◆not 自己信頼but神信頼◆

キリストにとどまることによってのみ、私たちは、自分であること、自分の言うこと、自分のすることに確信が持てます。これは“自己信頼(自信過剰!)”とか、“自尊心(うぬぼれ!)”(世はこう呼びます)ではなく、むしろ“神信頼”、“キリスト尊心”と呼ぶべきものです。

~ナンシー・ミスラ―~

(ピリピ 3:8,9) 「…それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義を持つことができる、という望みがあるからです。」

【解説】 多くの人は、自分の存在に自信が持てなくて、苦しんでいます。セルフイメージが、驚くほど低いのです。それに比例して、周りの人の自分を見る目が気になります。セルフイメージが低ければ低いほど、周りが気になり、悩むのです。その対極にあるのが、やみくもに自分を頼り、究極的には自分を神格化して、他者を不幸に陥れるエゴイズムです。家庭内の悲惨なDVから、日本ではオウム真理教の教祖、はたまた世界征服の妄想に走ったヒトラーに至るまで、その根は同じです。いずれの場合も、その本当の理由は、”自分”という存在をこの世に生み出したお方を知らず、そのお方に信頼し、自己存在の絶対的な根拠として、そのお方の愛の内にとどまるすべを持っていないからです。

 他者と比較することなく、自由に、安らかに、“自分自身”でいられること。そこに、人間本来の、本当の生き方があります。そのためには、どんな場合も、迷わず、ぶれず、「キリストにとどまる」。ここにあなたの“揺るぎない存在”の根拠があるのです。

(訳者の舞台裏、ひと言: 原文の"God-confidence" "Christ-esteem"はいわゆる”造語”です。そうなると、翻訳者も、日本語で造語せざるを得ません。“神信頼”はいいとして、“キリスト尊心”! いかがでしょうか?)

(ヨハネ15:5,9,10) 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。…父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」

Only by abiding in Christ will we gain confidence in who we are, what we say and what we do. This is not "self-confidence" or "self-esteem" (as the world calls it), but rather "God-confidence" and "Christ-esteem".

✏ Nancy Missler

"...that I may gain Christ, and may be found in Him, not having a righteousness of my own...but that which is through faith in Christ..."

📖 Philippians 3:8-9