも、ほんのわずかでもいい、人を理解する愛の心をこそ、神様に求めなければいけないのではないでしょうか。知識はしょせん、その人の地上の命と共に終わります。しかし心の理解力は、“愛の思い出”となって、人々の心の中に、そして何よりも、天において永遠に残るのですから――。

 

(ローマ 12:15,16) 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」
(Ⅰコリント8:1) 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」
(Ⅰコリント13:2) 「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」

 

An ounce of heart knowledge is worth a ton of head learning.

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2016年

12月

29日

◆感覚か? 信仰か?◆

”感覚”志向のやり方は、全てのものを“今”得ようとする。
”信仰”志向のやり方は、全てのものを“神の時”に得ようとする。

 

【解説】 さすが“直言の雄”(私の命名デス)スポルジョン、まさに“言い得て妙”ですね。加えてこの一文は、全く同じ文体に、韻まで踏ませて、相反する二つの道を対照させるという文学的技巧も凝らしています。(韻は、senseセンス(感覚)とfaithフェイス(信仰)の部分です。)

 

The way of sense is to get everything now; the way of faith is to get everything in God's time.

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2016年

12月

28日

◆何を置いても”静思の時”を◆

静思の時を持たずにすばらしい音楽を楽しむのは、きらびやかな衣服で死体を覆うようなものだ。

 

【解説】 おお厳しや、これ、“スポルジョンの箴言”ですね。日本流に言い換えれば、「静思の時を持たない極上の音楽と掛けて、死体を覆うきらびやかな衣服と解く。その“心”は?」というところですが、両者から導き出されるのは、“外見だけを取り繕うことの愚かさ、無益さ“でしょうか。それにも増して恐ろしいのは、“死体”です。神様との霊の交わりのない一日は、そしてそれによってつくられていく人生は、まことの命を持たない死人の体同然だというのですから。他人事ではないのです。私など、あまりにやることが多いと、聖書を開く前に、「まずはメール処理から」とばかり、ついPCを開け、取り込んだお気に入りの音楽をかけながら、メールに目を通してしまうのですから! アメリカのクリスチャンのモットーに、No Bible, No Breakfast “聖書を開かずして朝食ナシ“というのがあります。私はさしずめ、No Bible, No Mailですね。

 

Fine music without devotion is but a splendid garment upon a corpse.

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2016年

12月

27日

◆見えない神をさやかに見る方法◆

あなたは福音書を読むだけ、そして“求める眼(まなこ)”をもって、そこを見るだけでいい。
あなたは、キリストの中に、およそ神のうちに見られる全てのものを見いだすであろう。


(ヨハネ 1:18) 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

(ヨハネ 14:9) 「わたしを見た者は、父を見たのです。」

 

You have only to read the Gospels, and to look with willing eyes, and you shall behold in Christ all that can possibly be seen of God.

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2016年

12月

26日

◆クリスマス:新たなる謙卑への旅の始まり◆

キリストにとって、人になることは、大いなる貧しさであった。あなたが人として生きることは、この神性と比べるなら、取るに足らないことだ。

 

私たちは、深い悲しみに満ちた悔悟のうちに、キリストの十字架と共にあるが、ベツレヘムのこのお方の誕生からは、喜び以外の何ものも引き出すことはできないのだ。

 

私たちの本性の中におられる神は、私たちに立ち向かう神ではなく、私たちと共におられる神である。


【解説】 今年のクリスマスも、暦の上では終わりました。でも私たちには、それは新たなる“謙卑への旅”への始まりです。キリスト者の旅は、下に下れば下るほど、今は天の高みにおられる主のもとに近づくのです(ピリピ2:6-11)。
2000年前のクリスマスに、神様は、私たち人間への愛のゆえに、その天の栄光あるご自身の神性を喜んで捨てられたのです。その想像を絶する貧しさに比べるなら、私たちが人として負わねばならない様々な貧しさや苦しみなど、いかほどのものでしょうか。

 

この日、言葉なる神は、私たちの内に宿られました(ヨハネ1:14)。天の高みにおられた神は、私たちのどんな状況にもかかわらず、あなたと共に、あなたの本性と一つになって、今を生きていってくださるのです。毎年のクリスマスは、その“確認”の時です。さぁ、私たちも、このお方、“インマヌエル”の主(マタイ1:23)と共に、“謙卑への旅”に再び出発しましょう。私たちの心のベツレヘムの家畜小屋から、“大いなる喜び”(ルカ2:10-12)に満たされて――。

 

It was great poverty to Christ to be a man. Humanity is a poor thing when you set it in comparison with the Deity.

We associate with His crucifixion much of sorrowful regret, but we derive from His birth at Bethlehem nothing but delight.

God in our nature is not God against us, but God with us.

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2016年

12月

19日

◆天のパンに飢えていますか?◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆
Charles Spurgeon - The Prince of Preachers
―天のパンに飢えていますか?―

もし人が天のパンを飢え求めるなら、地上の派手やかな装飾への好みは、その人の“心を支配する力”としては、第二の地位に引き下げられるであろう。

(アモス 8:11) 「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」

 

If a man hungers after the bread of heaven, his taste for finery will be reduced to a secondary position as a governing power of his mind.

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2016年

12月

18日

◆私の変わらぬ選択肢◆

この世の人として、歓楽の日々を送るよりは、クリスチャンとして悲しみの日々を過ごすほうがいい。
この世の楽しみを持つよりは、クリスチャンの悲しみの内にあるほうがいい。
ああ、アハブ王と共に宮殿で支配するよりは、パウロと共に土牢で鎖につながれていたほうがいい。
富の中でサタンの子として生きるよりは、貧しさの中で神の子として生きるほうがいいのだ。

 

(ヘブル11:24-26) 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

 

Better to have a Christians days of sorrow, than a worldlings days of mirth. Better to have a Christians sorrows than a worldlings joys. Ah! happier to be chained in a dungeon with a Paul than reign in the palace with an Ahab. Better to be a child of God in poverty than a child of Satan in riches.

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2016年

12月

17日

◆エペソ1:3~5のスポルジョン流講釈◆

“時”の始まるずっと前、
“天地”が創られる遥か昔に、
神は、自らの心に、
ご自身の“選びの民”の名前を書き記された。

 

(エペソ1:3-5) 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

 

【解説】 キリスト教は、ある意味、神秘的な宗教です。“奥義”に満ちています。その中でも、私が最大の奥義と信じるのは、次の二つです。一つは、“神が人になられた”ということ。今年も迎えようとしているクリスマスですね。もう一つは、天地の創られる前から、“この私が神様によって選ばれていた”ということです。いかなる人間の理性によっても、科学の力によっても、この奥義を解明することはできません。ただ畏れと感謝のうちに、信仰によって受け入れるしかないのです。私という存在は、歴史のある時に地上に生を受け、”健やかであっても80年”の、ほんの砂粒のような一点を生きて、歴史のかなたに消え去る存在にしかすぎませんが、天においては、ご自身のみ子が栄光の座を捨てて地に降(くだ)り、この私の罪のために命を捨ててくださるほどに神に愛され、選ばれた“いのちの書”に、この名は永遠に刻み込まれているのです。なんとかたじけないご恩寵でしょうか! かの詩篇の記者と共に、私はただこう叫ばざるを得ません。あなたは、いかがですか?


(詩篇 8:4) 「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 

Long before time began, or space was created, God had written upon His heart the names of His elect people.

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2016年

12月

15日

◆雲や暗闇を恐れないで◆

 

私たちのの信仰を鍛えるには、“雲”や“暗闇”も必要なのだ。それによって自己依存を切り捨て、キリストへの信仰により重きを置き、目に見えるものや、経験や、身体と感情などに、より頼らないようにするためである。

 

We need clouds and darkness to exercise our faith, to cut off self dependence, and make us put more faith in Christ, and less in evidence, less in experience, less in frames and feelings.

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2016年

12月

13日

◆艱難、汝を玉にす◆

ダイヤモンドをほんの少し磨いてみなさい。それはキラキラ輝きだすだろう。クリスチャンに、トラブルをほんの一つ与えてみなさい。それに対するその人の忍耐は、彼がまことの“イスラエルの種”であることを証明するであろう。

 

(イザヤ 45:25) 「イスラエルの子孫(英語seed 種)はみな、主によって義とされ、誇る。」
(ヘブル 10:36) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

【解説】 上記のみ言葉で分かるように、「種」とは「子孫」、そして「イスラエルの種」とは、クリスチャンである私たちにとっては、霊のイスラエルの子孫、信仰によって生まれた神の子であるということです。私たちの人生は、トラブルの連続であるとも言うことができますが、その一つ一つを乗り越えるごとに、私たちは、自分の霊的出自と、自分のゆくべきところを世の人々に証ししているのです。しかり、幾多の試練と苦難ののちに、私たちを待っているのは、まことの“イスラエルの種”にのみ与えられる、主のお約束の”義の冠”なのです!

 

Grind the diamond a little and you shall see it glisten. Do but put a trouble on the Christian, and his endurance of it will prove him to be of the true seed of Israel.

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2016年

12月

12日

◆だから、私は、私◆

いつまでも続く幸せを楽しんだクリスチャンはいない。
いつでも喜びの歌を賛美できる信仰者もいない。
全てのヒバリが、楽しい歌をさえずることができるわけではない。
全ての星が、どんなときにも見えるわけではない。
そして、全てのクリスチャンが、いつでも幸せなわけではないのだ。

 

【解説】 これを読むと、「確かにそうだ」と思いますが、そのあとで、「だから何?」とも思います。(あなたはそう思いませんでしたか?) 私たちは、時として“周りが全て幸せで、私だけが不幸だ“と考えて落ち込むことがあります。自分にないものを数え上げて、そんな自分が嫌になったり、思わず「神様どうして?」とつぶやきたくなることもあります。私もそうです。よく“いいお子さんやお孫さんにも恵まれて、すばらしい人生を送っておられる人が周りにたくさんいるのに、どうしてうちには子どもができなかったんだろう。このまま老いたら、誰に面倒を見てもらえるんだろう。”と考えることがありました。でも、何も問題のない、完璧な人生を送れる人は、一人もいないのです。照る日もあれば曇る日も、雨の日もある。山もあれば谷もある。――それが人生です。けれども、全能にして、愛する我が子に最善以下のことは決してなさらない神様は、この人生の終わりには、必ず一人一人の“帳尻”を合わせてくださる。負った負債に決して劣ることのない豊かな資産を残してくださる。だから、周りと比較して、一喜一憂する必要はないのです。“私は、私”。――そう信じて、私は今日も生きています。

 

There is not a Christian who has enjoyed perpetual happiness, there is no believer who can always sing a song of joy. It is not every lark that can always carol. It is not every star that can always be seen. And not every Christian is always happy.

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2016年

12月

10日

◆おすそ分けでも力あり!◆

神は神である。力はこのお方のものだ。もし彼が、その一部をご自身の被造物に委ねられるとするなら、それは依然として神の力なのである。

 

(ルカ 12:32) 「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」

 

God is God: and power belongeth to him. If he delegates a portion of it to his creatures, yet still it is his power.

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2016年

12月

09日

◆親が”知恵の素”なのです◆

小さな子どもたちは、時として自分は賢いと思い込む。だが彼らは何も知らないのだ。知恵は、子どもたちの内にではなく、親の内にあるのである。

 

(申命記 6:6,7) 「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」
(箴言 31:26) 「彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。」

 

Little children sometimes think they are wise, but they know nothing; wisdom is with their father, not with them.

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2016年

12月

08日

◆恵みは常に上を行く◆

人は大いなる罪びとである。
だがキリストは、さらに大いなる救い主なのだ。

 

(ローマ 5:20) 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 

You are a great sinner, but He is a greater Saviour.

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2016年

11月

28日

◆人が感謝に満たされるとき◆

呼吸する一息一息は、私たちを“感謝”で奮い立たせるべきなのだ。そして血管を流れる血潮は、身体の隅々まで、“感謝”を循環させるべきなのだ。

 

Each breath of air should inspire us with thanks, and the blood in our veins should circulate gratitude throughout our system.

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2016年

11月

26日

◆♪主を褒めよ!◆

クリスチャンの最高の音楽は、その人の、神への感謝の中に渾然(こんぜん)と存在するのだ。

 

"The best music of the Christian consists in his thankfulness to God."

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2016年

11月

25日

◆当たり前すぎて、ポカっと忘れること◆

我らの主のうちに、我らの助けはあるのだ。
このお方を呼び求めて叫ぶことに、ぐずぐずしないようにしようではないか。

 

In our Lord our help is found; let us not be slow to cry to Him.

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2016年

11月

24日

◆清廉さと強さはコインの両面です◆

信仰の友よ、己の“清廉さ”から離れ去る瞬間に、あなたは己の“強さ”をも失うのだ。

 

【解説】 「清廉さ」と訳した原語integrityインテグリティーは、私の最も好きな言葉の一つです。この訳語のほかに、「正直、高潔、誠実、健全、完全」とも訳せ、「権力、財力、権謀術策、立身出世、虚偽、腐敗…」等の概念とは対極にある言葉です。したがって、この「強さ」とは、後者に挙げた様々な悪の道にいざなおうとするこの世の誘惑を恐れず、それに断固として屈せず、巻き込まれず、ただ神のみ前にのみ、自らを弁明できる精神的な強靭さ、霊的な高邁さ、魂の清澄さを表します。この、この世に神だけを畏れて生きる真の“強さ”を自分の内に持ちたければ、キリストの内にのみ見られたこの“清廉さを”ひたすら求めることです。

 

You lose your strength, Christian, the moment you depart from your integrity.

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2016年

11月

23日

◆”褒め言葉”がパンになりますか?◆

他人の賞賛に寄りかかって生きることは、かすみを食べて生きるのに等しいのではないか? なんとなれば、賞賛とは、人の鼻孔から霧散する息に過ぎないのだから――。

 

To live upon the praises of others is to feed on the air; for what is praise but the breath of men’s nostrils?

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2016年

11月

22日

◆良き隣人の在り方◆

私には、我が隣人の“欠け”が見えるのだが、私はできる限り、それらには目をつぶることにしているのだ。

 

【解説】 ”良き隣人”と言うと、私たちはすぐあのルカの福音書10章の「良きサマリヤ人」を思い出します。敵対していたユダヤ人を、治療費の負担まで覚悟して介抱した、いわばポジティブ(積極的)な隣人性です。そこへ行くと、このスポルジョンは、いやおうなしに目につく周りの人の不完全性、欠点、欠陥を見ないようにするということですから、ネガティブ(消極的)な隣人性と言えますが、実生活の面では、こちらも、前者に劣らず、いえ、ある意味それ以上に必要なことなのです。なぜなら、あなたの周りの人(最も身近な配偶者、家族に始まって、隣近所の人々、職場の同僚、上司、友達…)とのいざこざや人間関係のトラブルは、相手の欠点が目について、だんだんそれが脳裏に焼き付き、しまいに寝ても覚めても思い出されるところから生じるからです。

えいやっと、一切、目をつぶることです! 金八先生のように、「彼も(欠け多き)人なり、我も(欠けだらけの)人なり」と。

“受容”――ありのままに受け入れること、ここにこそ私たちの心の平安があります。何よりも、それはイエス様がこの私にしてくださったことであり、そのゆえに、私は生かされているのですから――。

 

I can see the imperfections of my neighbour, but I will shut my eyes to them as far as I can.

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2016年

11月

20日

◆聖化に”結果オーライ”なし◆

その道程において聖くない者が、三重にも聖い神が栄光のうちにご自身を現される聖なる目的地にたどり着くことなど、できはしない。

 

【解説】 「三重にも聖い神」、面白い表現ですね。つまりスポルジョンは、“言葉に表せないほどの大いなる聖さ”を言っているのですが、そこには、三位一体の神のご性格が暗に表されています。聖い父なる神、聖い子なる神、聖いみ霊なる神の、三重の聖さの中にいましたもう神ということですね。
さて、私たちの社会では、「結果オーライ」「終わり良ければ全て良し」と言って、途中がどうでも、求められた成果さえ出せれば万事上々という、業績至上主義がともすればまかり通りますが、信仰者が歩む聖化の過程では、それは全く通用しません。なぜなら、日々の歩みを聖く保ち、神さまに喜ばれる生き方をしない限り、“キリストのかたち”は決して成らないからです。その意味では、私たちには、「千里の道も一歩より」「ローマは一日にして成らず」という格言のほうが、むしろ当を得ていると言えるでしょう。

もう一つ、この世の業績至上主義と聖化の道の違うところは、後者では、具体的・数字的な目標設定はできないということです。あなたの一日一日の、生けるイエスのみ霊と共なる歩み、そして、その時その時の、罪との戦い――悔い改めと、献身による勝利の積み重ねが全てなのです。そのように歩んだあなたの信仰生活の”実”として、気がついたらいつしか“聖い者”と変えられていた、というのが、神様の望まれる真の“聖化への道”だと私は信じています。

 

(Ⅰテサロニケ 4:3) 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」

 

He that is not holy on the way will not come to that holy end where the thrice holy God reveals himself in his glory.

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2016年

11月

18日

◆天で貧しくならぬように◆

私たちは、しょせん取るに足らないこの人生に、あまりに身を入れすぎるのだ。かかる“この世志向”は、極めて高くつくことになろう。

 

(マタイ6:20) 「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」

 

We make too much of this poor life, and this fondness costs us dear.

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2016年

11月

17日

◆救霊こそ若さの秘けつ◆

”魂のすなどり”は、心を生き生きとさせ、心の温かい若さを保たせてくれる。“救霊”は、衰えゆく愛の、強力な“回復剤”なのだ。

 

Saul-winning keeps the heart lively, and preserves our warm youth to us; it is a mighty refresher to decaying love.

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2016年

11月

16日

◆滅入った時は思い出して◆

私たちのあらゆる失敗にもかかわらず、ご自身のみ子に頼り続ける限り、神はなおもあなたを愛される。それゆえ、決して落ち込まずにいようではないか。

 

With all our faults God loves us still if we are trusting in his Son, therefore let us not be downhearted.

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2016年

11月

15日

◆イエスに向け。イエスだけに!◆

あなたの希望に心を向けてはいけない。キリストに向けるのだ。あなたの希望の源であるお方に――。

 

"Do not look to your hope, but to Christ, the source of your hope."

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2016年

11月

11日

◆ああ、かの日には…◆

ああ! 安息日の鐘が、アフリカの平原に、その音色をまき散らす日が、そしてインドのうっそうとしたジャングルが、神の聖徒たちが聖所に登っていくのを見る日が来ることを私は信じる。そして中国のあふれんばかりの群衆が、祈りのために建てられた聖堂の中に共に集い、あなたや私がそうしたように、永遠の栄光に満ちた神を賛美することを、私は確信しているのだ。

 

Oh! I believe there is a day coming when Sabbath bells shall sprinkle music over the plains of Africa - when the deep thick jungle of India shall see the saints of God going up to the sanctuary, and I am assured that the teeming multitudes of China shall gather together in temples built for prayer, and, as you and I have done, shall sing, to the ever glorious Jehovah.

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2016年

11月

09日

◆”わざも恵みも”は欲張りです◆

人は、ある程度は己のわざに業に頼り、ある程度は恵みに頼ろうとするかもしれない。だがそれは、いわば片方の足を陸地に置き、もう片方を海に置くようなもので、その人は間違いなく海中に沈むことになろう。

 

【解説】 私たちが頼るべきは、100パーセント神の恵みとあわれみです。わざに頼る人は、いっときは成功の味に酔うかもしれませんが、やがて必ず奈落に沈むことになります。神様に栄光を帰さなかったからです。わざは、神の恵みとあわれみの中から、ひとえに感謝の応答として生まれてくるのです。

 

(エペソ2:8,9) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(詩篇 115:1) 「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」

 

A man may trust partly in works and partly in grace, but he has as it were, one foot on land and one on sea, and he will go down certainly.

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2016年

11月

08日

◆神の言葉の”声”を聴いてますか?◆

聖書は、まさしく“神の声色(こわいろ)”で、あなたに話しかけるのだ。

 

The Bible speaks to you in the very tone of God’s voice.

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2016年

11月

07日

◆虚偽へのベスト対処法◆

“虚偽”を追い払う唯一の方法は、“真理”を受け入れることである。

 

The only way to expel the lie is to accept the truth.

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2016年

11月

05日

◆聖性のシンプルテスト◆

聖さを愛する人は、世的な繁栄・成功のたぐいをうらやむいささかの理由も持ち合わせてはいない。

 

No one who loves holiness has the slightest cause to envy the prosperity of the worldling.

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2020年

5月

06日

◆信仰の先達の声に聴く◆

1.《罪: 欲望か、真理か》

“罪”とは、私たちの人生が、

”真理”によってではなく、“欲望”によって支配されているということである。

~D.M. ロイドジョーンズ~

Sin means that our lives are governed by desires and not by truth. D.M. Lloyd-Jones

2.《罪: 見過ごされる罪の災い》

なすままに許される罪ほど、

心の目をかくも暗くさせ、

良心をかくも鈍らせるものはない。

~J.C. ライル~

Nothing darkens the eyes of the mind so much, and deadens the conscience so surely, as an allowed sin. – J.C. Ryle

3.《選び: すでに主に見いだされてあり》~スポルジョン①

キリストを探し求める人々は、

既にこのお方に探し求められているのだ。

【解説】これは、古くはカルヴァン、そしてスポルジョンもまた強調した“神の選び”の教理です。救いは、私たちの“信仰”によりますが、それを神様から見れば、ご自身の主権的な恵みの“選び”に基づきます。キリストは天地の創られる前から私たちを探し求めて救いにお選びになり、その私たちの心に主を求める思いをお与えになるのです。値なき者に対する神の選びと召しは、けだし神秘の奥義です。

(エペソ 1:4,5) 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

They who seek Christ are already being sought by Him. – Charles Spurgeon

4.《救い: 神のあわれみは一切えこひいきなし》

もし神が、それに値する者たちにだけ、あわれみを示されるなら、

あわれみを示す人は、一人もいないであろう。

~トマス・ワトソン~

If God should show mercy to such only as are worthy, He would show none at all – Thomas Watson

5.《証し: 福音の証人として生きる》

あなたは、罪びとたちに、

「あなたは神様から和解していただけるのです」と語るために、

この世に生かされているのです。

~ジョン・マッカーサー~

You live in this world to tell sinners, “You can be reconciled to God. “ – John MacArthur

6.《信仰: 神は“常設”の避けどころ》

私たちに、みもとに行ける神がおられることは、

試みに悩む日の大いなる慰めである。

~マシュー・ヘンリー~

It is a great comfort in a day of trouble that we have a God to go to. -Matthew Henry

7.《祈り: “主よ”と呼びまつれ》~スポルジョン②

祈りを聴かれる方に心を強められて、かく祈れ。

「主よ、我が心を清めたまえ。

主よ、我が心を新たにしたまえ。

主よ、我が心に悔い改めを起こさせたまえ。」と――。

Take your heart in prayer to Him who understands it and say, “Lord, cleanse it, Lord, renew it, Lord, work repentance in it.” -Charles Spurgeon

8.《聖化: み顔の輝き》

キリストの内に、

我らのごとき貧しく、ふさわしからざる罪びとの前に、

恵みと優しさに満ちて、

神のみ顔は輝きいでたり。

~ジョン・カルヴァン~

In Christ, God’s face shines out, full of grace and gentleness to us poor, unworthy sinners. – John Calvin

【解説】ここにご紹介した7人は、16~20世紀に生きた偉大な信仰の先達です。彼らの言葉の中に、私たちがしっかりと受け取り、継承してゆくべきキリスト教信仰のコア(真髄)が込められています。けれど私は、情報量が加速度的に増え、生活と価値観が多様化している現代の中で、これらの真髄がかなり甘くなっているのではないかと危惧します。とりわけ、“罪”に対する許容度が、時代と共に大きくなっているのではないでしょうか? 神のみ言葉に照らし合わせて、悪いものは悪いと断ずる厳しさと、多様な生き方の中でキリストの聖さを求める清廉さを失ってはならないと、自らに言い聞かせています。

 

【FBギャラリー】No.138 マイケル・デュダッシュ「祈りの平安」

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2020年

5月

04日

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

我が愛する友よ、私はいまだに貧しい罪びとで、救われた最初の日にそうしたように、今も毎日、キリストに頼らなければならない。私と思いを同じくされよ! 私と一緒に来られよ! ある雪の朝、私があの方を見上げ、心を光で照らされてから、多くの歳月がたった。この雪の夜、ここにおられる幾人かの魂もまた、彼を待ち望み、生きられんことを!

