◆先達3人の語る福音のキモ◆

《律法と福音》

律法は“正義の法廷”である。

しかし福音は“恵みの王座”である。

~ジョージ・スウィノック~

【解説】 これは見事な対照ですね。律法は行いによる義を要求します。私たちの行いが、神の救いを得るに足るものかどうか、徹底的に裁く(審議する)のです。しかし、私たちは、到底その裁きに耐えることはできません。義人は一人もいないからです(ローマ3:10)。けれども、イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって私たちの罪は赦され、神様の救いは、ただ信じるだけで私たちのものになるのです。これこそ、恵みの王座から、一方的に、無代価で与えられる福音=良き知らせです。

(ガラテヤ3:24) 「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

(エペソ 2:8,9) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

“The Law is a court of justice, but the Gospel a throne of grace.”

George Swinnock

 

《神はインマヌエル》

いつ、いかなる時においても、

いかなる状況のもとにあっても、

神は我らと共におられる。

~リチャード・シブズ~

【解説】 この“インマヌエル”の無条件性、絶対性を、私たちはしっかりと心に据え直す必要があります。神様のご臨在は、クリスマスの時だけではありません。聖なる雰囲気の漂う教会の中だけでもない。また私たちが、祈りや賛美や良きメッセージによって心が燃やされている時だけでもない。インマヌエルは、私たちの置かれた状況には一切左右されることはないのです。むしろ、「神様はどこに行った?」「なぜお声をかけてくださらないの?」「もう見捨てられてしまったのか?」と思えるような、絶望と傷心のただなかでこそ、神様は、「私は、ある」(出エジプト3:14)、「私だ。恐れるな。…なぜ疑ったのか」(マタイ14:27,31)と、確かなご存在を示してくださいます。その一事を、やみくもに信じ抜くこと、それが信仰の神髄なのです。

(マタイ 1:23) 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

At all times whatsoever and in all conditions, God is with us. - Richard Sibbes

 

《内住のみ霊が“しもべ”をつくる》

もし私たちが神のみ霊によって新たに生まれ、神のみ霊にひたすら従うならば、全ての点において、自分では気づくことなく、へりくだった己を現すであろう。私たちは、全ての人に対して、いともたやすく“しもべ”となるであろう。それは、そうすることが私たちの理想だからではなく、おのずとそうならざるを得ないからだ。私たちの目が、意識的に、自らの仕える行為にではなく、我らの救い主に注がれているからである。

~オズワルド・チェンバーズ 「聖書の心理学」~

【解説】 さすが“み霊の人”オズワルド・チェンバーズの深い洞察です。内住の聖霊が私たちにしてくださることは、いろいろな面から考察できますが、ひと言で言えば、“私たちをキリストのみ姿にしてくださる”(聖化)ということです。それをチェンバーズは、極めてユニークな表現ですが、“しもべにしてくださる”と言ったのです。なぜそう言えるのか? それは、キリストのご生涯が、そうであったからです。神のみ子が人になるということは、王子が進んで奴隷になる以上のことです。私たちには、とてもそうなれない自我(プライド)があります。それこそが、自分中心の罪の本質です。その罪を打ち砕くために、主は、自らのご生涯を通して、まことの謙遜、へりくだったしもべの生き方をお教えになったのです。それを通して、人は、神様のご栄光を現すことができるからです。そして今、キリストのみ霊は、私たちの内に住まわれ、私たちの内側から、そのように変えてくださろうとしています。これは生涯をかけたプロセスです。チェンバーズは、それが可能になるカギを、深いみ言葉の洞察の中から見いだし、この短い一文の中で伝えてくれます。それは、“自分の行為にではなく、我らの主ご自身に焦点を合わせてそらさない”ということです。“意識的に”主に焦点を合わせるとき、私たちは、全く“無意識のうちに”、何の努力もなく、へりくだったしもべとなっている自分を見いだすのです。これが、聖化の“奥義”です。私は、今この奥義にあずかろうとして、まず粉々に砕かれるために、苦闘の最中です。この奥義を、どうぞあなたも、生涯目標として自らのものとなさいますように――。

(ヨハネ 13:14,15) 「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

(ピリピ 2:6-8) 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

If we are born again of the Spirit of God and follow and obey the Spirit of God, we will manifest humility unconsciously all along the line. We will easily be the servant of all men, because we cannot help it, not because it is our ideal. Our conscious eye is not on our service, but on our Savior.

- Oswald Chambers: Biblical Psychology

 

 

【FBギャラリー】No.74 レディー・エマ 「さ、みんな、お祈りよ」