◆私にもできる二つの生き方ガイド◆

《祈りの中で生きる》

私たちは、誰もが議論に長(た)けているわけではない。だが、誰もが祈れるのだ。

私たちは、誰もがリーダーにはなれない。だが誰もがプリーダー(神への嘆願者)にはなれるのだ。

私たちは、誰もが弁舌に巧みとは言えない。だが誰もが“神と語らう生活”を送ることはできるのだ。

【解説】 クリスチャンであれば、誰でもできるもの、1つ目は“祈り”です。祈りには、議論で説き伏せる力も、人をリードする力も、言葉で人を酔わせる力も一切不要です。ただ神と語らう。神に必要と、癒やしのために、ひたすらお願いする。それは自分のためだけでなく、愛する人のためのとりなしもありますね。この2番目には、一見して分かる原語の片仮名読みで記したように、スポルジョンの踏韻の修辞があります。そして3つ目。後半の原文を直訳すると、「祈りを普及させる(優勢にする。支配的にする)」となります。祈りが、私たちの生活の中で、もっと大きな部分を占めるように、というニュアンスを、無い知恵を搾って「神と語らう生活」としてみました。私事で恐縮ですが、妻という最良の語らう相手を失ってしまいましたので、私はいろいろなことを、生活の中で声に出して神様とお話ししています。この訳語は、誰よりも、今の私にとってピッタリなのです。あなたにも、そうでありますように――。

We cannot all argue, but we can all pray; We cannot all be leaders, but we can all be pleaders; We cannot all be mighty in rhetoric, but we can all be prevalent in prayer.

 

《主の権威のもとに生きる》

「かく主は言われる」―これが、神の教会における唯一の権威である。

私たちの誰であれ、”私は主イエス・キリストのもの”と認めるのに、何か恥じるものがあるというのか?

【解説】 この2つの文章は、ソースは別のものですが、あえて一緒にしました。その意図は、「教会の主は、その教会に連なる一人一人のキリスト者の主である」という真理を、もう一度確認したかったからです。

私たちが絶えず吟味しなければならないことの1つは、「教会の中で、イエス・キリストだけが、唯一の権威者となっているか」ということです。時には牧師、時には長老・執事・役員、時には高額献金者などのキリスト以外の人間的権威が教会を支配していることはないか? 私たちは、いつもへりくだって、この「主は言われる」の唯一の権威のもとに、ひざまずかなければなりません。

もう1つは、「私は自分の置かれた生活の場所で、“主のものとされた自分”を周りの人々に明らかにしているか」ということです。いざというときに、あのペテロのように「私はこの人を知りません」と否定はしなくても、クリスチャンであることを恥じて、言葉を濁したり、話題をそらしたりすることはないだろうか?

私たちは自己中心で、また弱い者です。知らず知らず、教会の中で主の権威を犯していた罪を聖霊に示されたら、また生活の中で主を恥じていた自分に気づいたら、その罪を悔い改め、主の赦しを請いましょう。私の、あなたの自己中心も弱さもよくご存じの神様は、赦して、聖めてくださいます。

(ローマ1:16) 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

“Thus saith the Lord” is the only authority in God’s church.

What is there for any of us to be ashamed of in acknowledging that we belong to the Lord Jesus Christ?