【解説】 彼がここで触れている、自身の回心の話は有名ですね。1850年12月15日の日曜日、16歳でまだ信仰を持っていなかった彼は、突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでプリミティブ・メソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験しました。その時、彼の心を刺し貫いた聖書の言葉は「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザヤ書45章22節)でした。以来、1892年、58歳で召されるまでの40年余り、彼は19世紀イギリスの産んだ大伝道者として多くの魂を主に導くのですが、彼は死ぬまで、この16歳の吹雪の朝のキリストへの献身の思いから離れることはありませんでした。様々な試練の中にあっても、彼はいつもこの“原点”に立ち返って、キリストから新たな力を与えられたのです。私たちが、何よりも彼から学ぶべきものは、この徹底した“キリストへの信従”です。

なお、この優しそうな(!)顔写真は、私の知る限り、初めてのものです。

(ヘブル 4:12) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

(黙示録2:10) 「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

My dear Friend, I am still a poor sinner and I have to look to Christ every day as I did at the very first. Come along with me! Come along with me! It is many, many years since, on a snowy morning, I looked to Him and was lightened. I wish that, this snowy night, some soul here would look to Him and live!

【祈り】

み父よ、キリストを通して私に救いをお与えくださり感謝します。キリストをいつも私の人生の中心に据えることができるように助けてください。私は、キリストを通して自由に、満ち足りて生きる道を選びます。この世の出来事を超えて、このお方に信頼することを選びます。キリストの内にのみ、私は満ちあふれる人生を見いだします。み父よ、ありがとうございます。イエス様の力あるみ名によって祈ります。アーメン。

Father, thank you for gifting us with salvation through Christ. Help me to keep Jesus in the center of my life. I choose to live freely and fully through Christ. I choose to trust in Him over the things of the world. In Christ alone, I find abundant life. Thank you Father. In Jesus’ Mighty Name, AMEN!

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2019年

11月

21日

◆神の人たるの資格◆

1.《無条件に神に愛される人》

キリストは、あなたの良き行いのゆえに、あなたを愛したのではない。良き行いは、神があなたを愛するきっかけとなった理由ではない。

それゆえ、現在でも彼は、あなたの良き行いのゆえに、あなたを愛するのではない。良き行いは、神があなたを愛し続ける理由ではない。

キリストは、あなたを愛する意志のゆえに、あなたを愛するのだ。

【解説】 あなたのために命を捨てた十字架のキリストに現された神の愛は、天地の創られる前にあなたを救いに選ばれた時も(エペソ1:4)、現在も、そしてあなたをご自身と同じ栄光の姿に変えてくださる未来も、あなたの良き業によるのではありません。「私はあなたを愛すると決めた。故にあなたを極みまで愛するのだ」という神様の絶対的ご意志と主権によるのです。このような愛は、地上には存在しません。これは神様の“絶対愛”です。この愛を知ったら、私たちは、自らの汚れと、そのあわれみのかたじけなさに、ただ恐れおののきます。そして、あの詩篇の記者のように、「あなたはなぜこのような者を顧みられるのですか?」と叫ばざるを得ません(詩篇8:4)。そして、この愛にほんの少しでも報いるために、ひたすら良き業に励むのです。それが、神があなたを愛する理由ではなく、神へのあなたの感謝の応答であることを、神にも人にも示すために――。

(エレミヤ31:3) 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

Christ did not love you for your good works,--they were not the cause of His beginning to love you;--so He does not love you for your good works even now; they are not the cause of His continuing to love you. He loves you because He will love you.

 

2.《神によって教会に遣わされた人》

熱心で、疲れをいとわず、神(聖霊)の油注ぎを受け、“魂の漁(すなど)り人”となるべく主の教えを受けた人。

このような人が、教会に遣わされることに勝る大いなる祝福を、私はついぞ知らない。

【解説】 日本の教会の働き人が減っています。高齢化して第一線を退かれる人が増えているのに、新しい献身者が少ないのです。スポルジョンが“最大の神の祝福”と呼ぶ神の人が一人でも多く与えられるよう、私たちは膝をかがめて祈らなければなりません。それと共に、私たちは、あのイエスに香油を注いだマリアにならなければなりません。キリストの体なる教会に遣わされた者の一人として、私たちにも、「自分にできること」があるのです(マルコ14:8)。キリスト者は、例外なく、主に仕える小さな“神の人”なのですから――。

(マタイ 9:37,38) 「そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

I scarcely know of any greater blessing to the church than the sending forth of earnest, indefatigable, anointed men of God, taught of the Lord to be winners of souls.

 

3.《み霊の導きに従順な人》

もし私たちがキリストに従順でないなら、ご安心あれ、私たちはキリストのみ霊を持っていないのだ。そして私たちは、キリストのものではなくなる。

(ローマ8:9) 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

(エゼキエル 36:27) 「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

(ルカ 9:23) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

【解説】 「ご安心あれ」と言われて、「?」と思うのはいいですが、素直に安心しないでください! これは「間違いなくそうなる」という、スポルジョン流の痛烈な皮肉なのです。イエス・キリストを主、救い主として告白した者は、即、“神の人”です。キリストのみ霊が、その瞬間から、あなたの心の奥深くに内住されます。そして、み霊のコントロールのもと、私たちはキリストに服従する者になります。そこには、主に従わず、安楽な道を行かせようと誘惑するこの世との闘いも生まれます。それでも、本当にキリストのみ霊を持っている人は、キリストに従うのです。前者があって後者がない人は、うわべだけの信仰者であり、“キリストのもの”ではありません。罪と弱さのゆえに、キリストに従いきれなかったときは、内住のみ霊が、必ず認罪と悔い改めに導かれます。これが真に“キリストのもの”とされた動かしがたい証拠です。それがほんとの“ご安心あれ”ですね。

If we are not obedient unto Christ we may rest assured that we have not the Spirit of Christ - and are none of His [Romans 8:9]."

Charles Spurgeon (Joshua's Obedience)

"I will put My Spirit within you and cause you to walk in My statutes, and you will be careful

to observe My ordinances." - Ezekiel 36:27 ".FOLLOW ME” - Christ (Luke 9:23] - 

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2019年

10月

30日

◆スポルジョンの語る子育てと死への備え◆

1.《子は父のどこを見て育つか?》

子どもたちは、父の“悪”をまねる。

父の“悔い改め”をまねることは、ほとんどない。

【解説】 これが現実です。“悪”と訳したviceヴァイスには、「悪徳、悪癖、悪習、性格の欠点、弱点、堕落行為」など、父親の持ちうる“悪”が網羅されています! 子はそれをまねるのです。考えてみたら、家庭教育で、これほど恐ろしいことはありません。だからこそ、父親は、子どもの前で、妻に、子どもに、心から謝るべきなのです。それは父親が己のプライドに打ち勝って示す最大の“勇気”であり、その勇気は、子どもの心を打たずにはおきません。その最大の報酬は、子どもからの“尊敬”です。

Children will imitate their fathers in their vices, seldom in their repentance.

 

2.《叱る時に叱って“頭痛の種”を摘み取れ》

もし私たちが、小さな子どもたちを叱ることで頭を痛めないなら、

彼らが成長した時に、絶えない頭痛に悩まされるだろう。

【解説】 はい、子どもは、叱るべき時に、しっかり叱るのです。それは頭も心も痛むことです。でも、子どもを甘やかし、過保護にし、人として絶対にしてはならないこと、言ってはならないことを教えず、「誰も見ていなくても、神様は見ているのよ」と、見えざるお方を畏れることを教えないなら、子どもが成長してから、その何十倍もの苦労をすることになります。子どもが大きくなった分、ゆがめられたままの性質もゆがみを増し、親は毎日泣きながら、頭を抱えることになるのです。少子化の現代、その可能性は、ますます増しています。大人社会のあまたの悲劇は、子育ての”頭痛”を恐れて手を抜いたことに原因があることを、親だけでなく、私たち全ての大人が心に刻まなければなりません。

If we never have headaches through rebuking our little children, we shall have plenty of heartaches when they grow up.

 

3.《スポルジョン流”メメント・モリ”(死を覚えよ)》

“死”に備えない人間は、並のバカではない。

その人は正気を失っているのだ。

【解説】 2行目のmadman、“穏やかに”訳しましたが、直訳すると、「気違いだ」となります! 神のメッセンジャー、スポルジョン、人の頭でなく心の愚かさには、ハンパなく手厳しいのです。また私事になりますが、この2月に妻が突然、一夜にして召天した時は、本当に衝撃でした。妻の体を抱きしめて、「主よ! なぜですか?!」と絶叫したのが、昨日のようです。その時から、”死”は、私の最も身近なものになりました。クリスチャンも死ぬ。しかも、何の前触れもなく、想像もしなかったときにも、”神の時”が来れば、死ぬのです。この私も、それまでは、「あと10年は大丈夫。いや、主許したまわばあと15年は…」と思っていたのが、今、この瞬間にも召されるかもしれないという現実を、愛する者の亡骸は、冷然と教えてくれました。

年を経た者だけでなく、まだまだこれからの人たちも、毎日、“死”と隣り合わせて生きています。ただ気がつかないだけ、考えようとしないだけです。でも、死の瞬間には、もう私たちは生きてはいない。この当然の事実を、私も、あなたも、もっと真剣に考えなければいけません。しなければならないのに、「今忙しいから、もう少し時間の余裕ができたら」と思っていることはありませんか? 「あの人に、どうしても謝らなければ…。この感謝を伝えておかなければ…」と思っていることはありませんか?――それが、“死に備える”ということです。財産の処分方法を遺言に書き記すだけが、死への備えではありません。これは“生き方”の問題です。「たとえ明日、世界が滅びると知っても、私は今日、リンゴの木を植える」と言ったのはルターだと言われていますが、私たちも、明日は来ないつもりで、今日の一日を後悔なく生きることです。

He who does not prepare for death is more than an ordinary fool. He is a madman.

 

(写真)2枚ともスポルジョン。右は34歳、妻と。

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2019年

9月

16日

◆キリストが全て◆

(ピリピ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

1.《俗の中で聖を生きる》

神を志向して生きる者には、俗なるものは何もない。全てが聖いのである。

【解説】 短い言葉ですが、これが、キリストの血潮によて洗い清められ、ひとたび罪の世から贖い出されて、再び罪の世に証し人として送り出されている私たちの生き方を決める基本的な信条です。「神を志向する」とは、優れて「神の聖さを志向し、その聖さの中に自らを置く」ということです。そしてその聖められた神の視点でこの世を見るとき、全ては聖く見えるのです。”聖さ”の中に、“罪”は入り込むことができません。

(Ⅰペテロ 1:15,16) 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」

(テトス 1:15) 「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」

To a man who lives unto God nothing is secular, everything is sacred.

 

2.《キリストの部屋をつくる》

もしあなたがキリストのための部屋をつくるなら、その日からのち、この世はもはや、あなたのための部屋を持たないことを覚えておきなさい。

【解説】 これは、上記1.の姉妹編です。そしてまた、あのガラテヤ2章のハイライトの言葉を、スポルジョン流に、分かりやすく言い換えたものです。このみ言葉と共に味わってください。

(ガラテヤ 2:19,20) 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

If you have room for Christ, then from this day forth remember, the world has no room for you.

 

3.《心配を“癒やしの案内人”に》

究極の目的は、心配から逃れることではなく、それをしてイエス・キリストの癒やしのご臨在の中に私たちを導く“案内人”にすることである。

【解説】 私たちは、一人の例外もなく、心配、不安、懸念、気遣いの中で生きています。そしてその一つ一つを、主の十字架のもとに携えて、重荷を取り去っていただくのですが、スポルジョンは、このようなユーモアさえ感じさせる表現で、私たちに“思い煩い”に対する新たな取り組み方を提示しています。それは、心配を、主の癒やしに私たちを導く“案内人”にするということです。私たちに心配事のあるところ、そこには必ず主の癒やしがあります。しかも、”イエス・キリストの癒やしのご臨在“という原文には、主が、“心配氏”に案内されてご自身のもとに来たあなたを、2000年前、地上で人々を癒やされた時のように、あなたの前に、生きて手を差し伸べて待っておられるという臨場感があります。心配何するものぞ。恐れたり、避けたりする必要はありません。それに向かって「さあ速やかに主のもとに連れていきなさい」と命令し、その場で主の癒やしを体験してください。それが、あなたに心配事が起こる究極の目的なのですから――。

(ピリピ 4:6,7) 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

The ultimate aim is not to escape anxiety but to allow it to usher us into the healing presence of Jesus Christ.

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2019年

8月

18日

◆信仰生活3つのチェックポイント◆

《罪》

罪は、あなたの涙や行いによって除き去ることはできない。

【解説】 言うまでもありませんが、この“涙”は後悔の涙です。そしてこの“行い”は、善き行いです。いずれも、これによって、犯した罪をなかったこととして帳消しにしようとする試みですが、決して成功することはありません。罪は、”悔い改める”ことによってしか、赦されることはないのです。

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

Sin cannot be removed by thy tears or by thy deeds.

 

《聖書の無謬性》

もし私が、聖書の無謬性-始めから終わりまで全編を通しての絶対的な不可謬性(誤りがないこと)を信じなかったら、私はこの説教壇に立つことは決してなかったであろう!

【解説】 19世紀イギリスのスポルジョンも、20世紀アメリカのビリー・グラハムも、あれほどに神様に用いられ、あれほど多くの人々を回心に導けたのは、神の言葉、聖書に対する100パーセントの信頼があったからでした。人が救われ、生きる力を与えられるのは、語る人の力ではなく、語られるみ言葉の力なのです。

(Ⅱテモテ 3:16) 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

If I did not believe in the infallibility of Scripture – the absolute infallibility of it from cover to cover, I would never enter this pulpit again!

 

《舌を制する》

自分の舌を、頭脳を飛び超えて勝手にしゃべりださせないよう気をつけなさい。

【解説】 “舌”が独立した人格のように言っているところが面白いですが、実際のところ、そんな気がすることがありますよね。「舌が勝手にしゃべりだして、気がついたら言ってはいけないことを言っちゃってた。」…こんな苦い経験は、誰にもありそうですが、でもこれは半分の真理でしかありません。舌が、勝手にしゃべることは現実にはないわけで、頭脳からの指令によってモノを言うのですから、やはりこれば、究極的には脳のコントロール力の問題なのです。舌がむずむずしてきたら、ぐっと唇をかみしめて、“自分が相手の立場だったら?”ととっさに考えましょう。頭脳のコントロール力は、ひっきょう、あなたの内なる聖霊のコントロール力に比例するのです。

(ヤコブ 3:9,10) 「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」

Beware of letting our tongue outrun our brains.

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2019年

6月

19日

◆信仰生活3つの局面-新生、教会、忍耐◆

1.

《神から生まれる》

人は、自分自身をかなり変えることはできるかもしれない。

多くの悪習を追い出し、多くの肉欲にふけることを捨て、

悪しき習慣に打ち勝つこともできよう。

だが、この世で誰一人、自分自身を神から生まれさせることはできない。

人は、自分の力を超えたことを成し遂げることは、決してできないのだ。

【解説】 “神から生まれる”とは、“新しく生まれる=新生”するということです。人は、努力によって、ある程度まで自分の人格を変えることはできます。世の宗教は、その自己完成の道を求めますが、自分の力で新しく生まれ変わることはできません。どんな人格者でも、内に潜む“罪”の問題を根本的に解決しない限り、それは不可能ですが、生来の罪びとである私たちは、他人の罪はおろか自分の罪さえ解決することはできないのです。それがお出来になるのは、私たちの罪の身代わりに、十字架にかかり、三日目によみがえられた神のみ子イエス・キリストだけです。その恵みのゆえに、私たちは新しく神から生まれ変わることができるのです。”福音”が、全ての人に必要なわけは、まさにこの一点にあるのです。

(ヨハネ 3:3)「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

A man may reform himself very much, he may cast away many vice, forsake many lusts in which he indulged, and conquer evil habits; but no man in the world can make himself to be born of

God; he could never accomplish what is beyond his power.

 

2.《聖書に従わぬ教会から去れ》

もしあなたの属する教会に、

霊感されたみ言葉に反することがあるなら、

その教会を去りなさい。

【解説】 “そんな教会があるのか?”と思いますが、現実にはあるのです。まず第一に異端です。私の属する教会に、半年ほど前から一人の男性が出席されて、熱心に求道されています。しばらく、エホバの証人(ものみの塔)の教会に出ておられて、彼らの聖書に加えて正統的な聖書も購入され、両者を比較して、何かが違うと感じて、うちの教会に来られたそうです。次に、聖書の権威に100パーセント従わず、恣意的に解釈して、人間の権威が支配している教会もそうです。ただし、その見極めは、とても難しいことで、各々が“自分は正しい”と思っているうちは、争いや分裂が起こるだけです。聖職者も、信徒も、互いに教会の頭である主イエス・キリストの前にひざまずいて、謙遜に主のみ声に耳を傾けることが必要です。“風は思いのままに吹く”(ヨハネ3:8)。聖霊は、教会の中で、ご自身の書かれた聖書の権威と共に働かれます。イエスのみ霊が、いつも教会の中を吹き抜けているような教会、聖職者も信徒も、その風を感じながら、互いにみ言葉に仕え合っていく教会となるよう、祈らねばなりません。不幸にして、明らかにこれに反する事実がなくならないとき、どうすべきかも自分で決めてはなりません。そのときは聖霊が、み言葉による確信をもって「この教会を去れ」と導かれるはずです。(スポルジョンの真意はそこにあり、安易な教会離れを進めているわけではありません。)

If there is anything in the church to which you belong which is contrary to the inspired Word, leave that church.

 

3.《一に忍耐、二に忍耐》

忍耐! 忍耐!

あなたは、いつも急ぎすぎる。

だが、神はそうではないのだ。

【解説】 全くそのとおりですね。私たちの“聖徒養成学校”で、一番難しいのはこれかもしれません。「もう3か月もたつのに」「これほど祈ってお願いしてるのに」「これはゼッタイ神様のみ心にかなうことなのに」…まだ神様はかなえてくださらない。でも、神様の”時”の長さは、人間が考えるのとは違うのです。神様はいつも、“永遠”の視点から物事を進められます。「神は急がない」。心がはやるたびに、これを唱えませんか? そして、どんなときにも“時にかなって美しい”(伝道者(コヘレテ)の書3:11)神の時を、忍耐をもって待ちましょう。

(ヘブル 10:36) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

Patience! Patience! You are always in a hurry, but God is not.

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2019年

5月

25日

◆私にもできる二つの生き方ガイド◆

《祈りの中で生きる》

私たちは、誰もが議論に長(た)けているわけではない。だが、誰もが祈れるのだ。

私たちは、誰もがリーダーにはなれない。だが誰もがプリーダー(神への嘆願者)にはなれるのだ。

私たちは、誰もが弁舌に巧みとは言えない。だが誰もが“神と語らう生活”を送ることはできるのだ。

【解説】 クリスチャンであれば、誰でもできるもの、1つ目は“祈り”です。祈りには、議論で説き伏せる力も、人をリードする力も、言葉で人を酔わせる力も一切不要です。ただ神と語らう。神に必要と、癒やしのために、ひたすらお願いする。それは自分のためだけでなく、愛する人のためのとりなしもありますね。この2番目には、一見して分かる原語の片仮名読みで記したように、スポルジョンの踏韻の修辞があります。そして3つ目。後半の原文を直訳すると、「祈りを普及させる(優勢にする。支配的にする)」となります。祈りが、私たちの生活の中で、もっと大きな部分を占めるように、というニュアンスを、無い知恵を搾って「神と語らう生活」としてみました。私事で恐縮ですが、妻という最良の語らう相手を失ってしまいましたので、私はいろいろなことを、生活の中で声に出して神様とお話ししています。この訳語は、誰よりも、今の私にとってピッタリなのです。あなたにも、そうでありますように――。

We cannot all argue, but we can all pray; We cannot all be leaders, but we can all be pleaders; We cannot all be mighty in rhetoric, but we can all be prevalent in prayer.

 

《主の権威のもとに生きる》

「かく主は言われる」―これが、神の教会における唯一の権威である。

私たちの誰であれ、”私は主イエス・キリストのもの”と認めるのに、何か恥じるものがあるというのか?

【解説】 この2つの文章は、ソースは別のものですが、あえて一緒にしました。その意図は、「教会の主は、その教会に連なる一人一人のキリスト者の主である」という真理を、もう一度確認したかったからです。

私たちが絶えず吟味しなければならないことの1つは、「教会の中で、イエス・キリストだけが、唯一の権威者となっているか」ということです。時には牧師、時には長老・執事・役員、時には高額献金者などのキリスト以外の人間的権威が教会を支配していることはないか? 私たちは、いつもへりくだって、この「主は言われる」の唯一の権威のもとに、ひざまずかなければなりません。

もう1つは、「私は自分の置かれた生活の場所で、“主のものとされた自分”を周りの人々に明らかにしているか」ということです。いざというときに、あのペテロのように「私はこの人を知りません」と否定はしなくても、クリスチャンであることを恥じて、言葉を濁したり、話題をそらしたりすることはないだろうか?

私たちは自己中心で、また弱い者です。知らず知らず、教会の中で主の権威を犯していた罪を聖霊に示されたら、また生活の中で主を恥じていた自分に気づいたら、その罪を悔い改め、主の赦しを請いましょう。私の、あなたの自己中心も弱さもよくご存じの神様は、赦して、聖めてくださいます。

(ローマ1:16) 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

“Thus saith the Lord” is the only authority in God’s church.

What is there for any of us to be ashamed of in acknowledging that we belong to the Lord Jesus Christ?

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2019年

4月

29日

◆スポルジョンが語る信仰生活6つの要諦(かなめ)◆

1.《宣教―永遠につながる神の業》

宣教は子どもの遊びではない。それは労力と気遣いなしにできることではない。それは神聖かつ厳粛な業である。しかしてそれが永遠にまで関わることに目を留めるならば、大いなる方への畏敬の思いを込めてなされるべきものなのだ。

Preaching is not child’s play, it is not a thing to be done without labor and anxiety it is solemn work, it is awful work if you view it in its relation to eternity.

 

2.《魂の漁り人に》

“魂の漁り人(すなどりびと)”になることは、この世で最も幸せなことである。

【解説】 この幸せを、あなたは今、感じていますか? この前 感じたのはいつのことでしょうか? 長い間、この幸せから遠ざかっているのではありませんか? “魂の漁り人”と訳した原語の soul winnerソールウィナーは、直訳すれば“魂を勝ち取る人”です。滅びに向かっていた自分が、神様のあわれみによって救われ、永遠の命を与えられている――この恵みは、他の人々を救いに導くことによって神様にお返ししなければなりません。「救わんがために救われたり」と言ったのは救世軍の創始者ウィリアム・ブース大将ですが、これはクリスチャンが、片時も忘れてはならないことです。ここで心すべきは、魂を救うのは私たちではなく、神様の主権的なみ業であるということです。私たちにできるのは、愛する魂のために祈り続けること、そして神様の“時”を逃さずにその魂に証しすることです。私の亡き妻は、死の床から十字架のイエス様に救われてから、家族や友のために祈り始めました。そしてその“時”を心に感じた時、本当は身内への伝道は一番難しいと言われるのに、30年間祈り続けていた母に証しをして、救いに導いたのです。あとの家族のことは私に託し、妻は今

天国で、その母と楽しく語り合っていることと思います。この世の幸せは、つかの間に過ぎ去ります。魂の漁りだけが、永遠に失われることのない、まことの幸せなのです。

To be a soul winner is the happiest thing in the world.

