◆キリストが全て◆

(ピリピ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

1.《俗の中で聖を生きる》

神を志向して生きる者には、俗なるものは何もない。全てが聖いのである。

【解説】 短い言葉ですが、これが、キリストの血潮によて洗い清められ、ひとたび罪の世から贖い出されて、再び罪の世に証し人として送り出されている私たちの生き方を決める基本的な信条です。「神を志向する」とは、優れて「神の聖さを志向し、その聖さの中に自らを置く」ということです。そしてその聖められた神の視点でこの世を見るとき、全ては聖く見えるのです。”聖さ”の中に、“罪”は入り込むことができません。

(Ⅰペテロ 1:15,16) 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」

(テトス 1:15) 「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」

To a man who lives unto God nothing is secular, everything is sacred.

 

2.《キリストの部屋をつくる》

もしあなたがキリストのための部屋をつくるなら、その日からのち、この世はもはや、あなたのための部屋を持たないことを覚えておきなさい。

【解説】 これは、上記1.の姉妹編です。そしてまた、あのガラテヤ2章のハイライトの言葉を、スポルジョン流に、分かりやすく言い換えたものです。このみ言葉と共に味わってください。

(ガラテヤ 2:19,20) 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

If you have room for Christ, then from this day forth remember, the world has no room for you.

 

3.《心配を“癒やしの案内人”に》

究極の目的は、心配から逃れることではなく、それをしてイエス・キリストの癒やしのご臨在の中に私たちを導く“案内人”にすることである。

【解説】 私たちは、一人の例外もなく、心配、不安、懸念、気遣いの中で生きています。そしてその一つ一つを、主の十字架のもとに携えて、重荷を取り去っていただくのですが、スポルジョンは、このようなユーモアさえ感じさせる表現で、私たちに“思い煩い”に対する新たな取り組み方を提示しています。それは、心配を、主の癒やしに私たちを導く“案内人”にするということです。私たちに心配事のあるところ、そこには必ず主の癒やしがあります。しかも、”イエス・キリストの癒やしのご臨在“という原文には、主が、“心配氏”に案内されてご自身のもとに来たあなたを、2000年前、地上で人々を癒やされた時のように、あなたの前に、生きて手を差し伸べて待っておられるという臨場感があります。心配何するものぞ。恐れたり、避けたりする必要はありません。それに向かって「さあ速やかに主のもとに連れていきなさい」と命令し、その場で主の癒やしを体験してください。それが、あなたに心配事が起こる究極の目的なのですから――。

(ピリピ 4:6,7) 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

The ultimate aim is not to escape anxiety but to allow it to usher us into the healing presence of Jesus Christ.