1.《宣教はキリストの心で》
キリストの魂は、“宣教魂”です。
彼に近づけば近づくほど、
私たちはより激しく宣教熱心になります。
~ヘンリー・マーティン~
(マルコ16:15) 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
【解説】 彼の言葉は、私たちに託された宣教・証しの“原点”を教えてくれます。宣教・証しは、自分の思い、自分の力でやるのではありません。それがどれほど“気分的”なもので、状況に支配されやすく、長続きしないものであるかは、自分自身が一番よく分かっていますよね? そうではない。私たちは、魂のことを考えるときは、いつも“キリストの魂”に帰らなければならないのです。失われゆく魂を深くあわれみ、そのために涙された主のみ心に――。その意味で、私たちが一人の魂に寄り添っていく近さは、キリストの魂に近づいていく深さに比例していかなければならないのですね。
(マルコ 6:34) 「イエスは、…彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」
(マタイ23:37) 「ああ、エルサレム、エルサレム。…わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」
The spirit of Christ is the spirit of missions. The nearer we get to Him, the more itensely missional We become.
-Henry Martyn-
2.《置かれた場所は魂の勝ち取りの場》
この世界は収穫の畑であり、畑は世界である。
そして今からのち、あの国は、
私がキリストのために魂を勝ち取るのに
最もよく用いられる我が家となるのだ。
~ニコラウス・ルードヴィヒ・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵~(写真左)
(マタイ 28:19) 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
(ヨハネ 4:35) 「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
【解説】 このように言い放ったのは、18世紀ドイツの、宣教団体「モラヴィア兄弟団」の創設者です。裕福な貴族だった彼は、イエス・キリストの磔刑画に書いてあった「我これを全て汝のためになせり。汝我がために何をなせしや」の言葉に文字どおり釘づけにされて献身し、私財を全て投げ打って兄弟団を創設し、ドイツのリバイバル(信仰復興)に導きました(旧讃美歌332「主は命を」2節「♪かくも我がために栄えを捨つ 我は主のために何を捨てし」のモチーフ)。“宣教魂、ここに極まれり”とも言うべき熱い気概がひしひしと伝わってきますが、私たちの誰もが宣教師になれるわけではありません。ツィンツェンドルフやマザー・テレサのように、大きな救済の働きができるわけでもありません。でも忘れてならないのは、私たちの“収穫の畑”は、今、主に置かれた場だということです。そこを私の“世界”、神の家族を生み出す“我が家”として、一人の魂の救いのために労すること――そうです、私が、あなたが、小さな小さなツィンツェンドルフやマザー・テレサになることを、主は望んでおられるのです。
The world is the field and the field is the world; and henceforth that country shall be my home where I can be most used in winning souls for Christ.
-Count Nicolaus Ludwig Von Zinzendorf-
"Go therefore and make disciples of all the nations" (Mt. 28:19).
3.《宣教・証しはただ神と共に》
私が中国に着いたら、必要な人材や環境などにつぃて一切要求はしない。私の要求は、“ただ一人、神にある”ことだけだ。
~ハドソン・テイラー~(写真左)
【解説】 こちらは、あのチャイナ・インランド・ミッション(現OMFインターナショナル)の創設者の言葉です。これもまた心を探られる言葉ですね。彼は広大な中国内地に宣教師として踏み入れることになった時、どれほど心細かったことでしょう。仲間や資金、建物など、物的支援がどんなに必要だったことでしょう。でも彼は、ただ神だけを頼りに、自力で宣教地を開拓することを求めたのです。心に刻まれたイエスの山上の教えを、今まさに実践しようという彼の決意が伝わってくる思いです。どんな困難な状況でも、ただ神を見上げ、神を第一にするとき、必要は全て備えられます。これは、実践して初めて分かる神の真理なのです。
(マタイ 6:33,34) 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
When I get to China, I will have no claim on anyone for anything. My claim will be alone in God.
-Hudson Taylor-stolen
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