 

3.《家庭の中の自分をありのままに見せよ》

家族の中にいるときの自分の性格によく気をつけなさい。

そこでのあなたの立ち居振る舞いが、

本当のあなただからだ。

【解説】 さすがスポルジョン、一方では上記1のような宣教の神学の真髄を説きながら、一方で彼の目は、限りなくリアルに人間そのものの上に注がれているのです。今日の6つの言葉のうち、ひょっとしてあなたは、他のどれよりも、この3に「言えてる!」と思ったのではありませんか? クリスチャンになったからと言って、決して背伸びして、“自分以上の自分”をご家族に見せようとしないでください。相変わらず欠点だらけの、“ありのままの自分”でいいのです。ただ、こんな私が、イエス様に愛されて、救われて、生かされている。―その喜びと感謝を、素直に表すことです。その姿をご家族は見ているのですから。「何がこの人を(この子を)こんなにしたんだろう」と内心驚き、いぶかりながら――。それが、家族の救いへの小さな第一歩です。

Take care of your character in the home. For what we are there, we really are.

 

4.《結婚の祝福》

夫と妻がよく“くびき”を共にするとき、二人の重荷は、いかに軽くなることであろうか!

【解説】 “くびき”とは、“首に架けられる木”が原意で、ご存じのように二頭の馬や牛の首に木の棒を横に渡して固定することによって、二頭を同じ方向に動かす道具ですね。これを付けることによって、二頭の力はまさに二倍以上に用いられます。イエス様も、「私のくびきを負いなさい。私の荷は軽いからです」とおっしゃいました(マタイ11:29,30)。また妻の話で恐縮ですが、彼女は教会のあるカップルの結婚の席の祝辞で、「二人で手を取り合えば、祝福は二倍になり、重荷は半分になります」と言って、そのハンデを負った者同士のカップルの門出を祝いました。スポルジョンの妻スザナも、病弱で、40歳まで生きられなかったのですが、生涯夫を支え、夫のために自分にできることを精いっぱいにしたのです。その妻への感謝を込めて、彼はこの言葉を口にしたに違いありません。(下の写真は、今に残るその二人です。)

When husbands and wives are well yoked, how light their load becomes!

 

5.《柔和さはどこから?》

まことの強さは、

柔和さの“背骨”である。

【解説】 真の強さを内に秘めない柔和さは、“軟弱”につながります。“背骨”と訳したbackboneは、今ではそのまま“バックボーン”とも言いますね。物事の背後にあって支える“中枢”“基幹”を成す力です。その強さは、真理はどんな困難にも負けずに守り通し、虐げられ、苦しめられている人々にはとことん寄り添う勇気の中に秘められています。そこから生まれる柔和さこそが、人間関係の軋轢を解きほぐし、あなたを“平和をつくり出す人”にし、“神の子”と呼んでいただけるのです(マタイ5:9)。

Real strength is the backbone of meekness.

 

6.《隠れた祈りこそ天国と地獄を隔てる》

隠れたひそかなる祈りは、

天を開くカギであると同時に、

地獄の門を閉じるカギでもある。

【解説】 古今、祈りの効用、祈りの大切さは、あらゆる言葉で言い表されてきましたが、これがスポルジョンの言葉です。”天を開くカギ”は、イエス様によってペテロにも与えられましたが(マタイ16:19)、私たちが神のみ前に祈る祈りの力は、それだけではなく、“地獄の門を閉じる”力も持っているというのです! すなわち、祈りがサタンの暗躍を封じ込め、今まさに地獄の滅びに入っていこうとする愛する者を、その門の手前でつなぎ留めるのです。神様がお与えくださった恵みの数々の中で、私たちは今、改めて“祈り”の恵みと力に刮目すべきではありませんか? そしてあまりに貧しい自らの祈りに心刺され、ひざまずいて、「主よ、私に祈ることを教えてください」と懇願すべきではないでしょうか?(ルカ11:1)

As private prayer is the key to open heaven, so it is the key to shut the gates of hell.

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2019年

2月

11日

◆忘れてならない”信仰の基本”4か条◆

1.《人間の罪は、神のみ子でも容赦されない》

神がイエスを“罪びと”としてご覧になったとき、神はみ子を容赦されなかった。

そして神は、キリストを拒み、悔い改めない人々を見たら、彼らを容赦なさらないだろう。

【解説】 この端的なスポルジョンの言葉に、福音の“恵み”と“厳しさ”がよく表れています。神のみ子は、すでに2000年前のあのゴルゴタの十字架で、私たち全ての人間に代わり、“罪びと”として父なる神に裁かれたのです。父なる神様は、たとえご自身の独り子といえども、十字架の上で“罪びと”となったイエスを、人間(私たち!)への愛のゆえに、容赦なく死に渡されたのです。その大いなる恵みを知りながら、なおもこの”福音”を拒む者には、もはや罪からの救いの道は残されていないことに、私たちは粛然として気づかなければなりません。

(Ⅱコリント 5:21) 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

When God saw Jesus in the sinner’s place, He did not spare Him; and when He finds the unregenerate without Christ, He will not spare them.

 

2.《罪の裁きと訓練の懲らしめを混同しない》

“信仰者の処罰”などという話をするおつもりか! そんなものはない。人の世における様々な苦難は、キリスト者の罪に対する処罰などではない。それは、“天の父の懲らしめ”であって、“裁判官の下す刑罰”とは違うのだ。

【解説】 これは、信仰者も避けて通ることはできない様々な人生の苦しみに対して、“それは神からの罰だ”という間違った考えに対する、スポルジョンの聖書に立った論駁です。それは、私たちの内に“キリストのかたちが成るため”(ガラテヤ4:19)の、父なる神様からの信仰の訓練なのです。これが、信仰を持つ前、神を信じないで自分中心に生きる人間に対する神の“永遠の裁き”と、信仰を持ったのち、私たちを神の人になるために訓練として神様がお与えになる“苦難という懲らしめ”の違いです。この違いをよく理解しないと、私たちの信仰生活は、いつも神の裁きを恐れる、喜びのないものとなります。下のみ言葉を、しっかりと心に据え直しましょう。

(ヘブル 12:6,7) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」

Talk of the punishment of a believer! there is not such a thing. The

afflictions of this mortal life are not punishments for sin to Christians, they are fatherly chastisements, and not the punishments of a judge.

 

3.《救いの原点に立ち返る》

かの大いなる“身代わりびと”の上に

我が罪 裁かれ

永遠に取り去らるるを見しとき

我は驚きに目を見張り

我が生けるを知り

自由となりし喜びに跳ね踊りたり。

(イザ 45:22) 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

【解説】 これが、有名なスポルジョンの“我が回心の記”です。1850年12月15日の日曜日、彼は突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでメソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験したのです。これはその時、決め手となった聖書の言葉です。彼を冷たく命のない、暗黒の世界に閉じ込めていたのは、神なしに独り己が道を手探りで進もうとする自我の“罪”でした。その罪を、無条件に引き受けて、十字架で身代わりに死んでくださった神のみ子イエス・キリストを仰ぎ見たとき、彼はあまりの恵みの深さに言葉を失い、今こそ自分が真に生きていることを魂の底から実感し、罪の縄目から解放された喜びに、文字どおり雪道の上を喜び踊ったのです! 彼のその後の目覚ましい宣教の働きの原点は、この回心にありました。私たちもまた、人生の様々な試練に出会い、信仰を試されるときは、自らの“原点”に立ち返らねばなりません。“救いの原点に返る”――これは、あの背信を繰り返した旧約の民が、大いなる”出エジプト”の原点に幾度も立ち返ったように、そしてペテロが、パウロが、新約の教会が、主イエスの“赦しの愛”の原点に立ち返ったように、私たちの信仰の旅路を最後まで全うさせてくださる、神様の恵みのたまものなのです。

I looked, and lived, and leaped in joyful liberty as I beheld my sin punished upon the great Substitute, and put away for ever. “Look unto me, and be ye saved, all the ends of the earth, for I am God, nd there is none else.“-Isaiah 45:22

 

4.《“悔い改め”もまた成長する》

”信仰”が成長するように、”悔い改め“もまた成長する。そのことを、決して誤解してはならない。”悔い改め”とは、せいぜい数日、数週間のものとか、できるだけ早く乗り越えるべき一時的な改悛などのたぐいではないのだ! 違う。それは、“信仰”そのものがそうであるように、生涯にわたる“恵み”なのだ。小さな神の子たちも悔い改める。同じように若い人たちも、親となった人たちも悔い改める。“悔い改め”と“信仰”は、切り離すことのできない“伴侶”なのである。

【解説】 上記3.の、「救いの原点に立ち返る」ことを可能にするもの、いえ、その”絶対条件”と言ってもいいものは、この”悔い改め”です。悔い改めなき原点回帰は、何度繰り返しても無駄なことです。

けれども一方で、“悔い改め”もまた、“信仰”と同じように成長できるのです。悔い改めの深化は、信仰の成長と比例します。なぜなら、信仰の成長に伴って、私たちの霊性は研ぎ澄まされ、“罪”への感覚が深まるからです。それまでは気にも留めなかったもの、”これぐらいは誰でもやってる。赦される”と思っていたものが、”これもまた罪だ”と分かってきます。それは、自分の言葉や行為を受けた相手の人の立場に立って考えられるようになるから―あなたの中の“愛”が深まるからなのです。

そしてまた、人は、子どもも大人も悔い改めることができるし、いつになっても、死の瞬間でさえも悔い改めは可能です。だからこそ、“悔い改め”が許されているということは、その都度心の痛みは伴いますが、神の備えられた大いなる“恵み”なのです。

げに「信仰とは、”生涯の悔い改め”と見つけたり。」 私が、あなたが、どんなに大きな失敗をしても、悔い改める限り、再び神様の愛の懐(ふところ)に飛び込んでいけるのです、あのペテロのように――(ルカ22:32、ヨハネ21:15-17)。

Repentance grows as faith grows. Do not make any mistake about it; repentance is not a thing of days and weeks, a temporary penance to be got over as fast as possible! No; it is the grace of a lifetime, like faith itself. God’s little children repent, and so do the young men and the fathers. Repentance is the inseparable companion of faith.

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2020年

5月

06日

◆信仰の先達の声に聴く◆

1.《罪: 欲望か、真理か》

“罪”とは、私たちの人生が、

”真理”によってではなく、“欲望”によって支配されているということである。

~D.M. ロイドジョーンズ~

Sin means that our lives are governed by desires and not by truth. D.M. Lloyd-Jones

2.《罪: 見過ごされる罪の災い》

なすままに許される罪ほど、

心の目をかくも暗くさせ、

良心をかくも鈍らせるものはない。

~J.C. ライル~

Nothing darkens the eyes of the mind so much, and deadens the conscience so surely, as an allowed sin. – J.C. Ryle

3.《選び: すでに主に見いだされてあり》~スポルジョン①

キリストを探し求める人々は、

既にこのお方に探し求められているのだ。

【解説】これは、古くはカルヴァン、そしてスポルジョンもまた強調した“神の選び”の教理です。救いは、私たちの“信仰”によりますが、それを神様から見れば、ご自身の主権的な恵みの“選び”に基づきます。キリストは天地の創られる前から私たちを探し求めて救いにお選びになり、その私たちの心に主を求める思いをお与えになるのです。値なき者に対する神の選びと召しは、けだし神秘の奥義です。

(エペソ 1:4,5) 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

They who seek Christ are already being sought by Him. – Charles Spurgeon

4.《救い: 神のあわれみは一切えこひいきなし》

もし神が、それに値する者たちにだけ、あわれみを示されるなら、

あわれみを示す人は、一人もいないであろう。

~トマス・ワトソン~

If God should show mercy to such only as are worthy, He would show none at all – Thomas Watson

5.《証し: 福音の証人として生きる》

あなたは、罪びとたちに、

「あなたは神様から和解していただけるのです」と語るために、

この世に生かされているのです。

~ジョン・マッカーサー~

You live in this world to tell sinners, “You can be reconciled to God. “ – John MacArthur

6.《信仰: 神は“常設”の避けどころ》

私たちに、みもとに行ける神がおられることは、

試みに悩む日の大いなる慰めである。

~マシュー・ヘンリー~

It is a great comfort in a day of trouble that we have a God to go to. -Matthew Henry

7.《祈り: “主よ”と呼びまつれ》~スポルジョン②

祈りを聴かれる方に心を強められて、かく祈れ。

「主よ、我が心を清めたまえ。

主よ、我が心を新たにしたまえ。

主よ、我が心に悔い改めを起こさせたまえ。」と――。

Take your heart in prayer to Him who understands it and say, “Lord, cleanse it, Lord, renew it, Lord, work repentance in it.” -Charles Spurgeon

8.《聖化: み顔の輝き》

キリストの内に、

我らのごとき貧しく、ふさわしからざる罪びとの前に、

恵みと優しさに満ちて、

神のみ顔は輝きいでたり。

~ジョン・カルヴァン~

In Christ, God’s face shines out, full of grace and gentleness to us poor, unworthy sinners. – John Calvin

【解説】ここにご紹介した7人は、16~20世紀に生きた偉大な信仰の先達です。彼らの言葉の中に、私たちがしっかりと受け取り、継承してゆくべきキリスト教信仰のコア(真髄)が込められています。けれど私は、情報量が加速度的に増え、生活と価値観が多様化している現代の中で、これらの真髄がかなり甘くなっているのではないかと危惧します。とりわけ、“罪”に対する許容度が、時代と共に大きくなっているのではないでしょうか? 神のみ言葉に照らし合わせて、悪いものは悪いと断ずる厳しさと、多様な生き方の中でキリストの聖さを求める清廉さを失ってはならないと、自らに言い聞かせています。

 

【FBギャラリー】No.138 マイケル・デュダッシュ「祈りの平安」

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2020年

5月

04日

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

我が愛する友よ、私はいまだに貧しい罪びとで、救われた最初の日にそうしたように、今も毎日、キリストに頼らなければならない。私と思いを同じくされよ! 私と一緒に来られよ! ある雪の朝、私があの方を見上げ、心を光で照らされてから、多くの歳月がたった。この雪の夜、ここにおられる幾人かの魂もまた、彼を待ち望み、生きられんことを!

【解説】 彼がここで触れている、自身の回心の話は有名ですね。1850年12月15日の日曜日、16歳でまだ信仰を持っていなかった彼は、突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでプリミティブ・メソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験しました。その時、彼の心を刺し貫いた聖書の言葉は「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザヤ書45章22節)でした。以来、1892年、58歳で召されるまでの40年余り、彼は19世紀イギリスの産んだ大伝道者として多くの魂を主に導くのですが、彼は死ぬまで、この16歳の吹雪の朝のキリストへの献身の思いから離れることはありませんでした。様々な試練の中にあっても、彼はいつもこの“原点”に立ち返って、キリストから新たな力を与えられたのです。私たちが、何よりも彼から学ぶべきものは、この徹底した“キリストへの信従”です。

なお、この優しそうな(!)顔写真は、私の知る限り、初めてのものです。

(ヘブル 4:12) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

(黙示録2:10) 「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

My dear Friend, I am still a poor sinner and I have to look to Christ every day as I did at the very first. Come along with me! Come along with me! It is many, many years since, on a snowy morning, I looked to Him and was lightened. I wish that, this snowy night, some soul here would look to Him and live!

【祈り】

み父よ、キリストを通して私に救いをお与えくださり感謝します。キリストをいつも私の人生の中心に据えることができるように助けてください。私は、キリストを通して自由に、満ち足りて生きる道を選びます。この世の出来事を超えて、このお方に信頼することを選びます。キリストの内にのみ、私は満ちあふれる人生を見いだします。み父よ、ありがとうございます。イエス様の力あるみ名によって祈ります。アーメン。

Father, thank you for gifting us with salvation through Christ. Help me to keep Jesus in the center of my life. I choose to live freely and fully through Christ. I choose to trust in Him over the things of the world. In Christ alone, I find abundant life. Thank you Father. In Jesus’ Mighty Name, AMEN!

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2019年

11月

21日

◆神の人たるの資格◆

1.《無条件に神に愛される人》

キリストは、あなたの良き行いのゆえに、あなたを愛したのではない。良き行いは、神があなたを愛するきっかけとなった理由ではない。

それゆえ、現在でも彼は、あなたの良き行いのゆえに、あなたを愛するのではない。良き行いは、神があなたを愛し続ける理由ではない。

キリストは、あなたを愛する意志のゆえに、あなたを愛するのだ。

【解説】 あなたのために命を捨てた十字架のキリストに現された神の愛は、天地の創られる前にあなたを救いに選ばれた時も(エペソ1:4)、現在も、そしてあなたをご自身と同じ栄光の姿に変えてくださる未来も、あなたの良き業によるのではありません。「私はあなたを愛すると決めた。故にあなたを極みまで愛するのだ」という神様の絶対的ご意志と主権によるのです。このような愛は、地上には存在しません。これは神様の“絶対愛”です。この愛を知ったら、私たちは、自らの汚れと、そのあわれみのかたじけなさに、ただ恐れおののきます。そして、あの詩篇の記者のように、「あなたはなぜこのような者を顧みられるのですか?」と叫ばざるを得ません(詩篇8:4)。そして、この愛にほんの少しでも報いるために、ひたすら良き業に励むのです。それが、神があなたを愛する理由ではなく、神へのあなたの感謝の応答であることを、神にも人にも示すために――。

(エレミヤ31:3) 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

Christ did not love you for your good works,--they were not the cause of His beginning to love you;--so He does not love you for your good works even now; they are not the cause of His continuing to love you. He loves you because He will love you.

 

2.《神によって教会に遣わされた人》

熱心で、疲れをいとわず、神(聖霊)の油注ぎを受け、“魂の漁(すなど)り人”となるべく主の教えを受けた人。

このような人が、教会に遣わされることに勝る大いなる祝福を、私はついぞ知らない。

【解説】 日本の教会の働き人が減っています。高齢化して第一線を退かれる人が増えているのに、新しい献身者が少ないのです。スポルジョンが“最大の神の祝福”と呼ぶ神の人が一人でも多く与えられるよう、私たちは膝をかがめて祈らなければなりません。それと共に、私たちは、あのイエスに香油を注いだマリアにならなければなりません。キリストの体なる教会に遣わされた者の一人として、私たちにも、「自分にできること」があるのです(マルコ14:8)。キリスト者は、例外なく、主に仕える小さな“神の人”なのですから――。

(マタイ 9:37,38) 「そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

I scarcely know of any greater blessing to the church than the sending forth of earnest, indefatigable, anointed men of God, taught of the Lord to be winners of souls.

 

3.《み霊の導きに従順な人》

もし私たちがキリストに従順でないなら、ご安心あれ、私たちはキリストのみ霊を持っていないのだ。そして私たちは、キリストのものではなくなる。

(ローマ8:9) 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

(エゼキエル 36:27) 「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

(ルカ 9:23) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

【解説】 「ご安心あれ」と言われて、「?」と思うのはいいですが、素直に安心しないでください! これは「間違いなくそうなる」という、スポルジョン流の痛烈な皮肉なのです。イエス・キリストを主、救い主として告白した者は、即、“神の人”です。キリストのみ霊が、その瞬間から、あなたの心の奥深くに内住されます。そして、み霊のコントロールのもと、私たちはキリストに服従する者になります。そこには、主に従わず、安楽な道を行かせようと誘惑するこの世との闘いも生まれます。それでも、本当にキリストのみ霊を持っている人は、キリストに従うのです。前者があって後者がない人は、うわべだけの信仰者であり、“キリストのもの”ではありません。罪と弱さのゆえに、キリストに従いきれなかったときは、内住のみ霊が、必ず認罪と悔い改めに導かれます。これが真に“キリストのもの”とされた動かしがたい証拠です。それがほんとの“ご安心あれ”ですね。

If we are not obedient unto Christ we may rest assured that we have not the Spirit of Christ - and are none of His [Romans 8:9]."

Charles Spurgeon (Joshua's Obedience)

"I will put My Spirit within you and cause you to walk in My statutes, and you will be careful

to observe My ordinances." - Ezekiel 36:27 ".FOLLOW ME” - Christ (Luke 9:23] - 

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2019年

10月

30日

◆スポルジョンの語る子育てと死への備え◆

1.《子は父のどこを見て育つか?》

子どもたちは、父の“悪”をまねる。

父の“悔い改め”をまねることは、ほとんどない。

【解説】 これが現実です。“悪”と訳したviceヴァイスには、「悪徳、悪癖、悪習、性格の欠点、弱点、堕落行為」など、父親の持ちうる“悪”が網羅されています! 子はそれをまねるのです。考えてみたら、家庭教育で、これほど恐ろしいことはありません。だからこそ、父親は、子どもの前で、妻に、子どもに、心から謝るべきなのです。それは父親が己のプライドに打ち勝って示す最大の“勇気”であり、その勇気は、子どもの心を打たずにはおきません。その最大の報酬は、子どもからの“尊敬”です。

Children will imitate their fathers in their vices, seldom in their repentance.

 

2.《叱る時に叱って“頭痛の種”を摘み取れ》

もし私たちが、小さな子どもたちを叱ることで頭を痛めないなら、

彼らが成長した時に、絶えない頭痛に悩まされるだろう。

【解説】 はい、子どもは、叱るべき時に、しっかり叱るのです。それは頭も心も痛むことです。でも、子どもを甘やかし、過保護にし、人として絶対にしてはならないこと、言ってはならないことを教えず、「誰も見ていなくても、神様は見ているのよ」と、見えざるお方を畏れることを教えないなら、子どもが成長してから、その何十倍もの苦労をすることになります。子どもが大きくなった分、ゆがめられたままの性質もゆがみを増し、親は毎日泣きながら、頭を抱えることになるのです。少子化の現代、その可能性は、ますます増しています。大人社会のあまたの悲劇は、子育ての”頭痛”を恐れて手を抜いたことに原因があることを、親だけでなく、私たち全ての大人が心に刻まなければなりません。

If we never have headaches through rebuking our little children, we shall have plenty of heartaches when they grow up.

 

3.《スポルジョン流”メメント・モリ”(死を覚えよ)》

“死”に備えない人間は、並のバカではない。

その人は正気を失っているのだ。

【解説】 2行目のmadman、“穏やかに”訳しましたが、直訳すると、「気違いだ」となります! 神のメッセンジャー、スポルジョン、人の頭でなく心の愚かさには、ハンパなく手厳しいのです。また私事になりますが、この2月に妻が突然、一夜にして召天した時は、本当に衝撃でした。妻の体を抱きしめて、「主よ! なぜですか?!」と絶叫したのが、昨日のようです。その時から、”死”は、私の最も身近なものになりました。クリスチャンも死ぬ。しかも、何の前触れもなく、想像もしなかったときにも、”神の時”が来れば、死ぬのです。この私も、それまでは、「あと10年は大丈夫。いや、主許したまわばあと15年は…」と思っていたのが、今、この瞬間にも召されるかもしれないという現実を、愛する者の亡骸は、冷然と教えてくれました。

年を経た者だけでなく、まだまだこれからの人たちも、毎日、“死”と隣り合わせて生きています。ただ気がつかないだけ、考えようとしないだけです。でも、死の瞬間には、もう私たちは生きてはいない。この当然の事実を、私も、あなたも、もっと真剣に考えなければいけません。しなければならないのに、「今忙しいから、もう少し時間の余裕ができたら」と思っていることはありませんか? 「あの人に、どうしても謝らなければ…。この感謝を伝えておかなければ…」と思っていることはありませんか?――それが、“死に備える”ということです。財産の処分方法を遺言に書き記すだけが、死への備えではありません。これは“生き方”の問題です。「たとえ明日、世界が滅びると知っても、私は今日、リンゴの木を植える」と言ったのはルターだと言われていますが、私たちも、明日は来ないつもりで、今日の一日を後悔なく生きることです。

He who does not prepare for death is more than an ordinary fool. He is a madman.

