◆他者のために生きるキリスト者◆

1.《貧しい人に真に仕える》

教会は、貧しい人々への“仕え人”であるべきなのだから、その富がこの世の貧しい人々を助けることに向けられ、用いられないとしたら、それは私たちの過ちなのです。

~シーザー・チャヴェズ~

【解説】 “過ち”と訳したfaultフォールトは、”落ち度、責任、罪“とも訳し得る言葉です。“教会の罪”というのは、本来あってはならないことです。もちろんそれは、積極的な罪であるわけではありません。教会の罪は、しばしば“不作為の罪”―なすべきことをしない罪です。したがって、心をいつも教会がなすべきことにフォーカスしておかないと、ともすると忘れられ、過ちを犯していることにも気づかないのです。“教会の目”は、絶えず“貧しき人々”(霊肉ともに)に向けられていなければなりません。

Since the church is to be servant to the poor, it is our fault if that wealth is not channeled to help the poor in our world. – Cesar Chavez

 

2.《行政に働きかける真の力》

“貧しい人々のための力”が本当に意味するところは、その能力、協働性、断定性、積極性を、国の権力機構が「ノー(やりたくない)」と言いたいときに「イエス(やります)」と言わせるために用いることができるということだ。

~マーティン・ルーサー・キングJr.~

【解説】 このように言ったキング牧師は、想像を絶する忍耐と命がけの勇気をもって、あのワシントン大行進を実践し、公民権運動を勝利に導きました。彼は優れたリーダーですが、その成功のカギは、人々の心に働きかけ、彼らを目的のために一致させたことです。決して一人でできることではなかったのです。“協働性”と訳したtogethernessは、かのケネディー大統領も、世界平和のために、アメリカにとどまらず、全世界に呼びかけたTogether!(一緒に!)という言葉の名詞形です。香港では、遂に死者を出しながらも5か月にわたる市民の戦いが続いていますが、私たちキリスト者も、貧しい人々、弱い人々、少数者の権利を守るために、時としてこの“力”を結集させなければなりません。それは個人としての参加であっても、“キリストの体”の一部としての働きなのです。

Power for poor people will really mean having the ability, the togetherness, the assertiveness, and the aggressiveness to make the power structure of this nation say yes when they may be desirous to say no."

Rev. Dr. Martin Luther King, Jr

 

3.《どのように“神”を見せられるのか?》

キリスト教信仰とは、“他者”に関心を持つことです。人々がすぐ目の前で飢えているのに、数千万、数億円の教会堂を建てることではありません。

キリストは、目の前にそのような人がいると知ったとき、“革命的”な行動を起こしました。

それが、“神”とはどういうお方かを語る全てです。そしてそこから、私は生きる“力”を頂くのです。

Christianity is being concerned about [others], not building a million-dollar church while people are starving right around the corner. Christ was a revolutionary person, out there where it was happening. That's what God is all about, and that's where I get my strength.