◆愛なくば◆

1 《説教が力を失うとき》

信仰が教条に取って代わられ、、

礼拝が鍛錬に取って代わられ、

愛が習慣に取って代わられるとき…

 

信仰が“生ける泉”というより“世襲財産”になり、

キリストの教えが、“あわれみ”に満ちた声でというより

“権威”の名においてのみ語られるとき…

 

そのメッセージは無意味なものになります。

~エイブラハム・ヘッシェル~

【解説】これは、昨日のサミュエル・リー牧師の「本当の福音伝道とは」の姉妹編です。人はこれを“信仰の形骸化”“教会の世俗化”と呼びますが、教職者も、信徒も、一人の罪赦された罪びととして、神様のみ前に出て、「主よ、私はどうでしょうか?」と探られなければなりません。そして示されるままに、聖霊のみ力によって、新しい心を与えていただかなければならないのです。

(ローマ12:1,2) 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

When faith is replaced by creed, worship by discipline, love by habit; …when faith becomes an heirloom rather than a living fountain…when religion speaks only in the name of authority rather than with the voice of compassion - its message becomes meaningless. – Abraham Heschel

 

2 《深い悲しみの意味》

深い悲しみは、決して消えることはありませんが、変化します。

それは“通過地点”であり、とどまる場所ではありません。

深い悲しみは、弱さのしるしでもなければ、

信仰の欠如でもありません。

――それは、“愛が払うべき代価”なのです。

【解説】 “悲しみ”を現す英語は幾つかあります。今回始めたこのシリーズの原文タイトルSad Jesusのsadサッドや、sorrowソロー、聖書の「哀歌」の英語名でもある、悲嘆を表すlamentationラメンテーション、そして今日のgriefグリーフですが、これは愛する者の死などのときに味わう“深い悲しみ”を表します。今年の2月に、妻の突然の死を経験した私や、皆さんの中にも、このgriefを体験された方がおられると思います。このわずか5行の言葉は、そんな私たちには、とりわけ慰めと励ましになるのではないでしょうか。また、幸いにしてまだ経験していない方も、この言葉を忘れずにいてください。最初の2行は、神様のお与えくださる“時”という配剤の恵み、次の2行は、信仰者なのに余りに悲嘆に暮れてしまい悩むあなたへの力強い励まし、そして最後の1行は、この深い悲しみの意味を、見事に解き明かしています。そう、愛には払うべき代価が伴うのです。“深い悲しみ”は、かくも深く愛することのできる人をお与えくださり、生涯をかけて愛することをさせてくださった神様への、感謝のいけにえなのですね。

Grief never ends…But it changes. It’s a passage, not a place to stay. Grief is not a sign of weakness, nor a lack of faith…It is the price of love.

 

3《愛が“道”となる時》

“愛”が道となるとき、貧困は過去のものとなるでしょう。

“愛”が道となるとき、この地上は“祭壇”となります。

“愛”が道となるとき、もはや戦(いくさ)について研究しないよう、

人は剣(つるぎ)や盾を川べりに捨てるでしょう。

“愛”が道となるとき、地上には全ての神の子らに十分な場所が備えられるのです。

【解説】 “道”と聞くと、私たちは真っ先に、イエス様の言葉を思い出します。

(ヨハネ 14:6) 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

この格言の道も、まさにその道、The Way唯一の道、キリストの道です。そしてその道の名は「愛」でなければならないと作者は言います。それは聖書の使信そのものです。この「道」にはもう一つの意味があります。それは、私たちの行動を律する方法、手段、端的に言えば“生き方の指針”という意味です。けれど世界の現実は、そして私たちの周りは、なんとこの作者の理想には程遠いことでしょう。それでも私たちは、忍耐をもって、まず私の周りから、「愛」をこの二つの意味を持つ“道”とするために、自分にできることをしていかなければなりません。イエス様は、十字架の前夜、同じヨハネ14章で、私たちのために天に場所を用意しに行くと言われましたが(14:2,3)、その前に、この地上において、“愛”の支配する場所を少しでも広げておくのは、私たち一人一人の聖なる務めなのです。主はそのために、命を捨てられたのですから――。

When love is the way, poverty would become history. When love is the way, the earth will be a sanctuary. When love is the way, we will lay our swords and shields down by the riverside to study war no more. When love is the way, there's plenty of room for all of God's children.

 

【FBギャラリー】No.81 ネイサン・グリーン「君を見捨てない」