 

(写真)2枚ともスポルジョン。右は34歳、妻と。

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2019年

9月

16日

◆キリストが全て◆

(ピリピ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

1.《俗の中で聖を生きる》

神を志向して生きる者には、俗なるものは何もない。全てが聖いのである。

【解説】 短い言葉ですが、これが、キリストの血潮によて洗い清められ、ひとたび罪の世から贖い出されて、再び罪の世に証し人として送り出されている私たちの生き方を決める基本的な信条です。「神を志向する」とは、優れて「神の聖さを志向し、その聖さの中に自らを置く」ということです。そしてその聖められた神の視点でこの世を見るとき、全ては聖く見えるのです。”聖さ”の中に、“罪”は入り込むことができません。

(Ⅰペテロ 1:15,16) 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」

(テトス 1:15) 「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」

To a man who lives unto God nothing is secular, everything is sacred.

 

2.《キリストの部屋をつくる》

もしあなたがキリストのための部屋をつくるなら、その日からのち、この世はもはや、あなたのための部屋を持たないことを覚えておきなさい。

【解説】 これは、上記1.の姉妹編です。そしてまた、あのガラテヤ2章のハイライトの言葉を、スポルジョン流に、分かりやすく言い換えたものです。このみ言葉と共に味わってください。

(ガラテヤ 2:19,20) 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

If you have room for Christ, then from this day forth remember, the world has no room for you.

 

3.《心配を“癒やしの案内人”に》

究極の目的は、心配から逃れることではなく、それをしてイエス・キリストの癒やしのご臨在の中に私たちを導く“案内人”にすることである。

【解説】 私たちは、一人の例外もなく、心配、不安、懸念、気遣いの中で生きています。そしてその一つ一つを、主の十字架のもとに携えて、重荷を取り去っていただくのですが、スポルジョンは、このようなユーモアさえ感じさせる表現で、私たちに“思い煩い”に対する新たな取り組み方を提示しています。それは、心配を、主の癒やしに私たちを導く“案内人”にするということです。私たちに心配事のあるところ、そこには必ず主の癒やしがあります。しかも、”イエス・キリストの癒やしのご臨在“という原文には、主が、“心配氏”に案内されてご自身のもとに来たあなたを、2000年前、地上で人々を癒やされた時のように、あなたの前に、生きて手を差し伸べて待っておられるという臨場感があります。心配何するものぞ。恐れたり、避けたりする必要はありません。それに向かって「さあ速やかに主のもとに連れていきなさい」と命令し、その場で主の癒やしを体験してください。それが、あなたに心配事が起こる究極の目的なのですから――。

(ピリピ 4:6,7) 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

The ultimate aim is not to escape anxiety but to allow it to usher us into the healing presence of Jesus Christ.

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2019年

8月

18日

◆信仰生活3つのチェックポイント◆

《罪》

罪は、あなたの涙や行いによって除き去ることはできない。

【解説】 言うまでもありませんが、この“涙”は後悔の涙です。そしてこの“行い”は、善き行いです。いずれも、これによって、犯した罪をなかったこととして帳消しにしようとする試みですが、決して成功することはありません。罪は、”悔い改める”ことによってしか、赦されることはないのです。

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

Sin cannot be removed by thy tears or by thy deeds.

 

《聖書の無謬性》

もし私が、聖書の無謬性-始めから終わりまで全編を通しての絶対的な不可謬性(誤りがないこと)を信じなかったら、私はこの説教壇に立つことは決してなかったであろう!

【解説】 19世紀イギリスのスポルジョンも、20世紀アメリカのビリー・グラハムも、あれほどに神様に用いられ、あれほど多くの人々を回心に導けたのは、神の言葉、聖書に対する100パーセントの信頼があったからでした。人が救われ、生きる力を与えられるのは、語る人の力ではなく、語られるみ言葉の力なのです。

(Ⅱテモテ 3:16) 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

If I did not believe in the infallibility of Scripture – the absolute infallibility of it from cover to cover, I would never enter this pulpit again!

 

《舌を制する》

自分の舌を、頭脳を飛び超えて勝手にしゃべりださせないよう気をつけなさい。

【解説】 “舌”が独立した人格のように言っているところが面白いですが、実際のところ、そんな気がすることがありますよね。「舌が勝手にしゃべりだして、気がついたら言ってはいけないことを言っちゃってた。」…こんな苦い経験は、誰にもありそうですが、でもこれは半分の真理でしかありません。舌が、勝手にしゃべることは現実にはないわけで、頭脳からの指令によってモノを言うのですから、やはりこれば、究極的には脳のコントロール力の問題なのです。舌がむずむずしてきたら、ぐっと唇をかみしめて、“自分が相手の立場だったら?”ととっさに考えましょう。頭脳のコントロール力は、ひっきょう、あなたの内なる聖霊のコントロール力に比例するのです。

(ヤコブ 3:9,10) 「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」

Beware of letting our tongue outrun our brains.

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2019年

6月

19日

◆信仰生活3つの局面-新生、教会、忍耐◆

1.

《神から生まれる》

人は、自分自身をかなり変えることはできるかもしれない。

多くの悪習を追い出し、多くの肉欲にふけることを捨て、

悪しき習慣に打ち勝つこともできよう。

だが、この世で誰一人、自分自身を神から生まれさせることはできない。

人は、自分の力を超えたことを成し遂げることは、決してできないのだ。

【解説】 “神から生まれる”とは、“新しく生まれる=新生”するということです。人は、努力によって、ある程度まで自分の人格を変えることはできます。世の宗教は、その自己完成の道を求めますが、自分の力で新しく生まれ変わることはできません。どんな人格者でも、内に潜む“罪”の問題を根本的に解決しない限り、それは不可能ですが、生来の罪びとである私たちは、他人の罪はおろか自分の罪さえ解決することはできないのです。それがお出来になるのは、私たちの罪の身代わりに、十字架にかかり、三日目によみがえられた神のみ子イエス・キリストだけです。その恵みのゆえに、私たちは新しく神から生まれ変わることができるのです。”福音”が、全ての人に必要なわけは、まさにこの一点にあるのです。

(ヨハネ 3:3)「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

A man may reform himself very much, he may cast away many vice, forsake many lusts in which he indulged, and conquer evil habits; but no man in the world can make himself to be born of

God; he could never accomplish what is beyond his power.

 

2.《聖書に従わぬ教会から去れ》

もしあなたの属する教会に、

霊感されたみ言葉に反することがあるなら、

その教会を去りなさい。

【解説】 “そんな教会があるのか?”と思いますが、現実にはあるのです。まず第一に異端です。私の属する教会に、半年ほど前から一人の男性が出席されて、熱心に求道されています。しばらく、エホバの証人(ものみの塔)の教会に出ておられて、彼らの聖書に加えて正統的な聖書も購入され、両者を比較して、何かが違うと感じて、うちの教会に来られたそうです。次に、聖書の権威に100パーセント従わず、恣意的に解釈して、人間の権威が支配している教会もそうです。ただし、その見極めは、とても難しいことで、各々が“自分は正しい”と思っているうちは、争いや分裂が起こるだけです。聖職者も、信徒も、互いに教会の頭である主イエス・キリストの前にひざまずいて、謙遜に主のみ声に耳を傾けることが必要です。“風は思いのままに吹く”(ヨハネ3:8)。聖霊は、教会の中で、ご自身の書かれた聖書の権威と共に働かれます。イエスのみ霊が、いつも教会の中を吹き抜けているような教会、聖職者も信徒も、その風を感じながら、互いにみ言葉に仕え合っていく教会となるよう、祈らねばなりません。不幸にして、明らかにこれに反する事実がなくならないとき、どうすべきかも自分で決めてはなりません。そのときは聖霊が、み言葉による確信をもって「この教会を去れ」と導かれるはずです。(スポルジョンの真意はそこにあり、安易な教会離れを進めているわけではありません。)

If there is anything in the church to which you belong which is contrary to the inspired Word, leave that church.

 

3.《一に忍耐、二に忍耐》

忍耐! 忍耐!

あなたは、いつも急ぎすぎる。

だが、神はそうではないのだ。

【解説】 全くそのとおりですね。私たちの“聖徒養成学校”で、一番難しいのはこれかもしれません。「もう3か月もたつのに」「これほど祈ってお願いしてるのに」「これはゼッタイ神様のみ心にかなうことなのに」…まだ神様はかなえてくださらない。でも、神様の”時”の長さは、人間が考えるのとは違うのです。神様はいつも、“永遠”の視点から物事を進められます。「神は急がない」。心がはやるたびに、これを唱えませんか? そして、どんなときにも“時にかなって美しい”(伝道者(コヘレテ)の書3:11)神の時を、忍耐をもって待ちましょう。

(ヘブル 10:36) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

Patience! Patience! You are always in a hurry, but God is not.

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2019年

5月

25日

◆私にもできる二つの生き方ガイド◆

《祈りの中で生きる》

私たちは、誰もが議論に長(た)けているわけではない。だが、誰もが祈れるのだ。

私たちは、誰もがリーダーにはなれない。だが誰もがプリーダー(神への嘆願者)にはなれるのだ。

私たちは、誰もが弁舌に巧みとは言えない。だが誰もが“神と語らう生活”を送ることはできるのだ。

【解説】 クリスチャンであれば、誰でもできるもの、1つ目は“祈り”です。祈りには、議論で説き伏せる力も、人をリードする力も、言葉で人を酔わせる力も一切不要です。ただ神と語らう。神に必要と、癒やしのために、ひたすらお願いする。それは自分のためだけでなく、愛する人のためのとりなしもありますね。この2番目には、一見して分かる原語の片仮名読みで記したように、スポルジョンの踏韻の修辞があります。そして3つ目。後半の原文を直訳すると、「祈りを普及させる(優勢にする。支配的にする)」となります。祈りが、私たちの生活の中で、もっと大きな部分を占めるように、というニュアンスを、無い知恵を搾って「神と語らう生活」としてみました。私事で恐縮ですが、妻という最良の語らう相手を失ってしまいましたので、私はいろいろなことを、生活の中で声に出して神様とお話ししています。この訳語は、誰よりも、今の私にとってピッタリなのです。あなたにも、そうでありますように――。

We cannot all argue, but we can all pray; We cannot all be leaders, but we can all be pleaders; We cannot all be mighty in rhetoric, but we can all be prevalent in prayer.

 

《主の権威のもとに生きる》

「かく主は言われる」―これが、神の教会における唯一の権威である。

私たちの誰であれ、”私は主イエス・キリストのもの”と認めるのに、何か恥じるものがあるというのか?

【解説】 この2つの文章は、ソースは別のものですが、あえて一緒にしました。その意図は、「教会の主は、その教会に連なる一人一人のキリスト者の主である」という真理を、もう一度確認したかったからです。

私たちが絶えず吟味しなければならないことの1つは、「教会の中で、イエス・キリストだけが、唯一の権威者となっているか」ということです。時には牧師、時には長老・執事・役員、時には高額献金者などのキリスト以外の人間的権威が教会を支配していることはないか? 私たちは、いつもへりくだって、この「主は言われる」の唯一の権威のもとに、ひざまずかなければなりません。

もう1つは、「私は自分の置かれた生活の場所で、“主のものとされた自分”を周りの人々に明らかにしているか」ということです。いざというときに、あのペテロのように「私はこの人を知りません」と否定はしなくても、クリスチャンであることを恥じて、言葉を濁したり、話題をそらしたりすることはないだろうか?

私たちは自己中心で、また弱い者です。知らず知らず、教会の中で主の権威を犯していた罪を聖霊に示されたら、また生活の中で主を恥じていた自分に気づいたら、その罪を悔い改め、主の赦しを請いましょう。私の、あなたの自己中心も弱さもよくご存じの神様は、赦して、聖めてくださいます。

(ローマ1:16) 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

“Thus saith the Lord” is the only authority in God’s church.

What is there for any of us to be ashamed of in acknowledging that we belong to the Lord Jesus Christ?

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2019年

4月

29日

◆スポルジョンが語る信仰生活6つの要諦(かなめ)◆

1.《宣教―永遠につながる神の業》

宣教は子どもの遊びではない。それは労力と気遣いなしにできることではない。それは神聖かつ厳粛な業である。しかしてそれが永遠にまで関わることに目を留めるならば、大いなる方への畏敬の思いを込めてなされるべきものなのだ。

Preaching is not child’s play, it is not a thing to be done without labor and anxiety it is solemn work, it is awful work if you view it in its relation to eternity.

 

2.《魂の漁り人に》

“魂の漁り人(すなどりびと)”になることは、この世で最も幸せなことである。

【解説】 この幸せを、あなたは今、感じていますか? この前 感じたのはいつのことでしょうか? 長い間、この幸せから遠ざかっているのではありませんか? “魂の漁り人”と訳した原語の soul winnerソールウィナーは、直訳すれば“魂を勝ち取る人”です。滅びに向かっていた自分が、神様のあわれみによって救われ、永遠の命を与えられている――この恵みは、他の人々を救いに導くことによって神様にお返ししなければなりません。「救わんがために救われたり」と言ったのは救世軍の創始者ウィリアム・ブース大将ですが、これはクリスチャンが、片時も忘れてはならないことです。ここで心すべきは、魂を救うのは私たちではなく、神様の主権的なみ業であるということです。私たちにできるのは、愛する魂のために祈り続けること、そして神様の“時”を逃さずにその魂に証しすることです。私の亡き妻は、死の床から十字架のイエス様に救われてから、家族や友のために祈り始めました。そしてその“時”を心に感じた時、本当は身内への伝道は一番難しいと言われるのに、30年間祈り続けていた母に証しをして、救いに導いたのです。あとの家族のことは私に託し、妻は今

天国で、その母と楽しく語り合っていることと思います。この世の幸せは、つかの間に過ぎ去ります。魂の漁りだけが、永遠に失われることのない、まことの幸せなのです。

To be a soul winner is the happiest thing in the world.

 

3.《家庭の中の自分をありのままに見せよ》

家族の中にいるときの自分の性格によく気をつけなさい。

そこでのあなたの立ち居振る舞いが、

本当のあなただからだ。

【解説】 さすがスポルジョン、一方では上記1のような宣教の神学の真髄を説きながら、一方で彼の目は、限りなくリアルに人間そのものの上に注がれているのです。今日の6つの言葉のうち、ひょっとしてあなたは、他のどれよりも、この3に「言えてる!」と思ったのではありませんか? クリスチャンになったからと言って、決して背伸びして、“自分以上の自分”をご家族に見せようとしないでください。相変わらず欠点だらけの、“ありのままの自分”でいいのです。ただ、こんな私が、イエス様に愛されて、救われて、生かされている。―その喜びと感謝を、素直に表すことです。その姿をご家族は見ているのですから。「何がこの人を(この子を)こんなにしたんだろう」と内心驚き、いぶかりながら――。それが、家族の救いへの小さな第一歩です。

Take care of your character in the home. For what we are there, we really are.

 

4.《結婚の祝福》

夫と妻がよく“くびき”を共にするとき、二人の重荷は、いかに軽くなることであろうか!

【解説】 “くびき”とは、“首に架けられる木”が原意で、ご存じのように二頭の馬や牛の首に木の棒を横に渡して固定することによって、二頭を同じ方向に動かす道具ですね。これを付けることによって、二頭の力はまさに二倍以上に用いられます。イエス様も、「私のくびきを負いなさい。私の荷は軽いからです」とおっしゃいました(マタイ11:29,30)。また妻の話で恐縮ですが、彼女は教会のあるカップルの結婚の席の祝辞で、「二人で手を取り合えば、祝福は二倍になり、重荷は半分になります」と言って、そのハンデを負った者同士のカップルの門出を祝いました。スポルジョンの妻スザナも、病弱で、40歳まで生きられなかったのですが、生涯夫を支え、夫のために自分にできることを精いっぱいにしたのです。その妻への感謝を込めて、彼はこの言葉を口にしたに違いありません。(下の写真は、今に残るその二人です。)

When husbands and wives are well yoked, how light their load becomes!

 

5.《柔和さはどこから?》

まことの強さは、

柔和さの“背骨”である。

【解説】 真の強さを内に秘めない柔和さは、“軟弱”につながります。“背骨”と訳したbackboneは、今ではそのまま“バックボーン”とも言いますね。物事の背後にあって支える“中枢”“基幹”を成す力です。その強さは、真理はどんな困難にも負けずに守り通し、虐げられ、苦しめられている人々にはとことん寄り添う勇気の中に秘められています。そこから生まれる柔和さこそが、人間関係の軋轢を解きほぐし、あなたを“平和をつくり出す人”にし、“神の子”と呼んでいただけるのです(マタイ5:9)。

Real strength is the backbone of meekness.

 

6.《隠れた祈りこそ天国と地獄を隔てる》

隠れたひそかなる祈りは、

天を開くカギであると同時に、

地獄の門を閉じるカギでもある。

【解説】 古今、祈りの効用、祈りの大切さは、あらゆる言葉で言い表されてきましたが、これがスポルジョンの言葉です。”天を開くカギ”は、イエス様によってペテロにも与えられましたが(マタイ16:19)、私たちが神のみ前に祈る祈りの力は、それだけではなく、“地獄の門を閉じる”力も持っているというのです! すなわち、祈りがサタンの暗躍を封じ込め、今まさに地獄の滅びに入っていこうとする愛する者を、その門の手前でつなぎ留めるのです。神様がお与えくださった恵みの数々の中で、私たちは今、改めて“祈り”の恵みと力に刮目すべきではありませんか? そしてあまりに貧しい自らの祈りに心刺され、ひざまずいて、「主よ、私に祈ることを教えてください」と懇願すべきではないでしょうか?(ルカ11:1)

As private prayer is the key to open heaven, so it is the key to shut the gates of hell.

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2019年

2月

11日

◆忘れてならない”信仰の基本”4か条◆

1.《人間の罪は、神のみ子でも容赦されない》

神がイエスを“罪びと”としてご覧になったとき、神はみ子を容赦されなかった。

そして神は、キリストを拒み、悔い改めない人々を見たら、彼らを容赦なさらないだろう。

【解説】 この端的なスポルジョンの言葉に、福音の“恵み”と“厳しさ”がよく表れています。神のみ子は、すでに2000年前のあのゴルゴタの十字架で、私たち全ての人間に代わり、“罪びと”として父なる神に裁かれたのです。父なる神様は、たとえご自身の独り子といえども、十字架の上で“罪びと”となったイエスを、人間(私たち!)への愛のゆえに、容赦なく死に渡されたのです。その大いなる恵みを知りながら、なおもこの”福音”を拒む者には、もはや罪からの救いの道は残されていないことに、私たちは粛然として気づかなければなりません。

(Ⅱコリント 5:21) 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

When God saw Jesus in the sinner’s place, He did not spare Him; and when He finds the unregenerate without Christ, He will not spare them.

 

2.《罪の裁きと訓練の懲らしめを混同しない》

“信仰者の処罰”などという話をするおつもりか! そんなものはない。人の世における様々な苦難は、キリスト者の罪に対する処罰などではない。それは、“天の父の懲らしめ”であって、“裁判官の下す刑罰”とは違うのだ。

【解説】 これは、信仰者も避けて通ることはできない様々な人生の苦しみに対して、“それは神からの罰だ”という間違った考えに対する、スポルジョンの聖書に立った論駁です。それは、私たちの内に“キリストのかたちが成るため”(ガラテヤ4:19)の、父なる神様からの信仰の訓練なのです。これが、信仰を持つ前、神を信じないで自分中心に生きる人間に対する神の“永遠の裁き”と、信仰を持ったのち、私たちを神の人になるために訓練として神様がお与えになる“苦難という懲らしめ”の違いです。この違いをよく理解しないと、私たちの信仰生活は、いつも神の裁きを恐れる、喜びのないものとなります。下のみ言葉を、しっかりと心に据え直しましょう。

(ヘブル 12:6,7) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」

Talk of the punishment of a believer! there is not such a thing. The

afflictions of this mortal life are not punishments for sin to Christians, they are fatherly chastisements, and not the punishments of a judge.

 

3.《救いの原点に立ち返る》

かの大いなる“身代わりびと”の上に

我が罪 裁かれ

永遠に取り去らるるを見しとき

我は驚きに目を見張り

我が生けるを知り

自由となりし喜びに跳ね踊りたり。

(イザ 45:22) 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

【解説】 これが、有名なスポルジョンの“我が回心の記”です。1850年12月15日の日曜日、彼は突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでメソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験したのです。これはその時、決め手となった聖書の言葉です。彼を冷たく命のない、暗黒の世界に閉じ込めていたのは、神なしに独り己が道を手探りで進もうとする自我の“罪”でした。その罪を、無条件に引き受けて、十字架で身代わりに死んでくださった神のみ子イエス・キリストを仰ぎ見たとき、彼はあまりの恵みの深さに言葉を失い、今こそ自分が真に生きていることを魂の底から実感し、罪の縄目から解放された喜びに、文字どおり雪道の上を喜び踊ったのです! 彼のその後の目覚ましい宣教の働きの原点は、この回心にありました。私たちもまた、人生の様々な試練に出会い、信仰を試されるときは、自らの“原点”に立ち返らねばなりません。“救いの原点に返る”――これは、あの背信を繰り返した旧約の民が、大いなる”出エジプト”の原点に幾度も立ち返ったように、そしてペテロが、パウロが、新約の教会が、主イエスの“赦しの愛”の原点に立ち返ったように、私たちの信仰の旅路を最後まで全うさせてくださる、神様の恵みのたまものなのです。

I looked, and lived, and leaped in joyful liberty as I beheld my sin punished upon the great Substitute, and put away for ever. “Look unto me, and be ye saved, all the ends of the earth, for I am God, nd there is none else.“-Isaiah 45:22

 

4.《“悔い改め”もまた成長する》

”信仰”が成長するように、”悔い改め“もまた成長する。そのことを、決して誤解してはならない。”悔い改め”とは、せいぜい数日、数週間のものとか、できるだけ早く乗り越えるべき一時的な改悛などのたぐいではないのだ! 違う。それは、“信仰”そのものがそうであるように、生涯にわたる“恵み”なのだ。小さな神の子たちも悔い改める。同じように若い人たちも、親となった人たちも悔い改める。“悔い改め”と“信仰”は、切り離すことのできない“伴侶”なのである。

【解説】 上記3.の、「救いの原点に立ち返る」ことを可能にするもの、いえ、その”絶対条件”と言ってもいいものは、この”悔い改め”です。悔い改めなき原点回帰は、何度繰り返しても無駄なことです。

けれども一方で、“悔い改め”もまた、“信仰”と同じように成長できるのです。悔い改めの深化は、信仰の成長と比例します。なぜなら、信仰の成長に伴って、私たちの霊性は研ぎ澄まされ、“罪”への感覚が深まるからです。それまでは気にも留めなかったもの、”これぐらいは誰でもやってる。赦される”と思っていたものが、”これもまた罪だ”と分かってきます。それは、自分の言葉や行為を受けた相手の人の立場に立って考えられるようになるから―あなたの中の“愛”が深まるからなのです。

そしてまた、人は、子どもも大人も悔い改めることができるし、いつになっても、死の瞬間でさえも悔い改めは可能です。だからこそ、“悔い改め”が許されているということは、その都度心の痛みは伴いますが、神の備えられた大いなる“恵み”なのです。

げに「信仰とは、”生涯の悔い改め”と見つけたり。」 私が、あなたが、どんなに大きな失敗をしても、悔い改める限り、再び神様の愛の懐(ふところ)に飛び込んでいけるのです、あのペテロのように――(ルカ22:32、ヨハネ21:15-17)。

Repentance grows as faith grows. Do not make any mistake about it; repentance is not a thing of days and weeks, a temporary penance to be got over as fast as possible! No; it is the grace of a lifetime, like faith itself. God’s little children repent, and so do the young men and the fathers. Repentance is the inseparable companion of faith.

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2019年

1月

21日

◆神のスパークを受けよ◆

神は、世界を炎で燃やす火花を作ることができる。

神は、一人の貧しい“祈り人”の火花によって、

国全体を照らし出すことがお出来になるのだ。

あなたも、そのために用いられるかもしれない。

だから、勇敢でありなさい。

 

【解説】 ご存じのように、車のエンジンは、一瞬のスパーク(電気火花)によって点火し、重い車体を高速で走らせることができます。昔は、火をおこすのが大変でしたが、火打ち石が発見されて、かまどに火をともすことが容易になりました。やがてそれがマッチになり、ライターになりましたが、原理は全て同じ、一瞬の火花によって、着火させることです。目にも入らないような微小な光と熱の玉が、時に燎原を、森を燃やし尽くし、時に家全体を明るく照らす光のもとになるのです。

霊の世界においては、救われて神のしもべとなった私たちの誰もが、神のスパークを受けることができます。”神のスパーク”とは、祈りとみ言葉を通して、あなたの魂に働きかける“聖霊の火花”です。神様の目で見る世界の歴史は、旧約の時代も、新約の時代も、それに続く2000年の歴史も、このような聖霊の火花を受けて立ち上がり、自らを、そして周りの人々を、遂には国家を燃え輝かせた人々によって前進してきたのです。

「確かにそう。でも私などは…」と思いましたか? スポルジョンが「あなたも、そのために用いられるかもしれない」と言った原語には、“まだ間に合う”というニュアンスがあります。「私にはなんのたまものもないから」「私はもう年だから」という言い訳は、神様の前には通用しません。そんな私たちの弱さを百もご承知のうえで、“点火”してくださるのは、神様なのですから。そして最後の「勇敢でありなさい」は、読んで気づかれた方もいるでしょうが、あのヨハネ16:33のみ言葉です。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

この罪の暗黒の世で、光り輝こうと思ったら、たちどころに艱難が襲います。でも私たちには、あの十字架と復活によって、サタンの支配する罪の世に勝たれた主イエス・キリストがおられるのです。この主に在って、私たちは“まだ間に合います”。まだ用いていただけるのです。私が、あなたが、“聖霊の火花”を受けるために、まず“一人の貧しい祈り人”として、み前に自らを差し出す限り――。

God can make a spark set a world on fire-he can light up a whole nation with the spark of one poor praying soul. You may be useful yet; therefore be of good cheer.

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2019年

1月

09日

◆スポルジョンの説く救いと信仰のキモ◆

救うのは、偉大な信仰ではなく、“まことの信仰”である。

そして救いは、信仰の中にあるのではなく、信仰が寄り頼む“キリスト”の内にある。

熟慮すべき点は、信仰の程度ではなく、信仰の“誠実さ”である。

 

【解説】 さすがスポルジョンの“三段論法”は、一段一段、大切なポイントを衝いていますね。では、今日は、彼なら、このように解説するかもしれない、という語調で、説き明かしてみます。

第1段: 人を救うのは、“偉大な信仰”ではない。もしそうなら、救われる人は極めて少ないだろう。そもそも“偉大な信仰”などというものは、人間の評価であり、神の前には存在しない。神がご覧になるのは、たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても、いかに真実に、偽りなく、心から神の救いを信じたかにあるのだ。

第2段: しかしながら、いかにあなたの信仰が真実であっても、“救い”は信仰そのものの中にあるのではない。徹頭徹尾自己中心な人間は、ともするとそう考えてしまう。そのとき、信仰は己の“業”になる。人は己の業である信仰を誇り、それによって自分は間違いなく救われているという錯覚に陥る。そこにはもはや、神の“恵み”は存在しない。大切なのは、信じる“対象”である。私たちの救いは、私たちが救い主と信じ、主としてより頼む、“イエス・キリストご自身”のうちにのみある。“業”というなら、キリストが、私の罪の身代わりに十字架の上で命を捨てられ、三日目によみがえられた、あの”救いのみ業”そのものの中に、私たちの救いはあるのだ。

第3段: 最後に、私たちが深い洞察を持って、正しく理解しなければならないのは、“信仰”というものの内実、核心は何なのか、神が最も大切なものとしてご覧になるのは、私たちの信仰の、どのポイントなのかということだ。私がmeasure“程度”と言ったことの中には、信仰歴、神学の学歴と得た学位、関わった働き、そのために得た肩書、著した本の数…、など、およそ数字的に測りうる全ての外面的な評価を指す。しかしながら、それをもって神のみ前に出ようとするならば、神はたちどころに顔を背けられるであろう。それらのものは、人には誇れても、神に対して誇れるものではない。(Ⅰサムエル16:7)「人はうわべを見るが、主は心を見る。」 信仰の核心は、人に見せるうわべの“計測値”ではなく、神に包み隠さず見せるあなたの心の“信頼度”―あなたが、どんな場合でも、いかに誠実に、陰ひなたなく、ありのままで神を信頼してきたか、それだけなのだ。

 

It is not great faith, but true faith, that saves; and the salvation lies not in the faith, but in the Christ in whom faith trusts. It is not the measure of faith, but the sincerity of faith, which is the point to be considered.

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2019年

1月

02日

◆年の初めに思う2つのこと◆

1.《時のあるうちに》 

草の一生とは、このようなものだ。

蒔かれ、生長し、風に吹かれ、刈り取られ、消え去る。

人間の一生も、大した違いはないのだ。

【解説】 これは、さしずめスポルジョンの「伝道者(コヘレト)の書」ですね。原文では、韻を踏んで修辞を施していますし、人間の一生に、巧みになぞらえています。すなわちこうです。「蒔かれ(ソーン。誕生)、生長し(グローン。成長)、風に吹かれ(ブローン。試練)、刈り取られ(モーン。死)、消え去る(ゴーン。忘却のかなたに)。まさに、はかない一生です。私たちは、新しい年が明けて、それぞれに1つ年を重ねました。それは、地上で残された年月が、1年減ったということでもあります。これだけを読んだら、そぞろ寂しさが募るだけですが、スポルジョンの言わんとするのは、《だから》なのです。

1つは、《だから》やがて消え去る地上のものに一切望みを置くのではなく、永遠に残る神のみ言葉に、いよいよ固く立つということです。

(イザヤ 40:6-8) 「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

もう1つは、《だから》残された時を生かし、心を込めて主を求め、主の業をせよ」ということです。聖書の中には、与えられた“時”を逸して、もはや取り返しのつかない後悔をした愚かな人々の例えが多く出てきます。蟻に学ばなかった怠け者(箴言6章)、ランプの油を用意しなかった5人の花嫁(マタイ25章)、家族に神の国を語らなかった金持ち(ルカ16章)…。私たちは、光なるイエス・キリストと共に、昼の間に働かなければなりません。“究極の夜”である“死”は、しばしば突然にやってきます。あわれみによって生かされている“今日”という日を、無為に過ごしてはいけないのです。

(イザヤ 55:6) 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」

(ヨハネ9:4,5) 「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

Here is th history of the grass – sown, grown blown mown, gone; and the history of man is not much more.

 

2.《この恵み、忘れまじ》 

神は、あなたの良き業のゆえに、あなたを愛したのではない。

あなたの悪しき業のゆえに、あなたを捨て去るのでもない。

ただあなたを、“イエスの贖いの血によって洗われた者”と見てくださったのだ。

【解説】 これが”福音”です。これ以上でも、これ以下でもありません。徹頭徹尾自己中心な“生涯現役の罪びと”(!)である私たちは、ほんの少し良き業をしても、「これで主は愛してくれる」とうぬぼれ、性懲りもなく同じ間違いをして、人を言葉や行為で傷つけては、「またやった。もう主は見捨てるかも」と自分を責めるのです。どちらの場合も、その瞬間、あなたは大切なことを忘れています。「イエス様は、命を捨てて、私の罪を自分の身に負ってくださった」という永遠の事実を――。新しい年も、この“驚くべき恵み”の中にとどまり続けましょう。人生のどんな修羅場の中でも、あなたに注がれる主のまなざしを決して忘れずにいましょう。

(イザヤ43:1 「主】こう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」

(Ⅰヨハネ4:10) 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

He never loved you for your good works; never cast you away for your bad works; but beheld you as washed in the atoning blood of Jesus.

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2018年

12月

11日

◆クリスマス: かのみどりごを想え◆

あなたの道を行かれよ。喜びもて。

されど あなたの断食において、

ベツレヘムの あの方を想え。

あなたの心に、あの方の場所を備えよ。

彼に栄光を帰するのだ。

 

あの方を身ごもりし乙女を想え。

されど何にもまして、

あの“人と生まれし方”、“与えられしみどりご”を想うのだ。

 

再びこう述べて、ペンを措こう。

「あなた方 全てに、

クリスマス、おめでとう!」

 

"Go your way, rejoice; but, in your feasting, think of the Man in Bethlehem; let him have a place in your hearts, give him the glory, think of the virgin who conceived him, but think most of all of the Man born, the Child given. I finish by again saying, “A HAPPY

CHRISTMAS TO YOU ALL!”

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2018年

11月

19日

◆暗い影のかなたの光を見よ◆

私の道に、暗い影がよぎっていた。

だが私はそこを通り抜けた。

陰はあるのに全く目に入らなかったのだ。

なぜだろう?

私の目は、かなたの強い光に注がれていた。

だから私を苦しめ悩ます暗い影に、

気づかなかったのだ。

 

【解説】 19世紀の大伝道者スポルジョンの文章は、格調高さの反面、やや近寄りがたい雰囲気もありますので、今回は詩文体で訳してみました。

誰の人生にも“影”はあり、ときどき私たちの前をよぎり、時には長いこと立ちはだかります。それは私たちを苦しめ、悩まし、悲しませます。でも、そこを通り抜ける道が1つだけあります。それは、その影のかなたの“光”にしっかりとフォーカスを当てて、それから目を離さずに、一歩一歩進んでいくことです。先が見えないような暗い影にさえ気づかせないほどの、強い“上よりの光”こそ、私たちの主、イエス・キリストです。

 

(ヨハネ8:12) 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

A dark shadow fell across my road, but I passed through it. I hardly realized it was there. Why? I had my eyes fixed on a strong light beyond, and I did not notice the distressing dark shadow.

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2018年

11月

01日

◆ヨブ、イザヤ、パウロさえ…◆

もしヨブや、イザヤや、パウロらが、一様に「私は汚れた者です」と言わざるを得なかったとすれば、ああ、哀れな罪びとよ、あなたはこの告白に加わることを恥とされるのか?

 

【解説】 ヨブ、イザヤ、パウロ…。彼らは聖書の中でひときわ光を放つ信仰の偉人です。しかし彼らは、聖なる神のみ前に立たされた時、「ああ、主よ、私は汚れた者、堕落し、恥ずべき者、悪質で、鼻持ちならない、卑しい者、無きに等しい者です」(いずれも原語vileヴァイルの訳です)。いいえ、彼らだけではない。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、ペテロも、皆そうでした。聖い神様のみ前で、己を“汚れなき者”と誇りうる人は、この地上に誰一人いないのです。このスポルジョンの問いに対する答えは、即座に「いいえ」ですね。私たちは、ともすれば、これらの信仰の先達たちの“偉大さ”に圧倒されて、「自分にはとても…」とたじろぎますが、私たちは、彼らの“罪、弱さ、欠け”も、ありのままに見つめなければなりません。そして、この地上でただ一人、罪なき神の子でありながら、私たちへの愛のゆえに、十字架の上で、”罪びと”となる道を選ばれたイエス・キリストに、叫ばざるを得ないのではありませんか? 「ああ、主よ、彼らでさえそうなら、この私は、本当に汚れ果てた者です。どうぞこの罪を赦し、清めてください」と――。

 

(ヨブ40:4) 「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」

(イザヤ 6:5) 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

(Ⅰテモテ1:15) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

If Job, and Isaiah, and Paul were all obliged to say, “I am vile,” oh, poor sinner, wilt thou be ashamed to join in the same confession?

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2018年

10月

01日

◆スポルジョン流 信仰の三つの柱◆

1. 《誰を信じるか?》 あなたは、”死せるイエス”を信じるよう求められてはいない。あなたが信じるのは、私たちの罪のために死なれたが、私たちを義とするために、再びよみがえられた“生けるイエス”である。

You are not asked to trust in a dead Jesus, but in one who, though he died for our sins, has risen again for our jusrification.

【解説】 孔子、釈迦、モハメッド、いずれも世界の歴史を変えた偉大な教えを後世に残しましたが、皆、死にました。一人、神のみ子イエス・キリストだけが、人類最大の敵、“死” を打ち砕いて復活されたのです。私たちは、単に2000年前のキリストの教えを守り、それに従っているのではありません。私たちは、日々、一瞬一瞬、生ける主と交わり、主と共なる人生を歩んでいけます。私たちは何かの宗教に帰依しているのではなく、命の主、キリストに在って信仰に生きているのです。

(Ⅰコリント15:17) 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

 

2. 《寝ているサタンを起こすな》 それゆえ、私たちは、極めて真剣に“誘惑”を避けなければならない。しっかりと武装して、“従順”の道を歩むことによって、決してサタンに、自分を誘惑させようと誘惑するようなことをしてはならない。私たちは、ライオンを探してやぶの中に分け入ってはいけないのだ。

Very earnestly, therefore, should we avoid temptation, seeking to walk so guardedly in the path of obedience, that we may never tempt the devil to tempt us. We are not to enter the thicket in search of the lion.

【解説】 強敵サタンに対して武装した私たちの姿は、エペソ書6章を思い出させますね。 “従順の道”とは、言わずもがな、み霊の与える剣である「神のみ言葉」への徹底した従順です(エペソ6:17)。その際にも、み言葉を自分に都合のいいように解釈させようとするのは狡猾なサタンのテクニックであることをお忘れなく(創世記3:1-5)。後半、「自分を誘惑させようと誘惑する」の一節が、面白いですね。でも私たちは、自分でも気づかないうちに、これをやっているのです。それを、そのあとのライオンの藪をつつく例えで言っているのですが、ありていに言えば、サタンに“隙”を見せるということです。最も危険なのは、自己過信。「俺は絶対負けないよ。試しに俺を誘惑してみな」という態度を見せるのが、サタンの最高の誘惑欲をそそるのです!

(エペソ6:11) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」

 

3. 《リバイバルはどこから?》 もし私たちがリバイバル(信仰復興)を望むなら、私たちはまず“神のみ言葉への畏れ”をリバイブ(復興)しなければならない。

If we want revivals, we must revive our reverence for the Word of God.

【解説】 私たちの思い描くリバイバルは、教会に、神学校に、そして地域社会に、ある日突如として起こる熱狂的な信仰のムーブメントです。それは、あのペンテコステに始まります(使徒の働き/使徒言行録2章) 。そしてキリスト教史2000年の中で、世界の各地に、また日本にも起こりました。でもそこに共通しているのは、それが “一人から始まった” ということです。それはまるで、長時間くすぶっていたワラの一本に、パッと火がついたようなものです。するとたちまち、燎原の火のように燃え広がっていくのですが、その一人の人に聖霊の炎がともるまでには、長い間のみ言葉への謹従と祈りがあったのです。私の聖書は、単なるアクセサリーになっていないか? ともかく読んでおく程度の習慣になっていないか? 本当に襟を正して、聖書を通して私に語りかける臨在の神様への畏れをもって、“拝読”しているか? スポルジョンの問いは、時空を超えて、私たちに迫ってきます。リバイバルは、まずこの私自身から始まらなければならないのです。

(ヘブル 4:12) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

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2018年

9月

14日

◆神の約束の真実◆

もし私が、そのお約束の言葉のゆえに神を信じるなら、約束を果たす責任は私のうちにはなく、神にある。神が約束なさったのだ。

 

【解説】 これは言うまでもなく、スポルジョンの“責任逃れ”論法ではありません。これは、約束をしばしばたがえる人間の弱さ、ずるさに対して、ひとたびみ言葉をもって約束なさった神は、必ずそれを守られるという、神の「約束の言葉」への“絶対的信頼宣言”です。聖書の中には、いかに多くの神のお約束があることでしょうか。そのお約束を自分のうちに実現できるかどうかは、このお約束への、あなたの“信頼”と“忍耐”に懸かっているのです。

 

(ヘブル10:23,36) 「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。…あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

If I take God at His word, the responsibility of fulfilling His promise does not lie with me, but with God, who made the promise.

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2018年

8月

27日

◆スポルジョン流 ベストライフへの5つの勧め◆

1.《悪に“選択権”ナシ》 二つの悪から選ぶとしたら、どちらも選ぶな。

Of two evils, choose neither.

 

2.《物があれば幸せか?》 私たちを幸福にするのは、どれだけ多く持っているかではなく、どれだけ多くそれを楽しんだかにあるのだ。It is not how much we have, but how much we enjoy, that makes

happiness.

 

3.《キリスト者の“特命”とは?》 神を偉大なるものとし、己を小さき者とするのは、私たちの特別な“聖務”である。

To make God great and ourselves little is our peculiar occupation.

 

4.《“息抜き”を軽視するなかれ》 “休息(レスト)の時”は、“無駄(ウェイスト)な時”ではない。新たな力を得ることは自然の秩序であり、時々休暇を取ることは知恵なのだ。長い目で見れば、時々手を休めることによって、私たちは、もっと多くのことができよう。

Rest time is not waste time. It is economy to gather fresh strength… It is wisdom to take occasional furlough. In the long run, we shall do more by sometimes doing less.

 

5.《ベストモデルは他人(ひと)にあらず》 他人の振る舞いを、自らの模範にしてはならない。彼らが自分に接するように、こちらも相手にそうすれば十分である。キリスト者にとって、唯一無二の鑑(かがみ)は、“キリスト”ご自身である。

We may not take the conduct of others for our model, and treat them as they treat us; the only pattern for a Christian is Christ.

 

 

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2018年

8月

11日

◆我が望み、信頼、信仰の拠りどころ◆

私の“希望”は、私が罪びとでないからではなく、私が罪びとで、その私のためにキリストが死んでくださったゆえに、生き続ける。

私の“信頼”は、私が聖いということにではなく、聖くないというところにある。神が、私の義だからである。

私の“信仰”は、今の私や未来の私に依っているのではなく、私が何を感じるか、何を知っているかの上にあるのでもない。キリストが私のために何をしてくださったか、今、何をしてくださっているかに基づいているのだ。

ハレルヤ!

 

My hope lives not because I am not a sinner, but because I am a sinner for whom Christ died;

My trust is not that I am holy, but that being unholy. He is my righteousness.

My faith rests not upon what I am or shall be or feel or know, but in what Christ is, in what He has done, and in what He is now doing for me. Hallelujah!

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2018年

7月

18日

◆神の選びの教会◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

―神の選びの教会―

 

神の選びの教会は、

天の寵愛せるもの、

キリストの宝、

その頭(こうべ)にかぶれる冠、

その腕にはめたるブレスレット、

その心に当てたる胸当て、

その愛の真髄にして

彼の最も心を寄せたるものなり。

 

【解説】 この19世紀の偉大なる福音宣教の先達の、“神の教会”への一級の賛辞を日本語にするには、現代文では軽きに失しますので、文語にしてみましたが、いかがでしょうか。

ここで考えなければならないのは、1つは、ひょっとして”神に選ばれない教会”というのはあるのだろうか、という問題ですが、答えは、異端の教会を別にすれば、はっきりと「ノー!」です。全ての教会は、“神の選びの教会”です。なんとなれば、その教会をかたちづくる私たち一人一人が、神の選びと召しにあずかっているからです。

2つ目は、この実に美しい“教会賛歌”は、果たして今の自分の教会に当てはまるのだろうか、という疑問です。“神の教会”と言いながらも、あなたの教会には、全く問題はありませんか? 人間関係は良好ですか? 牧師と信徒の間ではどうですか? 「全て良好です」と言える教会は、おそらく一つもないのではないでしょうか? かく言う私の教会も、牧師と信徒の高齢化、会員減少、新しい受洗者が与えられない…と、問題は山積みです。しかしそのような、多くの問題を抱えた一つ一つの教会に対し、神様は、「我が宝、我が冠、我が最も心を寄せるもの」と呼んでくださるのです。なぜなら、この地上の教会に連なる私たちは欠けだらけの者ですが、この群れは、神のみ子がご自身の命をもって贖われた、“キリストの体”だからです。私たちは、自らのうちに、そして自分が集う教会の中に、様々な“破れ”と“ひずみ”を見るときにこそ、この神様の“選び”の目で、イエス様の“十字架の愛”の目で、見つめ直す必要があるのです。そのときに、不満と裁きの目には見えなかった、この教会に注がれている神様の“あわれみと恵み”のみ手が、はっきりと見えてきます。そしてこの“キリストの体”への新たな献身の思いと、兄弟姉妹への暖かい主に在る愛が、静かに心の深いところから湧き上がってくるのを体験なさるはずです。

 

(エペソ 1:23) 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

The elect church is the favorite of heaven, the treasure of Christ, the crawn of His head, the bracelet of His arm, the breast plate of His heart, the very center and care of His love.

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2018年

6月

06日

◆福音とみ霊に力あり◆

福音をして宣べ伝えさしめよ。み霊をして満たさしめよ。あなたは見るであろう。それが良心を変えさせ、行いを改めさせ、品格を向上させ、邪(よこしま)なる心根を懲らしめ、抑制するのに、どれほど力を持っているかを――。

ああ、かかる私も、地獄から引き出され、裁きから解放された己(おのれ)を見て、どれほど大きな声で賛美すべきであろうか!

 

律法は、自己義認者のため、彼らの誇り高ぶりをへりくだらせるためのものである。

福音は、失われた者のため、彼らの絶望を取り去るためのものである。

 

Let the gospel be preached and the Spirit poured out, and you will see that it has such power to change the conscience, to ameliorate the conduct, to raise the debased, to chastise and to curb the

wickedness of the race.

Oh! how loud ought I to sing, seeing I am out of hell, and delivered from condemnation.

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2018年

5月

18日

◆ネヴァー・セイ・トゥー・レイト(「遅すぎる」と言うなかれ)◆

(1)あなたを待ち続けるのは誰?

誰も、「私は神を待っている」などと言うべきではない。愛兄姉よ、違う、私たち人間の誰が神を待つにもまして、大きなみ手を広げて私たちを待っておられるのは神なのだ。

 

(2)ゆえに“救いの時”にタイムリミットはないのです

人生のどんなに遅い時であろうと、人は回心することができる。その人は、他の誰とも同じように、信じる者への特権と約束を享受できるのだ。自由なる恵みは、惜しみなく与えられ、何人(なんぴと)をも批判することはない。

 

【解説】 神様の定義は、あまたありますが、ここでは躊躇なくこう言いましょう。私たちの神様は、「待ちたもう神」だと。キリスト者の徳の一つである「忍耐」は、実にこの待ちたもう神の忍耐に範をとっています。この真理に目覚めたら、私たちは、「俺は神のお呼びを待ってるんだけど、なかなか来ないんだよ」などとあまのじゃくなことは、決して言えなくなるのではありませんか? 私たちにできることは、欠けだらけの自分を、「私のもとにおいで」と言われる神様の大きなみ手の中に、今、丸ごとお預けすることだけのはずです。

 

そして、神様の忍耐が受け入れてくださる「人生の遅い時」は、実にあなたの今わの際にまで及びます。私たちは、あの十字架上で死の直前に天国に凱旋した強盗の一人と同じです。イエス様はあの時、「お前はどうしてもっと早く私を信じなかった? そうすればお前の悪事はもっと少なくて済んだろう。バカな男だ。お前の悪事がどれほど人の人生を苦しませたか、考えたことがあるか?」などという“批判”は、ひと言もおっしゃいませんでした。「あなたのみ国の座で、(せめて)私を思い出してください」と涙ながらに願った彼に、「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいます」と、“惜しみなき恵み”を、あふれんばかりにお与えくださったのです。

 

これが、「福音」でなくて、なんでしょうか?

 

No man ought to say, I am waiting for God.

No, beloved, it is God who is waiting for us generally, rather than any of us waiting for him.

 

However late in life a man may be converted. He shall enjoy the same privileges and promises as others. Free grace gives freely and does not upbraid.

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2018年

5月

03日

◆キリスト者の完全◆

 クリスチャンにとって必要な2つの種類の“完全”がある。1つはイエスの人格における“義認”の完全であり、もう1つは、聖霊によって、人のうちに働く“聖化”の完全である。

 現在において、堕落は新生した人間の胸のうちにいまだに眠っている。現在において、心は部分的に汚れている。現在において、欲情や悪しき想像心がいまだにある。

 しかしながら、ああ、神が始められた働きが完成を見る日が来ることを知って、私の魂は歓喜する。その時、神は、私の魂を―キリストにおいて完全であるのみか、聖霊においても完全で、しみも傷も、そのたぐいのものも一切ない魂を、お示しになるのだ。

 

【解説】 “キリスト者の完全”ということは、キリスト教教義の中でも大切なものの一つですが、この2つの完全をしっかりと心にとどめておきましょう。1つは、分かりやすく言えば、人が救われて義とされることの完全で、それは瞬間的なものです。もう1つは、救われたキリスト者が、その後の信仰生活でキリストに似た者されていく聖化の完全で、これはやがて栄光の姿に変えられる(栄化)までの長いプロセスを要します。前者が”点”における完全、後者が“線”における完全と言ってもいいでしょう。

 そしてもうひとつ大切なことは、この“完全”は、人間の側の状態にかかわらず、神様が完全なものとしてくださるということです。私たちの救われた証しが、どんなにささやかなものであっても、またたとえその確信や喜びが、ドラマティックなものでなくても、「イエス・キリストは私の主、救い主です」というひと言の言の信仰告白をもって、神様は100パーセント完全に、あなたを“義”(罪なし)と認めてくださるのです。聖化における義認も同様です。スポルジョンが正直に記したように、どんなに長く聖化の道を歩んだとしても、なお私たちの心の奥深くには、肉の思いが潜んでおり、折あれば頭をもたげます。それでも神様は、私たちの聖なる者への歩みを、完全なものとみなし、堕落への道からお守りくださり、その完成の日を迎えさせてくださるです。その”栄化”は、私たちの信仰の始まりの”義認”の時と同じように、一瞬のうちになされます。

 なんというかたじけなさ、なんという神様の哀れみでしょうか。そう、“キリスト者の完全”とは、100パーセント、神様の主権において、なされることなのです。“アメイジング・グレイス 驚くべき恵み”の業として――。

 

There are two kinds of perfection which a Christian needs-one is the perfection of justification in the person of Jesus; and the other is, the perfection of sanctification worked in him by the Holy Spirit. At present corruption still rests even in the breasts of the regenerate. At present the heart is partially impure. At present there are still lusts and evil imaginations. But, Oh! my soul rejoices to know that the day is coming when God shall finish the work which he has begun; and he shall present my soul, not only perfect in Christ, but, perfect in the Spirit, without spot or blemish, or any such thing.

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2018年

4月

13日

◆「十戒」の真の効用◆

「十戒」を読み、その一か条ごとに、自分の罪について思い巡らすのは、時として、自分自身にとって有益であるということが分かる。

なんという罪のリストだ。しかしてそれを繰り返し読むならば、私は何と塵灰(ちりはい)の中にへりくだらされることだろう!

 

十戒 (出エジプト記20:3-17)

1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

2.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

3.あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

5.あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

6.殺してはならない。

7.姦淫してはならない。

8.盗んではならない。

9.あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

10.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

 

I find it sometimes profitable to myself to

read the ten commandments, and to think over my sins against each one of them.

What a list it is, and how it humbles you in the dust to read it over!

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2018年

3月

28日

◆聖霊の力◆

聖霊の力は、あなたの砦であり、このお方の全能の力が全て働いて、あなたを守るのである。あなたの敵は聖霊の全能の力に打ち勝てるのか? そうなら、彼らはあなたを征服できる。彼らは神と格闘し、地に投げ捨てることができると言うのか? それなら彼らは、あなたを征服できるやもしれない。なんとなれば、聖霊の力は、私たちの力だからだ。聖霊の力は、私たちの強き力なのである。

 

【解説】 福音的キリスト教は、聖霊を三位一体の神の一位格と信じます。もちろんスポルジョンも、固くその信仰に立って、聖霊を、異端の教派が説くように、人格(正しくは神格ですが)のない、神から出る“力”のようなものとは考えず、「このお方」(原文はhe“彼”)と呼んでいます。「聖霊の力は我が砦」、なんという力強い言葉でしょうか。それに続く彼の2つの問いは、言うまでもなく反意の答えを期待する修辞用法の問いで、”敵(サタン)は聖霊の力には絶対に打ち勝てず、したがって私たちを自分のものにすることは不可能だ“と宣言しているのです。

 私たち自身は欠けだらけの弱い者です。そして神を信じる者の群れである教会も、ひとたび己の力を誇り、己の力に依って宣教の業をなそうとするとき、それは、よどんだ沈滞を生み出すか、あるいは様々な不協和音が生じ、対立が生まれ、果ては不幸な分裂にまで発展することになります。背後では、サタンが“してやったり”と高笑いをしているのです。全て、肉の力に依り頼み、聖霊の力を封じ込めてしまった結果です。

 「風(聖霊)は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)。

 私たちは、主の前にへりくだって、この力ある聖霊の風に全てを委ねるべきです。今こそこの方に、ご自身の主権を持って、思いのままに、私のうちを、私の愛する教会の中を、吹き巡っていただかなければならないのです。

 

The power of the Holy Spirit is your bulwark, and all his omnipotence defends you. Can your enemies overcome

omnipotence? then they can conquer you. Can they wrestle with Diety, and hurl him to the ground? then they might conquer you. For the power of the Spirit is our power; the power of the Spirit is our might.

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2018年

3月

17日

◆終わりが始まりの時◆

私が“自分自身の終わり”を迎えるとき、私は“キリストの始まり”の場に立つのだ。

 

【解説】 はい、これは臨終のときに初めて真の信仰を知る、という意味ではありません。肉の自分自身に死ぬときです。その時から、キリストがあなたのうちに生きることを始めるのです。その“時”は、人がキリストの十字架のもとに立つときに訪れます。そして私の経験によれば、人は自らの人生の中で、幾たびかそのようなときを迎えます。そのたびに私は、我がうちに真にキリストが始まるように、悔い改めと、自我の磔殺(たくさつ)による生みの苦しみをするのです。十字架は、いつも私が帰るべき、魂の原点です。

 

(ガラテヤ2:20) 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

(ガラテヤ4:19) 「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」

 

When we come to the end of self we come to the beginning of Christ.

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2018年

2月

19日

◆♪楽しき祈りよ 憂きこの世 離れ

(1) 主をよく知ることこそ...もし私たちが、静思の時を持ち、神を黙想することにもっと時間を割くならば、今よりもはるかに良く神に仕えることができると私は思う。(2) それには、夜の時を“夜”は、デボーション(静思の時)を持つには、とりわけふさわしい時間のように思う。その荘重とも言える静けさは、この世の様々な気遣いがもたらす、ひっきりなしの騒音から私たちの心を解き放ってくれる。そして天から私たちを見下ろす星は、あたかも私たちを、神のもとに引き寄せるように、輝くのだ。【解説】 はい、今回も、スポルジョンの2つの言葉をテーマにそって合わせてみました。(1) 私たちが上に立つ人によく仕えるには、教会の牧師先生でも、職場の上司でも、相手をよく知ることですね。相手に関心を持ち、その人がどんな理想を持っていて、私たちにどうあってほしいと考えているのかをよりよく理解できれば、その考え方に沿って、自分の持てるものを全て動員して、その人を喜ばせる奉仕ができます。相手が主の主、王の王であるイエス・キリストであるならば、なおさらのことです。「マスター(主)をよく知らずして、良きサーバント(しもべ)になれると思うなかれ」ですね。私たちが、この世のどんな仕事、いえ、教会のどんなに大切な奉仕にさえもまして、“主と交わる”ことを第一にすべき理由は、そこにあるのです。(2) 朝、それもできるだけ早く静思の時を持てる人は、幸いな人です。そのような人に、神様の祝福が豊かにあることを、私は信じて疑いません。でも、現実は、朝は一日の始まり、あらゆる活動と喧騒の始まりでもあり、目覚めたその時から、“時間”との闘いになってしまいます。これは、スポルジョンの生きた19世紀のイギリスも同じだったようで、現代は、さらに加速度的にその様相を呈しています。――そこで、“夜”なのです! 改めて、“夜のデボーション”の恵みを考えてみなければならないと思います。ただ、現代を精いっぱいに生きている私たちには、夜にも闘わなければならない問題があります。それは“疲れと睡魔”です! 夜のデボーションの時に睡魔に襲われたら、いえ、始める前からすでに睡眠モードに入ってしまったら…、スポルジョンは「星空を見よ」と勧めます! ここには、スポルジョンの意外とも言えるロマンティックな一面がのぞいていて思わず微笑んでしまうのですが、いっとき窓を開けて、夜空を仰ぐのは、確かにいいかもしれませんね。とりわけ冬の冷気は、睡魔を吹き飛ばしてくれます。澄んだ空気の中で一段と輝く星々は、私たちの思いを創造者のもとに引き上げ、このお方に創られ、守られている恵みに浸してくれることでしょう(詩篇8:3,4、19:1)。(解説・聖書引用・訳 小川政弘)I think we might serve God all the better if we had more time for quietude and musing on him.Night appears to be a time peculiarly favourable to devotion. Its solemn stillness helps to free the mind from that perpetual din which the cares of the world will bring around it; and the stars looking down from heaven upon us shine as if they would attract us up to God.

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2018年

1月

30日

◆知識か? 聖書の言葉か?◆

もし“知識”が祝福なら、悪魔は天にいるであろう。

私は、クリスチャンの大いなる誤りは、彼らが聖書を十分に探究しないことであると信じる。

 

【解説】 今回もまた、彼の2つの文章の抜粋ですが、人間の知識は、決して祝福ではないのですね。いにしえ、天使の一人は、神様のように賢くなろうとして、天を追われ、悪魔に堕落したのです。天では、己の知識を誇るものは一人も入る余地がありません。ところが、私たちは、ともすれば、信仰の道を究めようとして、いろいろな神学書を読みあさります。私の書棚にも、この半世紀で買いためた2000冊を下らない神学書が並べてありますが、それで神に関する知識は増えても、肝心かなめの聖書を、それに勝る情熱と飢え渇きを持って読んでいるかというと、忸怩(じくじ)たるものがあります。私たちは、絶えず聖書から、神様への信仰と、魂への愛を呼び覚ましていただかなければならないのです。私に、日々新たに神を見いだす喜びと、滅びゆく愛する魂への燃えるような救霊の熱情が失われているとすれば、「聖書第一」の姿勢が失われた当然の結果と言わなければなりません。このスポルジョンの言葉は、その意味で、まず私に向けられています。

 

(Ⅰコリント8:1) 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

 

If knowledge were bliss the devil would

be in heaven.

I believe the great fault of Christians

is that they do not search the Scriptures enough.

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2018年

1月

13日

◆ローマも教会も一日にしてならず◆

私たちは、“救霊”は、教会員名簿により多くの名前を性急に加えていくことによって成し遂げられるとは考えていない。

 

”ローマは一日にして成らず”、地域教会も一週にしては成らないのだ。人は、誰もが福音を初めて聞いて、その全てを受け入れるわけではない。イエスのために魂に食い入ることは、薪(まき)を割るのにどこか似ている。そのために私たちは、くさびを使う必要があるが、その一端は極めて細身で小さくはあっても、打ち込まれるほどに、その裂け目は大きくなっていくのである。

 

新しい回心者は、教会の“血管”に、新鮮な血潮を流し込んでくれる。

 

【解説】 これは、出典の異なるスポルジョンの3つの救霊論文からの抜粋ですが、”救霊”の業の労苦と喜びを、“くさび”と”血管”という巧みな例えを使って、実に的確に描いていると思いませんか? そして編訳しながら私が改めて心を探られたのは、私たちは、最初の部分の、いたずらにクリスチャンを“粗製乱造”して、名簿に教会員数が増えていくことに満足するか、あるいは最後の部分のように、かつて新しい信仰者の救われた喜びの証しを涙して聴き、彼らが主のためにいきいきと奉仕する様を心から感謝した日の記憶をいつの間にか忘れているかの、どちらかではないのか、ということでした。“救霊”と教会員数の増加は、本質的に似て非なるもの、後者は前者からの結果であって、断じて教会の目指す目的ではないのです。また、日本の教会に今一番必要なのは、一人の魂が救われたときの群れを挙げての喜びを取り戻すことです。そのために何よりも大切なのは、忍耐を持って、今与えられている求道者の人たち、祈りに覚えている友や家族の心に、“み言葉”のくさびを、忍耐を持って打ち込み続けることではないでしょうか?

 

We do not consider soul winning to be accomplished by hurriedly inscribing more names upon our church-roll.

Rome was not built in a day, nor will a parish be saved in a week. Men do not always receive all the gospel the first time they hear it. To break hearts for Jesus is something like splitting wood: we need to work with wedges that are very small at one end, but increase in size as they are driven in.

The new converts put fresh blood into the veins of the church.

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2017年

12月

27日

◆詩篇23篇に寄せて◆

「私は全てのものを持っていて、満ちあふれている。」

それは、私が銀行に多額の金を預けているからではなく、

日ごとの糧を得るための技術や才覚を身に着けているからでもない。

「主が私の牧者である」からなのだ。

 

【解説】 これは、詩篇23篇の中でも、冒頭の1節に寄せたものです。カッコにくくった部分を、倒置して読めば容易に分かりますね。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」(口語訳)

 そのうち冒頭のカッコの部分は、ピリピ人への手紙4:18をも踏まえています。

「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」(新改訳)

 またこの詩篇は、私たちの良き牧者、イエス様の言葉も思い起こさせますね。

(ヨハネ10:11) 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 ここで、“説教者のプリンス”と呼ばれたスポルジョンの目は、この1節の前後の関わりの大切さを見逃しません。「主は牧者であって、私は満ちあふれている。」―この前節、後節は、決して単なる並列ではなく、前者あっての後者であり、この前者は「主が牧者であるゆえに」という、後者の根拠を示しています。すなわち、私たちの満ちあふれて余りある一切の祝福の源を、「私の羊飼いであられる主」に置くべきことを、私たちに教えているのです。

 余談ですが、詩篇23篇には思い出があります。妻は十代の若い頃、病院伝道でイエス様に出会ったのですが、導いてくれた先生から詩篇23篇を教えてもらい、このみ言葉を口ずさんで、結核による肺切除の苦しみを耐えたといいます。結婚してからも、これは二人の愛唱詩篇となりました。やがて妻の母が、妻の導きによってイエス様を信じました。家庭礼拝では、もう80を過ぎた母に、一節一節繰り返して暗唱させ(“八十の手習い”ならぬ“聖句暗唱”は大変だったでしょうが!)、とうとう全節をそらで言えるようになりました。晩年は認知症になり、妻以外は、他の子供たちの顔も分からないほどでしたが、最期まで、詩篇23篇は口を突いて出たそうです。

   我がために命を捨てし君ゆえに 

         乏しきことの絶えてなかりき

   満ち足りて感謝のうちに今あるは 

         ただに主は我が牧者なりせば

 あなたも、詩篇23篇を、いま一度読み返してみませんか?

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2017年

12月

16日

◆”服従”への神の評価◆

1)半端な服従は、完璧な不服従である。

2)もし私たちが神の命令どおりに事を行って、成功したように見えないとしても、私たちの落ち度ではない。私たちが“服従”においては失敗しなかった限り、“失敗”それ自体は、“成功”と言えるからだ。

 

【解説】 改めて、”服従”に対する人間の規準と神の規準の違いを考えさせられますね。

1)において際立つのは、人間の規準の甘さと、神の規準の厳しさです。私たちは、ともすると「できるところまでは従ったんだから」と、神への服従に自分で限界を許容しようとしますが、神様はきっぱりと、「それは不服従と全く同じだ」と言われるのです。原文を“%”入りで訳すと、「50%の服従は、100%の不服従である」ということです。

2)においては、神様が問われるのは、どんな場合でも、「あなたは私の戒めに本当に従いましたか?」ということだけ。結果については一切問われないということです。結果が大成功であろうが、惨めに失敗しようが、神様には全く同じ、意に介されないのです。神様の目は、「たとえどんな結果になろうとも、神の言われるとおりにしよう」という私たちの心の“意志”にだけ注がれます。その結果、失敗したとしても、神様は言われるのです。「よくやった。あなたの、この世的な”失敗”は、私に従ったという一点において、この天においては“成功”なのだ」と――。

 

1) Half obedience is whole disobedience.

2) If we do as God commands, and do not seem to succeed, it is no fault of ours. Failure itself would be success as long as we did not fail to obey.

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2017年

12月

04日

◆楽しみは”数”によらず◆

私たちを幸せにするのは、

どれほど多くを持っているかではなく、

どれほど楽しんでいるかによるのだ。

 

It is not how much we have, but how much we

enjoy, that makes happiness.

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2017年

11月

23日

◆本に宿れ、されど聖書に住め◆

【解説】

今日は、珍しくもイラストでお送りします。(スポルジョンがこの漫画を描いた…わけではありません。)

本(神学書も含みます)と聖書の決定的な違いを、ホテルなどに短期間「滞在する

visit」のと、生涯「住む live」ことの違いに例えたところに、彼のイギリス流ウィットが感じられますが、それを巧みに生かしたこのイラストも秀逸ですね。拡大して見てみてください。住んでいるのはまさに「聖書の館(やかた)」で、温かい暖炉のあるリビングの壁は「イザヤ書45章」、その部屋にしっかり収まって目を通して(visitの別訳)いるのは普通の本、その人物は、もちろんこの館の主(あるじ)スポルジョンです。ちなみに、この45章の22節は、彼が劇的な回心に導かれたみ言葉です。

 

(イザヤ 45:22) 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

 

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2017年

11月

13日

◆争い: 大いなる自己矛盾◆

“争う羊”なるものは、理解しがたい生き物である。

同様に、“争うキリスト者”なるものは、誰の目にも自明な“矛盾”である。

 

【解説】 スポルジョンの“争う羊”の例えは、言い得て妙です。羊は、あらゆる動物の中で、最も“争い”とは無縁の生き物と言われていますので。私たちクリスチャンも、本来、イエス様の十字架を仰いで救われた瞬間から、この“争い”とは最も無縁の存在にされた者でした。けれども現実には、多くの争いがあります。教会の中に、教団・教派の中に、そして歴史は、“争い”が“戦い”になり(原文のfightはいずれにも訳せます)、信仰の名のもとに多くの血を流した事実を示しています。そんなとき、私たちは争うことによって、“平和の君”なるイエス様を、この身をもって証しすべきこの世の人々に、言葉以上の雄弁さでこう叫んでいるのです。「このとおり、私は矛盾した存在です。こうして人と争って、主イエスが私のために流してくださった貴い血潮を無益にしている者です。どうぞ、決してクリスチャンにはならないでください」と! 

あらゆる「争い」は、私たちの中の“肉”が、己の正しさを相手に認めさせようとしてなせる業です。柔和なキリストのみ霊が、私の魂の深いところを支配していないのです。完全に明け渡していないのです。そして、み言葉の権威への服従が、不徹底なのです。聖書は、始めから終わりまで、“神との平和、人との平和“を説いています。今、静まって、その中から、次のみ言葉を読み、み前に祈りの時を持ちませんか?――

(マタイ 5:9) 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

(エペソ 2:14-16) 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

(Ⅱテモテ 2:24,25) 「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。」

(ローマ 12:18) 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

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2017年

11月

03日

◆ハレルヤ 死の恐れなし◆

“死の死”を死なれたお方を見つめ、頼る他に、本当に死の恐れから解き放てるものはない。

 

【解説】 「“死の死”を死なれたお方」。すみませんが、ちょっと分かりにくいでしょう? 原文を生かしつつ、なんとか日本語にしようと思ったら、これで精いっぱい。原文を直訳すると、「その死が“死の死”であられたお方」となります! “死の死”とは、動詞形にして「死に対して死んだ」「死を死なせた」と考えれば、少しは分かりやすくなりますね。そうです、イエス・キリストが、罪の究極の結果である“死”に対して、ご自身のあの十字架の身代わりの死によって、勝利を収められたことを指しているのです。死は一人の例外もなく、誰にも訪れますが、このお方に在って、私たちはすでに死の恐れから解き放たれているのです。パウロの勝利の叫びを、あらためて感謝のうちに聞きましょう。そして、この平安を、愛する人にも知っていただけるよう、“全力を注いで”(口語訳)証しの業に励みましょう。

 

(Ⅰコリント15:54-58)「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 

"There is no true deliverance from the

fear of death except by looking to him whose death is the death of death."

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2017年

10月

23日

◆墓のかなたの喜び◆

私たちは、一人また一人と、“死”による別れを嘆き悲しんできた。

だが私たちは、もはや墓場の存在しない、永遠の地へ行こうとしているのだ。

 

【解説】 私自身も、17年前に母を、15年前に義母(妻の母)を、7年前に義弟(妻の妹の夫)を、そして2年前に義兄(妻の兄)を亡くしました。それぞれに、生前良き交わりを頂き、かけがえのない家族でした。あなたにも、愛する人を亡くされた悲しみの記憶がきっとおありだと思います。しかもその記憶は、決してとどまることがなく、一つ、また一つと増えていき、やがて自分も、残された人の記憶の中に入る日が確実に訪れるのです。それが人の世のならいです。でも、主イエス・キリストを信じる者は、この地上の命を終えても、たちどころに“永遠の地”へ移されるのです。(“墓場の存在しない地”というスポルジョンの描写が新鮮で心に迫ります。)私たちは、かの地で、永遠に主と共に、主を賛美しつつ生きられるだけでなく、主にある人々と再び相まみえることができます。冷たい死の墓の向こうには、大いなる喜びが待っているのです。この希望の中に、愛する人を、一人でも多くくわえることができるように、今日もこの人のために、あの人のために、主にとりなしをせねばと祈らされます。

 

(ヨハネの黙示録21:3,4) 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

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2017年

10月

13日

◆存在権のない教会◆

もし教会が...
異教徒や無神論者を教え導き、
悪と戦い、
誤りを打ち砕き、
偽りを“こき下ろす”ためにあるのでなく、
貧しき人々の側に立ち、
不法を糾弾し、
神の義を高く掲げるためにあるのでなければ、
その教会は“存在する権利”を持たない。
(訳 小川政弘)
A church that does not exist to reclaim heathenism, to fight with evil, to destroy error, to put down falsehood, a church that does not exist to take the side of the poor, to denounce injustice and to hold up righteousness, is a church that has no right to be.

 

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2017年

9月

28日

◆キリスト教の二つの衣◆

“慈愛“と“清廉”は、キリスト教の二つの衣である。

 

《ソフト現代訳》

“思いやり”と“清さ”は、クリスチャンの着る二着の衣服です。

 

【ひとこと】 原文では、この2つの語、charityチャリティーと purityピュリティーで韻を踏んでいます。

 

Charity and purity are the two garments of Christianity.

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2017年

9月

18日

◆♬私は小さい灯 光りましょう◆

あなたは、自分の明かりは小さいと思うかもしれない。

だがそれは、他の人々の人生の中で、

実に大きな違いをもたらすことができるのだ。

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2017年

9月

06日

◆あなたの心の王座に座るのは?◆

“罪”は、絶対的な“恵み”が引きずり降ろすまでは、

心の王座に君臨するのだ。

 

Sin is sovereign until sovereign grace dethrones it.

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2017年

8月

27日

◆救われるべき友のために泣いていますか?◆

主イエス・キリストは、エルサレムのために泣かれた。だからあなたもまた、あなたを通して救われるべき罪びとのために泣かなければならない。

愛する同信の友よ、真剣であれ。その救いの業に、あなたの魂の全てを注ぎだせ。それができなければ身を引くことだ。

 

(マタイ23:37,38)

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」

(ルカ 19:41,42)

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。』」

 

The Lord Jesus Christ wept over Jerusalem, and you will have to weep

over sinners if they are to be saved through you. Dear brethren, do be earnest,

put your whole soul into the work, or else give it up.

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2017年

8月

14日

◆天国に入れないクリスチャン?◆

“いっときクリスチャン”はクリスチャンではない。

信じ続けるまことの“信仰者”だけが、天国に入るのだ。

 

Temporary Christians are no Christians: only the believer who continues

to believe will enter heaven.

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2017年

8月

07日

◆”驚くべき恵み”も砂に書いたら◆

私たちは、あまりに多く、

“試練”は大理石に刻み付け、

“恵み”は砂の上に書き付けてしまいがちである。

 

【解説】 この性質は、そもそも、神の創造の恵みを忘れて、唯我独尊の道を選び取った人間の“原罪”以来、人の心に文字どおり刻み付けられた“負のDNP”ですね。以来人間は、どんな小さなことでも、他人から受けた被害は言葉でも行為でも決して忘れず、心の中にしかと刻み付け、増殖させ、復讐心を燃やし、過剰な報復をしてきました。人間関係の様々な軋轢、争い、傷害、殺人、戦争…全てはその結果です。また試みによって受けた心の傷は、いつまでも、時には永遠に続くかと思うほど心の奥深くにとどまり続け、どうにかしてそこから脱出して、新しい道に踏み出そうとしても、すぐに引き戻されてしまうのです。

一方で、受けた恵みを忘れることの驚くべき速さはどうでしょう。そもそも恵みを恵みとして感じる心の琴線が、この自我自尊の罪のゆえにかなりほこりがたまって鈍くなっているので、ほんのいっとき感謝に揺れても、すぐにその振動は止まってしまい、本来はいつまでも奏で続ける美しい余韻の響きは、ものの三日と持ちません。その時はどんなに大きな字で”感謝””ありがとう”と書き付けても、それが砂では、風や波で、たちどころにかき消されてしまうのです。

神様のみ力によって、大理石に刻み付け、砂に書き付ける内容を、完全に変換しなければなりません、“恵みは心の大理石に、試練は砂に”――。今からでも遅くはないのです。あなたの残された人生、このパラダイムシフト(劇的な思想転換)によって、どれだけ神様の祝福に満ちたものになるでしょうか。これができる力は、私たちの内にはありません。あの十字架の主を―ご自分を苦しめた人の赦しを願い、そのお姿を真下から見上げたヨハネに「ここに愛がある」と言わしめた、あのお方をただ仰ぐ以外には――。

 

(詩篇 119:71)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

(詩篇 103:2)

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

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2017年

7月

29日

◆死は懲罰か? 喜びか?◆

信仰者にとって、死は懲罰ではない。

それは、終わりなき喜びに入る門口なのだ。

 

(ピリ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

【解説】 先日、日野原重明先生が105歳の天寿を全うして、天国に凱旋されましたが、多くの天使たちに守られて、この“喜びの門口”を入っていかれたことでしょう。故古山洋右先生は、「死は天国への待合室」と言われ、末期がんの苦しみの中でも、感謝と喜びと賛美に包まれて、天に帰っていかれたそうです。私事ながら、私の母が召天してもう17年になりますが、その葬儀に来てくれた会社の女性の一人は、クリスチャンではなかったのですが、「こんな葬儀なら私もしてもらいたい」と言っていました。

クリスチャンにとって、なぜ死は裁きではないのでしょうか? それは生前善行を積んだからではありません。自らの自己中心と不信仰の罪を認め、イエス・キリストの身代わりの死と復活を信じて、罪を赦されたからです。信じない者にとっての、究極の裁きである“死”の縄目から解放されたからです。なぜ“終わりなき喜びへの門口”なのでしょうか? 主イエス・キリストと共なる永遠の命の世界に入れられるからです。愛する人と再会し、もはや死も悲しみも叫びもない世界で、永遠に主を賛美することができるからです(ヨハネの黙示録21:4)。この確信を持って、私たちは、この喜びの門口をいつでもくぐれるように、死と隣り合わせの人生を、天を仰いで生きてまいりましょう。

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2017年

7月

17日

◆福音はトーンダウンされていないか?◆

我が愛する友よ、

福音を、肉なる者(世的な人間)の心に心地よいものにしようとするなかれ。

十字架の真髄が失われぬよう、その”つまずき“を隠そうとするなかれ。

福音の片隅や人目に付かぬところこそ、その力。

そこを削り落とすことは、その力を奪い去ることだ。

福音のトーンを和らげるのは、十字架の力を増すのではなく、

その力をを殺すことなのだ。

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2017年

7月

04日

◆地上最期の慰め◆

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:34)

これは、死にゆく全ての聖徒への、キリストのささやきである。

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2017年

6月

25日

◆イエスのみ手の中で祈る◆

私たちの祈りや努力は、

私たちの心を正しく変えてくださるイエスのみ手を離れては、

天国に入るにふさわしい者とはしてくれない。

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2017年

6月

16日

◆守るべきは主のみ名か? 己が名声か?◆

私たちは、自分自身や自分の評判を守ることに必死である。

そしてしばしば、自分は“自己保身”こそ自然の最高の掟であると考えているかのように、行動するのだ。

 

We are keen to guard ourselves and our reputations, and often act as if we thought self-preservation the highest law of nature.

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2017年

6月

06日

◆厳粛な警告◆

“十字架”を無視してみよ。

あなたはイエスへの信仰を抹殺したことになるのだ。

 

 

Leave out the cross, and you have killed the religion of Jesus.

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2017年

5月

29日

◆祈りがライフラインなわけ◆

神からの逸脱は、十中八九じっちゅうはっく、神への個人的な祈りをないがしろにすることから起こるのだ。

 

Nine times out of ten, declension from God begins in the neglect of private prayer.

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2017年

5月

18日

◆サタンは忍者のごとし◆

私たちは、どんな時でもサタンを警戒していなければならない。なぜなら、あたかも泥棒のように、彼は近づくそぶりも見せないからだ。

 

【解説】 これにひと言、続けておきましょうか。「そして現れるときは、決まって“善人”を装うのだ。」 こちらも、頭から人を疑ってはいけませんが、サタンは、背後にあって善人をも用いることがあるから恐ろしいのです。ですから私たちも、鳩のように素直であると共に、蛇のように賢くなければなりません(マタイ10:16)。

 

(Ⅱコリント 11:14) 「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」

 

We must always be on our watch against Satan, because, like a thief, he gives no intimation of his approach.

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2017年

5月

04日

◆あなたの冠は、イバラか? ダイヤか?

主がイバラの冠を見いだされたところに、栄誉ある王冠を探す気など、私たちにはさらさらない。

【解説】 原文では、この2つの冠を、スポルジョンは注意深く使い分けています。「イバラの冠」と訳したcoronetは、王子や貴族のかぶる小さな冠、あるいは女性の冠状の頭飾りです。それに対し「栄誉ある王冠」と訳したcrownは、絶対的権威の象徴として、文字どおり王のかぶる王冠・宝冠です。

 栄光の天を離れて地上に来られ、人の自由と人間性を奪う地上の権力と権威とに立ち向かい、病める者、悲しみ悩む者、虐げられた者の友となられた神のみ子が、最後にかぶらされたイバラの冠は、頭皮に食い込み血が頬を伝う肉体の痛みと共に、恥辱と侮蔑と嘲笑の中に神のみ子としての己の尊厳を踏みにじられる霊の苦痛を伴うものでした。それは、私たち全ての人間が己の罪のゆえに味わうべき痛みを進んで負われた、主の“謙卑”のシンボルだったのです。その愛のゆえに救われ、生かされている私ちは、このイバラの冠(信仰のゆえに味わう試練や、苦しみ)を、今度は主に代わり、進んでかぶらなければならないのですが、現実にはどうでしょうか? 知らず知らずのうちに、地位・名声・財・学識・権力・権威などのこの世の“宝石”のちりばめられた、輝かしい王冠をひそかに求めてはいないでしょうか? 

 私たちの冠は、心の奥深くでかぶるものです。ですから一人一人、十字架の主のみ前に静まって、心の奥深くに、こう問わなければなりません。“私の冠は、主がかぶられたのと同じ、イバラの冠か? それとも、誇らしげにかぶる誉れの王冠か?”と――。

 

(ピリピ 2:6-8)「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 

Far be it from us to seek a crown of honour where our Lord found acoronet of thorn.

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2017年

4月

27日

◆”ほとんど救われた”ではダメなのです◆

”ほとんど救われている”というのは、要するに“失われている”のと同じことだ。

地獄には、かつて“ほとんど救われた”が、今は全く呪われている人々が大勢いる。

 

【解説】 “何とか救われてほしい”という思いが先走って、相手が少しでも“信じた気配”が見えると、それをもって安心して導きの手を緩めてしまう。それが、”ほとんど救われた”人、そしていつの間にか信仰から離れていく人を大量につくり出している原因だとスポルジョンは言います。すなわち救霊の“詰め”が甘いのです。魂を信仰に導くとき、私たちは;

① まずその人が自分の口で、はっきりと「私はイエス・キリストを私の救い主、主として信じ、受け入れます」という信仰告白をすることができるようにしてあげなければなりません。ただし、それを“強要”してはいけません。忍耐をもって、“神様の時”を待つべきです。

② そして、その後の信仰生活の基本である、聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、証しをすること、喜んで献金をすること、などをしっかり教えなければなりません。“鉄”は熱いうちにしっかり打ち鍛えないと、弱さともろさを抱えたまま、すぐに冷えていきます。

これは、牧師の責任であり、私たち先に救われた者の責任なのです。

 

(ローマ10:9,10)

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ12:11,12)

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 

Almost saved is altogether lost. There are many in hell, who once were

almost saved, but who are now altogether damned.

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2017年

4月

21日

◆目を上げて、とにかく彼を見るのです!◆

私たちは罪に満ちている。

だが救い主は、何としてもご自身を見上げるようにと、

私たちを促しておられるのだ。

 

We are full of sin, but the Savior bids us lift our eyes to Him.

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2017年

4月

12日

◆祈りに勝る親切なし◆

◆祈りの家◆

―祈りに勝る親切なし―

 

私のために祈ってくださるほど、より頼りになる親切のできる人は、この世にいません。

~チャールズ・スポルジョン~

 

【訳者ひとこと】 これはスポルジョンだけではありません。訳者の私にとってもそうです。かのパウロでさえ、「私のために祈ってほしい」と、聖書の中で7回も懇願しているのですから。エネルギッシュの化身のようだった彼も、同労者の祈りなしには、何ほどのこともできなかったのです。「小さな親切 大きなお世話」ということわざを耳にするたび、私は“人の親切を何で素直に受け入れられないのか”と、日本人のあまりの遠慮深さと、気位の高さと、許容力のなさを嘆く者ですが、こと祈りに関しては、「小さな祈り 大きな親切」と声を大にして言いたいですね。

 

①「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ロマ 15:30)

②「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」(エペソ 6:19)

③「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」(エペソ 6:20)

④「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください」(コロサイ4: 3)

⑤「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように祈ってください。」(コロサイ4: 4)

⑥「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」(Ⅰテサロニケ 5:25)

⑦「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。」(Ⅱテサロニケ 3: 1)

 

“No man can do me a truer kindness in this world than to pray for me.”

—Charles Spurgeon

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2017年

4月

11日

◆賛美で天を汚すなかれ◆

心のこもらない賛美は、天への侮辱である。

 

【解説】いつもながら、歯に衣(きぬ)を着せぬスポルジョンの鋭い言葉です。“天”はみ使いたちと神にあがなわれた人々の賛美に満ちあふれたところです(ヨハネの黙示録4:8-11、5:11-14他)。そこにおいてみ座に着いておられ、賛美を受けられるお方はイエス・キリスト。そしてその地上のみ体である教会においてささげられる賛美は、ストレートに天に届いているのです。教会の特質は、賛美において端的に表れると言います。けだるい、力のない、“心ここにあらず”のような賛美しかささげられない教会で、魂が次々に救われるということはまずありません。反対に、説教は多少つたなくとも、福音がまっすぐに語られ、心の底から喜びにあふれてくるような、力強い賛美がささげられる教会では、救われる方が不思議なほど次々に起こります。その人々は、賛美を通して、その対象であるお方の“命”に触れるからです。もうだいぶ前に、今は故郷に帰られたある姉妹から、「小川さんの賛美を聞いていると、神様を感じます」と言われたことがあります。今までに聞いた、何よりもうれしい言葉でした。
あなたの賛美はいかがですか? ゆめゆめ、心ならずも天の主のみ名を辱めることのないよう、「主よ、賛美の霊を与えてください」と日々祈る者でありたいですね。

 

(コロサイ 3:16) 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 

Heartless hymns are insults to heaven.

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2017年

3月

08日

◆もしや、あなたの王座にいるのは”Sin王”では?

”罪”は、“恵み”なる主権者によって追放されるまでは、あなたの心の王座に君臨するのだ。

【解説】久々のスポルジョンです。上記で、”主権者”、”君臨する”と訳した語は、いずれもsovereignソヴァレインという語です。前者の名詞形、後者の動詞形、いずれにも訳される語ですが、ここにも一流の文筆家でもあった彼の修辞の冴えが見られます。名詞形では、“主権者”の他に”君主、王、支配者”とも訳されますが、スポルジョンがここで言っているポイントは次のことです。
① あなたの心の王座に君臨するのは、Sin(罪)王か、それともGrace(恵み)王か? という問いに、私たちは、静まって答えなければなりません。今だけでなく、日ごとの静思の時の中で――。
② “罪”の反対語は何か? いろいろに考えられますが、事、あなたのクリスチャン生活の祝福のカギという点から考えるなら、それは“義”でもなければ“善行”でもない。“恵み”なのだということです。これなしに、信仰生活は成り立ちません。もしそれを実行しようとするなら、厳しい律法主義の下で、絶えず罪意識におびえながら、命のない生き方を自らに課すしかありません。端的に言うなら、人は、”罪”に生きるか、”恵み”に生きるか、この二者択一しかないのです。
 ③ したがって、私たちは、その正しい選択を、日ごとに求められています。“罪”が君臨する中でその奴隷として惨めな屈従の生き方をするか、圧倒的な“恵み”に満たされて、喜びと感謝の生き方をするか――。その勝利のカギは、自分の力で罪と戦うのではなく(そこには敗北が待つだけです!)、“恵み”の王キリストを、あなたの王座にしっかりと据え直すことです。そして、この“恵み”王のあふれる力で、罪を駆逐していただくのです。王座から引きずり降ろして(原語 dethroneの直訳)いただくのです!
この世の様々な誘惑の中で、サタンをバックにした強力な罪の支配を脱する道は、これ以外にないことを心に刻み込みましょう。

 

Sin is sovereign until sovereign grace dethrones it.

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2017年

1月

21日

◆聖書: ”祈り”の最大の宝庫―

聖書のいかに多くの部分が、”祈り”というテーマで占められているか。――与えられた、私たちに必要な祈りの例、守るべき祈りの教訓や指針、そして明らかに宣べられた祝福の約束などについて考えてみるのは、興味深いことである。

 

It is interesting to consider how large a portion of the Bible is occupied with the subject of prayer, either in furnishing examples, enforcing precepts, or pronouncing promises.

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2017年

1月

19日

◆悲しみよりも力ある主をたたえて◆

私たち、召し出され、信ずる者とされ、選ばれた者たちは、自らの深い悲しみは遠くに追いやり、神のみ名によって、“信頼の旗”を打ち立てよう。余人には、彼らの問題を悲しませるがよい。私たちは、喜びをもって、主の大いなるみ力を褒めたたえるのだ。

 

We, the called and faithful and chosen, will drive away our griefs and set up our banners of confidence in the name of God. Let others lament over their troubles; we with joy will magnify the Lord.

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2017年

1月

18日

◆冒涜とは、神の恵みを無にすること◆

神は、この邪悪な世に対して、救い主を送らねばならない義務などなかった。だが、驚くべき恵み(アメイジング・グレイス)によって、彼はただ一人の愛するみ子をお与えくださったのだ。
この神のたまものを拒むことは、最大の“涜神罪”(神を冒涜する罪)に当たる。

 

God did not owe this wicked world a Saviour. But in amazing grace, He gave His only begotten Son. Rejecting His gift is the highest blasphemy

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2017年

1月

17日

◆今日も、漂うのですか?◆

私たちは、“永遠”という名の大海原に近づいていく”時”という名の川に沿って、漂っているのだ。

 

【解説】 スポルジョンには珍しい、何やら哲学的瞑想にいざなう一節ですね。仏教の時の概念が”円”(輪廻)であるならば、キリスト教のそれは“線”です。しかもそれは不可逆線で、決して引き返すことができません。まっすぐに終末と永遠の世界に向かって延びているのです。スポルジョンは、この線を川に例え、永遠の世界を大洋に例えました。多くの人々は、自分の乗った船がどこに行くかも知らないまま、日々漂っています。目的地を持たない人生は“漂流人生”です。いつしか流れの中で朽ち果てるか、やっとたどり着いた先は永遠の滅びです。友よ、大洋の深みに向かってこぎ出すのです! 人生の川は時には大揺れに揺れます。でも、しっかりと舵を定めた船は、もはや漂うことなく、着実に前に向かって進んでいくのです。はるかな、しかし信じる者には確かに待っている、主と共なる永遠の大海原を目指して!

 

We are drifted along the river of time nearer to the ocean of eternity.

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2017年

1月

16日

◆”生きる”備えはできていますか?◆

“死”に備えるということは、“生”に備えるということである。“永遠”に対して備えるということが、本当に意味するところは、今の“時”に備えができているということなのだ。

 

(ピリピ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

To be prepared to die is to be prepared to live; to be ready for eternity is in the best sense to be ready for time.

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2017年

1月

09日

◆恐るべき逆転◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆
Charles Spurgeon - The Prince of Preachers
―悲しむべき逆転―

私が子供の頃は、「人の主な目的は、神を褒めたたえ、永遠に神を喜ぶことである」と学んだものだ。だが、現代では、新神学なるものによればこうなのだ。「神の主な目的は、人間を褒めたたえ、彼を永遠に喜ぶことである」。しかしながらこれは、物事を逆さまにするものだ。

【解説】 スポルジョンが子供の頃に学んだもの、そして私たちクリスチャンが、現代でも依って立つキリスト教信仰の揺るぎない基盤は、あなたもよくご存じの「ウェストミンスター小教理問答」の第1問ですね。それを覆したのが、ドイツに始まり、全世界の福音主義神学の”神第一”の信仰に悪しき影響を与えた、“人間の理性第一”の自由主義神学でした。スポルジョンは、その考え方の誤りを、このように痛烈な皮肉をもって、厳しく正しています。しかしこれは、神学の世界のことだけではないのです。人類は今、本来は神を褒めたたえるために与えられた知能を目まぐるしい速さで進化させて、神の領域にどんどん踏み込もうとしています。最も危険な隣国北朝鮮の、核開発による世界平和への挑戦、生命倫理の一線を踏み越えて、人間が、思いのままの生命を創り出そうとしている医学界の現実――。人が、創造者を畏れることを忘れ、己に栄光を帰し始めるとき、それは神の裁きによる人類滅亡への始まりとなります。この信仰の先達の警告を、私たちキリスト者は引き継いで発し続けなければなりません。遅すぎないうちに――。

 

I learned, when I was a boy, that the chief end of man was to glorify God and enjoy him forever; but I hear now, according to the new theology, that the chief end of God is to glorify man and enjoy him forever. Yet this is the turning of things upside down.

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2017年

1月

07日

◆時がよくても悪くても…◆

もし収穫のない季節が訪れたら、種蒔きはやめにせずばなるまい、などということを想像してはならない。
私たちの仕事は、“行動”することであって、“結果”を見ることではないのだ。

 

We are not to imagine that if unfruitful seasons come, we are therefore to cease from sowing our seed. Our business is with act, not result.

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2017年

1月

06日

◆私が”選びの教理”を信じるワケ◆

私は“選び”の教理を信じる。なんとなれば、もし神が私を選んでくださらなければ、私が神を選ぶことは絶対なかったことを、心から確信しているからである。

 

【解説】 はい、この2行の文章に、身びいきでもなんでもなく、「さすがスポルジョン!」と私はうなりました。なぜなら、「選び」というキリスト教の奥義中の奥義は、詳しく説明しようと思ったら、このテーマで本を書けるほどのもので、それでも完璧に説明し尽くすことのできない神秘なのですが、それを彼は、幼子のような単純さをもって、このように言い放ったからです。これは“神の選びと人の信仰”の表裏一体性を、聖書の中から正しく、深く組みだした彼にして言い得る“信仰告白”とも言えるでしょう。

 

(ヨハネ 15:16) 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

(エペソ 2:8,9) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

I believe the doctrine of election, because I am quite sure that if God had not chosen me I should never have chosen Him.

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2017年

1月

05日

◆新年に気をつけたい2つの徴候◆

聖霊なる神が人に自分自身を見せてくださるときは、ひそかに高く評価していた自分自身にほとほと嫌気がさすものだ。

 

私たちの“祈りの膝”が弱くなるときは、あなたが“全人的”に弱くなっているしるしである。

 

【解説】 “警告者”スポルジョンの毒舌…ならぬ鋭舌はなおも続きます。この徴候、前者は「潜在性自己過大評価症」、後者は「霊的膝関節症」と申しまして、そのままにしておきますと、私たちの信仰生活に重大な支障を来します。両者に共通しているのは、内なるみ霊のご支配の不十分さ、あるいはさらに進行すると欠如です。それに代わって、この世の様々な思い煩いや、外面的な成功による自己過信が、いつしか私たちの心の領域を大きく占めるようになっていくのです。最も効果的な治療法は、ズバリ“祈る”ことしかありません。示された罪は悔い改め、生活全般の中に、そしてあなたの心の王座に、聖霊なる神様のご支配領域をしかと定め直すことです。

 

(詩篇139:23,24) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

When God the Holy Ghost gives a man a view of himself, he is utterly loathsome in his own esteem.
When we grow weak on our knees it is a sign of weakness throughout the entire man.

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2017年

1月

04日

◆主のいますところ、敵もまたあり◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆
Charles Spurgeon - The Prince of Preachers
―主のいますところ、敵もまたあり―

キリストがおられるところには、”ヘロデ”や”ユダ”もどこか近くにいるということは、私たちがいつも体験するところである。

【解説】 スポルジョンは、“直截の人”であり、また“警告の人”でもあることを知らされますね。この警告を聴いて、私の心にまず浮かんだのは次の聖句です。
(Ⅰコリント10:12) 「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」
私たちが“立っている”と思うとき、それは、“私は今、キリストと共にある、喜びと主の臨在に満たされている。全てのものが、祝福に満ちている”と感じるときです。だがそこに、ヘロデ=主の主権を奪おうとするこの世の様々な圧力と、ユダ=思いもかけずに私を裏切る身近な人が現れ、私たちは大きくつまずき倒れることがあるのです。
そしてもう一つの聖句はこれでした。
(Ⅰペテロ 5:8) 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
ヘロデヤユダの背後にある敵の正体は、空中の権を持つ者、サタン=悪魔です。そしてサタンがいる最もあなたに近い場所、それはあなたの“心”の中です。堕落した天使であるサタンの地上の住みかは、一貫して人の心なのです。決してこの狡猾な闇の主権者に、あなたの心の主のみ座を明け渡してはなりません。そばに近づけてもいけません。そのためには、“身を慎み、目を覚まして”いることです。サタンが最も好きなエサは、人間の“高ぶり=傲慢”であることを、ゆめお忘れなきように――。

 

We always find that, where Christ is, there is a Herod or a Judas somewhere near.

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2017年

1月

03日

◆”神の選びの民”を探せ!◆

私たちは、異邦人(異教徒、未信者)を回心させなければならない。神は彼らの中に、あまたのご自身の“選びの民”をお持ちなのだから、私たちは出ていって、どうあっても彼らを見いださなければならないのだ。

 

(使徒 18:9,10) 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」。

 

【解説】 今日のスポルジョンの言葉に、2つのことを教えられます。
① 引用した聖句を皆さんはどう解釈していましたか? 私は、この「わたしの民」とは、既にイエス様を信じているが、諸事情で教会を離れている人、母教会の圏外に引っ越して、教会を探している人のことと思っていました。でもこれは違うのです。本人はまだ信じていないけれど、神様にはすでに“選ばれて”いる潜在的クリスチャンのことなのですね。
② したがって、これは、「神の選びと召し」という大いなる信仰の奥義を秘めた言葉だと言えます。すなわち、私たちの宣教論は、どんな場合でも、証しし、伝道する私たち人間の目線でではなく、永遠の昔から、既にご自身の民を選んでおられる神様の視点で語られ、理解されなければならないということです。スポルジョンは、must(…ねばならない)という最上級の強い義務感を表す言葉を2度も用いていますが、これは決してクリスチャンの伝道の義務を人間的観点から強いているのではなく、“神様にすでに選ばれている人を、私たちの怠惰によって失ってはならない。どんなことをしても、その人々を探し出さなければ!”という、神様の促しへの“応答”の決意の表れなのです。
この新しい年も、2000年前の弟子たちのように、“神の選びの民の探索者”として、恐れずに語り続けねばと思わされることです。

 

We must have the heathen converted; God has myriads of His elect among them, we must go and search for them somehow or other.

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2017年

1月

02日

◆まず己の栄光に死ぬべし◆

何よりもまず、神があなたの“自賛心”を殺してしまうまでは、あなたは神を喜び誇ることはできない。

 

You will never glory in God till first of all God has killed your glorying in yourself.

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2016年

12月

30日

◆詰め込まれた知識よりも…◆

1オンスの“心の理解力”は、1トンの“頭の知識”に値する。

 

【解説】 スポルジョンは数学者でもあったか! と言いたくなるような“比較の真理”ですね。数字に弱い方のためにざっと計算しますと、前者の1オンスは約0.028キログラム、後者の1トンは1,000キログラムですから、前者は、後者の約35,700倍の力を持つということです! とは言っても、ここはもちろん数学の問題ではありません。前者の価値は、後者とは異次元と言っていいほど、けた外れに貴重だということですね。
私はクイズが大好きで、「Qさま!」「くりいむクイズ」、「初耳学」「高校生クイズ」…など、およそクイズと名の付くものは欠かしたことがなく、知識量としては相当いい線ではないかとひそかに思っているのですが(と、堂々とひけらかしております)、頭の知識はともすれば、他者と比較して自分を誇ります。けれどもそれは、他者を生かすことはできません。その人の悲しみも、痛みも癒やすことはできないのです。それができるのは“心”の理解力、感受性です。自分自身の心を開いて、目の前の人の心と同化させ(心理学では感情移入(エンパシーempathy)と言いますね)、まるで自分のことのように、その人の心の重荷を受け止めてあげる受容力です。人々の驚嘆と喝采を誘う己の博覧強記を誇るよりも、ほんのわずかでもいい、人を理解する愛の心をこそ、神様に求めなければいけないのではないでしょうか。知識はしょせん、その人の地上の命と共に終わります。しかし心の理解力は、“愛の思い出”となって、人々の心の中に、そして何よりも、天において永遠に残るのですから――。

 

(ローマ 12:15,16) 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」
(Ⅰコリント8:1) 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」
(Ⅰコリント13:2) 「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」

 

An ounce of heart knowledge is worth a ton of head learning.

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2016年

12月

29日

◆感覚か? 信仰か?◆

”感覚”志向のやり方は、全てのものを“今”得ようとする。
”信仰”志向のやり方は、全てのものを“神の時”に得ようとする。

 

【解説】 さすが“直言の雄”(私の命名デス)スポルジョン、まさに“言い得て妙”ですね。加えてこの一文は、全く同じ文体に、韻まで踏ませて、相反する二つの道を対照させるという文学的技巧も凝らしています。(韻は、senseセンス(感覚)とfaithフェイス(信仰)の部分です。)

 

The way of sense is to get everything now; the way of faith is to get everything in God's time.

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2016年

12月

28日

◆何を置いても”静思の時”を◆

静思の時を持たずにすばらしい音楽を楽しむのは、きらびやかな衣服で死体を覆うようなものだ。

 

【解説】 おお厳しや、これ、“スポルジョンの箴言”ですね。日本流に言い換えれば、「静思の時を持たない極上の音楽と掛けて、死体を覆うきらびやかな衣服と解く。その“心”は?」というところですが、両者から導き出されるのは、“外見だけを取り繕うことの愚かさ、無益さ“でしょうか。それにも増して恐ろしいのは、“死体”です。神様との霊の交わりのない一日は、そしてそれによってつくられていく人生は、まことの命を持たない死人の体同然だというのですから。他人事ではないのです。私など、あまりにやることが多いと、聖書を開く前に、「まずはメール処理から」とばかり、ついPCを開け、取り込んだお気に入りの音楽をかけながら、メールに目を通してしまうのですから! アメリカのクリスチャンのモットーに、No Bible, No Breakfast “聖書を開かずして朝食ナシ“というのがあります。私はさしずめ、No Bible, No Mailですね。

 

Fine music without devotion is but a splendid garment upon a corpse.

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2016年

12月

27日

◆見えない神をさやかに見る方法◆

あなたは福音書を読むだけ、そして“求める眼(まなこ)”をもって、そこを見るだけでいい。
あなたは、キリストの中に、およそ神のうちに見られる全てのものを見いだすであろう。


(ヨハネ 1:18) 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

(ヨハネ 14:9) 「わたしを見た者は、父を見たのです。」

 

You have only to read the Gospels, and to look with willing eyes, and you shall behold in Christ all that can possibly be seen of God.

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2016年

12月

26日

◆クリスマス:新たなる謙卑への旅の始まり◆

キリストにとって、人になることは、大いなる貧しさであった。あなたが人として生きることは、この神性と比べるなら、取るに足らないことだ。

 

私たちは、深い悲しみに満ちた悔悟のうちに、キリストの十字架と共にあるが、ベツレヘムのこのお方の誕生からは、喜び以外の何ものも引き出すことはできないのだ。

 

私たちの本性の中におられる神は、私たちに立ち向かう神ではなく、私たちと共におられる神である。


【解説】 今年のクリスマスも、暦の上では終わりました。でも私たちには、それは新たなる“謙卑への旅”への始まりです。キリスト者の旅は、下に下れば下るほど、今は天の高みにおられる主のもとに近づくのです(ピリピ2:6-11)。
2000年前のクリスマスに、神様は、私たち人間への愛のゆえに、その天の栄光あるご自身の神性を喜んで捨てられたのです。その想像を絶する貧しさに比べるなら、私たちが人として負わねばならない様々な貧しさや苦しみなど、いかほどのものでしょうか。

 

この日、言葉なる神は、私たちの内に宿られました(ヨハネ1:14)。天の高みにおられた神は、私たちのどんな状況にもかかわらず、あなたと共に、あなたの本性と一つになって、今を生きていってくださるのです。毎年のクリスマスは、その“確認”の時です。さぁ、私たちも、このお方、“インマヌエル”の主(マタイ1:23)と共に、“謙卑への旅”に再び出発しましょう。私たちの心のベツレヘムの家畜小屋から、“大いなる喜び”(ルカ2:10-12)に満たされて――。

 

It was great poverty to Christ to be a man. Humanity is a poor thing when you set it in comparison with the Deity.

We associate with His crucifixion much of sorrowful regret, but we derive from His birth at Bethlehem nothing but delight.

God in our nature is not God against us, but God with us.

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2016年

12月

19日

◆天のパンに飢えていますか?◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆
Charles Spurgeon - The Prince of Preachers
―天のパンに飢えていますか?―

もし人が天のパンを飢え求めるなら、地上の派手やかな装飾への好みは、その人の“心を支配する力”としては、第二の地位に引き下げられるであろう。

(アモス 8:11) 「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」

 

If a man hungers after the bread of heaven, his taste for finery will be reduced to a secondary position as a governing power of his mind.

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2016年

12月

18日

◆私の変わらぬ選択肢◆

この世の人として、歓楽の日々を送るよりは、クリスチャンとして悲しみの日々を過ごすほうがいい。
この世の楽しみを持つよりは、クリスチャンの悲しみの内にあるほうがいい。
ああ、アハブ王と共に宮殿で支配するよりは、パウロと共に土牢で鎖につながれていたほうがいい。
富の中でサタンの子として生きるよりは、貧しさの中で神の子として生きるほうがいいのだ。

 

(ヘブル11:24-26) 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

 

Better to have a Christians days of sorrow, than a worldlings days of mirth. Better to have a Christians sorrows than a worldlings joys. Ah! happier to be chained in a dungeon with a Paul than reign in the palace with an Ahab. Better to be a child of God in poverty than a child of Satan in riches.

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2016年

12月

17日

◆エペソ1:3~5のスポルジョン流講釈◆

“時”の始まるずっと前、
“天地”が創られる遥か昔に、
神は、自らの心に、
ご自身の“選びの民”の名前を書き記された。

 

(エペソ1:3-5) 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

 

【解説】 キリスト教は、ある意味、神秘的な宗教です。“奥義”に満ちています。その中でも、私が最大の奥義と信じるのは、次の二つです。一つは、“神が人になられた”ということ。今年も迎えようとしているクリスマスですね。もう一つは、天地の創られる前から、“この私が神様によって選ばれていた”ということです。いかなる人間の理性によっても、科学の力によっても、この奥義を解明することはできません。ただ畏れと感謝のうちに、信仰によって受け入れるしかないのです。私という存在は、歴史のある時に地上に生を受け、”健やかであっても80年”の、ほんの砂粒のような一点を生きて、歴史のかなたに消え去る存在にしかすぎませんが、天においては、ご自身のみ子が栄光の座を捨てて地に降(くだ)り、この私の罪のために命を捨ててくださるほどに神に愛され、選ばれた“いのちの書”に、この名は永遠に刻み込まれているのです。なんとかたじけないご恩寵でしょうか! かの詩篇の記者と共に、私はただこう叫ばざるを得ません。あなたは、いかがですか?


(詩篇 8:4) 「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 

Long before time began, or space was created, God had written upon His heart the names of His elect people.

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2016年

12月

15日

◆雲や暗闇を恐れないで◆

 

私たちのの信仰を鍛えるには、“雲”や“暗闇”も必要なのだ。それによって自己依存を切り捨て、キリストへの信仰により重きを置き、目に見えるものや、経験や、身体と感情などに、より頼らないようにするためである。

 

We need clouds and darkness to exercise our faith, to cut off self dependence, and make us put more faith in Christ, and less in evidence, less in experience, less in frames and feelings.

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2016年

12月

13日

◆艱難、汝を玉にす◆

ダイヤモンドをほんの少し磨いてみなさい。それはキラキラ輝きだすだろう。クリスチャンに、トラブルをほんの一つ与えてみなさい。それに対するその人の忍耐は、彼がまことの“イスラエルの種”であることを証明するであろう。

 

(イザヤ 45:25) 「イスラエルの子孫(英語seed 種)はみな、主によって義とされ、誇る。」
(ヘブル 10:36) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

【解説】 上記のみ言葉で分かるように、「種」とは「子孫」、そして「イスラエルの種」とは、クリスチャンである私たちにとっては、霊のイスラエルの子孫、信仰によって生まれた神の子であるということです。私たちの人生は、トラブルの連続であるとも言うことができますが、その一つ一つを乗り越えるごとに、私たちは、自分の霊的出自と、自分のゆくべきところを世の人々に証ししているのです。しかり、幾多の試練と苦難ののちに、私たちを待っているのは、まことの“イスラエルの種”にのみ与えられる、主のお約束の”義の冠”なのです!

 

Grind the diamond a little and you shall see it glisten. Do but put a trouble on the Christian, and his endurance of it will prove him to be of the true seed of Israel.

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2016年

12月

12日

◆だから、私は、私◆

いつまでも続く幸せを楽しんだクリスチャンはいない。
いつでも喜びの歌を賛美できる信仰者もいない。
全てのヒバリが、楽しい歌をさえずることができるわけではない。
全ての星が、どんなときにも見えるわけではない。
そして、全てのクリスチャンが、いつでも幸せなわけではないのだ。

 

【解説】 これを読むと、「確かにそうだ」と思いますが、そのあとで、「だから何?」とも思います。(あなたはそう思いませんでしたか?) 私たちは、時として“周りが全て幸せで、私だけが不幸だ“と考えて落ち込むことがあります。自分にないものを数え上げて、そんな自分が嫌になったり、思わず「神様どうして?」とつぶやきたくなることもあります。私もそうです。よく“いいお子さんやお孫さんにも恵まれて、すばらしい人生を送っておられる人が周りにたくさんいるのに、どうしてうちには子どもができなかったんだろう。このまま老いたら、誰に面倒を見てもらえるんだろう。”と考えることがありました。でも、何も問題のない、完璧な人生を送れる人は、一人もいないのです。照る日もあれば曇る日も、雨の日もある。山もあれば谷もある。――それが人生です。けれども、全能にして、愛する我が子に最善以下のことは決してなさらない神様は、この人生の終わりには、必ず一人一人の“帳尻”を合わせてくださる。負った負債に決して劣ることのない豊かな資産を残してくださる。だから、周りと比較して、一喜一憂する必要はないのです。“私は、私”。――そう信じて、私は今日も生きています。

 

There is not a Christian who has enjoyed perpetual happiness, there is no believer who can always sing a song of joy. It is not every lark that can always carol. It is not every star that can always be seen. And not every Christian is always happy.

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2016年

12月

10日

◆おすそ分けでも力あり!◆

神は神である。力はこのお方のものだ。もし彼が、その一部をご自身の被造物に委ねられるとするなら、それは依然として神の力なのである。

 

(ルカ 12:32) 「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」

 

God is God: and power belongeth to him. If he delegates a portion of it to his creatures, yet still it is his power.

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2016年

12月

09日

◆親が”知恵の素”なのです◆

小さな子どもたちは、時として自分は賢いと思い込む。だが彼らは何も知らないのだ。知恵は、子どもたちの内にではなく、親の内にあるのである。

 

(申命記 6:6,7) 「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」
(箴言 31:26) 「彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。」

 

Little children sometimes think they are wise, but they know nothing; wisdom is with their father, not with them.

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2016年

12月

08日

◆恵みは常に上を行く◆

人は大いなる罪びとである。
だがキリストは、さらに大いなる救い主なのだ。

 

(ローマ 5:20) 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 

You are a great sinner, but He is a greater Saviour.

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2016年

11月

28日

◆人が感謝に満たされるとき◆

呼吸する一息一息は、私たちを“感謝”で奮い立たせるべきなのだ。そして血管を流れる血潮は、身体の隅々まで、“感謝”を循環させるべきなのだ。

 

Each breath of air should inspire us with thanks, and the blood in our veins should circulate gratitude throughout our system.

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2016年

11月

26日

◆♪主を褒めよ!◆

クリスチャンの最高の音楽は、その人の、神への感謝の中に渾然(こんぜん)と存在するのだ。

 

"The best music of the Christian consists in his thankfulness to God."

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2016年

11月

25日

◆当たり前すぎて、ポカっと忘れること◆

我らの主のうちに、我らの助けはあるのだ。
このお方を呼び求めて叫ぶことに、ぐずぐずしないようにしようではないか。

 

In our Lord our help is found; let us not be slow to cry to Him.

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2016年

11月

24日

◆清廉さと強さはコインの両面です◆

信仰の友よ、己の“清廉さ”から離れ去る瞬間に、あなたは己の“強さ”をも失うのだ。

 

【解説】 「清廉さ」と訳した原語integrityインテグリティーは、私の最も好きな言葉の一つです。この訳語のほかに、「正直、高潔、誠実、健全、完全」とも訳せ、「権力、財力、権謀術策、立身出世、虚偽、腐敗…」等の概念とは対極にある言葉です。したがって、この「強さ」とは、後者に挙げた様々な悪の道にいざなおうとするこの世の誘惑を恐れず、それに断固として屈せず、巻き込まれず、ただ神のみ前にのみ、自らを弁明できる精神的な強靭さ、霊的な高邁さ、魂の清澄さを表します。この、この世に神だけを畏れて生きる真の“強さ”を自分の内に持ちたければ、キリストの内にのみ見られたこの“清廉さを”ひたすら求めることです。

 

You lose your strength, Christian, the moment you depart from your integrity.

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2016年

11月

23日

◆”褒め言葉”がパンになりますか?◆

他人の賞賛に寄りかかって生きることは、かすみを食べて生きるのに等しいのではないか? なんとなれば、賞賛とは、人の鼻孔から霧散する息に過ぎないのだから――。

 

To live upon the praises of others is to feed on the air; for what is praise but the breath of men’s nostrils?

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2016年

11月

22日

◆良き隣人の在り方◆

私には、我が隣人の“欠け”が見えるのだが、私はできる限り、それらには目をつぶることにしているのだ。

 

【解説】 ”良き隣人”と言うと、私たちはすぐあのルカの福音書10章の「良きサマリヤ人」を思い出します。敵対していたユダヤ人を、治療費の負担まで覚悟して介抱した、いわばポジティブ(積極的)な隣人性です。そこへ行くと、このスポルジョンは、いやおうなしに目につく周りの人の不完全性、欠点、欠陥を見ないようにするということですから、ネガティブ(消極的)な隣人性と言えますが、実生活の面では、こちらも、前者に劣らず、いえ、ある意味それ以上に必要なことなのです。なぜなら、あなたの周りの人(最も身近な配偶者、家族に始まって、隣近所の人々、職場の同僚、上司、友達…)とのいざこざや人間関係のトラブルは、相手の欠点が目について、だんだんそれが脳裏に焼き付き、しまいに寝ても覚めても思い出されるところから生じるからです。

えいやっと、一切、目をつぶることです! 金八先生のように、「彼も(欠け多き)人なり、我も(欠けだらけの)人なり」と。

“受容”――ありのままに受け入れること、ここにこそ私たちの心の平安があります。何よりも、それはイエス様がこの私にしてくださったことであり、そのゆえに、私は生かされているのですから――。

 

I can see the imperfections of my neighbour, but I will shut my eyes to them as far as I can.

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2016年

11月

20日

◆聖化に”結果オーライ”なし◆

その道程において聖くない者が、三重にも聖い神が栄光のうちにご自身を現される聖なる目的地にたどり着くことなど、できはしない。

 

【解説】 「三重にも聖い神」、面白い表現ですね。つまりスポルジョンは、“言葉に表せないほどの大いなる聖さ”を言っているのですが、そこには、三位一体の神のご性格が暗に表されています。聖い父なる神、聖い子なる神、聖いみ霊なる神の、三重の聖さの中にいましたもう神ということですね。
さて、私たちの社会では、「結果オーライ」「終わり良ければ全て良し」と言って、途中がどうでも、求められた成果さえ出せれば万事上々という、業績至上主義がともすればまかり通りますが、信仰者が歩む聖化の過程では、それは全く通用しません。なぜなら、日々の歩みを聖く保ち、神さまに喜ばれる生き方をしない限り、“キリストのかたち”は決して成らないからです。その意味では、私たちには、「千里の道も一歩より」「ローマは一日にして成らず」という格言のほうが、むしろ当を得ていると言えるでしょう。

もう一つ、この世の業績至上主義と聖化の道の違うところは、後者では、具体的・数字的な目標設定はできないということです。あなたの一日一日の、生けるイエスのみ霊と共なる歩み、そして、その時その時の、罪との戦い――悔い改めと、献身による勝利の積み重ねが全てなのです。そのように歩んだあなたの信仰生活の”実”として、気がついたらいつしか“聖い者”と変えられていた、というのが、神様の望まれる真の“聖化への道”だと私は信じています。

 

(Ⅰテサロニケ 4:3) 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」

 

He that is not holy on the way will not come to that holy end where the thrice holy God reveals himself in his glory.

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2016年

11月

18日

◆天で貧しくならぬように◆

私たちは、しょせん取るに足らないこの人生に、あまりに身を入れすぎるのだ。かかる“この世志向”は、極めて高くつくことになろう。

 

(マタイ6:20) 「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」

 

We make too much of this poor life, and this fondness costs us dear.

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2016年

11月

17日

◆救霊こそ若さの秘けつ◆

”魂のすなどり”は、心を生き生きとさせ、心の温かい若さを保たせてくれる。“救霊”は、衰えゆく愛の、強力な“回復剤”なのだ。

 

Saul-winning keeps the heart lively, and preserves our warm youth to us; it is a mighty refresher to decaying love.

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2016年

11月

16日

◆滅入った時は思い出して◆

私たちのあらゆる失敗にもかかわらず、ご自身のみ子に頼り続ける限り、神はなおもあなたを愛される。それゆえ、決して落ち込まずにいようではないか。

 

With all our faults God loves us still if we are trusting in his Son, therefore let us not be downhearted.

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2016年

11月

15日

◆イエスに向け。イエスだけに!◆

あなたの希望に心を向けてはいけない。キリストに向けるのだ。あなたの希望の源であるお方に――。

 

"Do not look to your hope, but to Christ, the source of your hope."

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2016年

11月

11日

◆ああ、かの日には…◆

ああ! 安息日の鐘が、アフリカの平原に、その音色をまき散らす日が、そしてインドのうっそうとしたジャングルが、神の聖徒たちが聖所に登っていくのを見る日が来ることを私は信じる。そして中国のあふれんばかりの群衆が、祈りのために建てられた聖堂の中に共に集い、あなたや私がそうしたように、永遠の栄光に満ちた神を賛美することを、私は確信しているのだ。

 

Oh! I believe there is a day coming when Sabbath bells shall sprinkle music over the plains of Africa - when the deep thick jungle of India shall see the saints of God going up to the sanctuary, and I am assured that the teeming multitudes of China shall gather together in temples built for prayer, and, as you and I have done, shall sing, to the ever glorious Jehovah.

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2016年

11月

09日

◆”わざも恵みも”は欲張りです◆

人は、ある程度は己のわざに業に頼り、ある程度は恵みに頼ろうとするかもしれない。だがそれは、いわば片方の足を陸地に置き、もう片方を海に置くようなもので、その人は間違いなく海中に沈むことになろう。

 

【解説】 私たちが頼るべきは、100パーセント神の恵みとあわれみです。わざに頼る人は、いっときは成功の味に酔うかもしれませんが、やがて必ず奈落に沈むことになります。神様に栄光を帰さなかったからです。わざは、神の恵みとあわれみの中から、ひとえに感謝の応答として生まれてくるのです。

 

(エペソ2:8,9) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(詩篇 115:1) 「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」

 

A man may trust partly in works and partly in grace, but he has as it were, one foot on land and one on sea, and he will go down certainly.

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2016年

11月

08日

◆神の言葉の”声”を聴いてますか?◆

聖書は、まさしく“神の声色(こわいろ)”で、あなたに話しかけるのだ。

 

The Bible speaks to you in the very tone of God’s voice.

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2016年

11月

07日

◆虚偽へのベスト対処法◆

“虚偽”を追い払う唯一の方法は、“真理”を受け入れることである。

 

The only way to expel the lie is to accept the truth.

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2016年

11月

05日

◆聖性のシンプルテスト◆

聖さを愛する人は、世的な繁栄・成功のたぐいをうらやむいささかの理由も持ち合わせてはいない。

 

No one who loves holiness has the slightest cause to envy the prosperity of the worldling.

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