◆4人の先達が語る信仰生活の勘どころ◆

1. 《砕かれて初めて分かること》

モーセは、“自分はひとかどの者だ”と考えながら40年を過ごした。 ”いや、自分は全く取るに足りない“と考えながら次の40年を過ごした。 そして次の40年でようやく、”神は、取るに足りない者を用いて事をなさる“と知ったのだ。 ~D.L. ムーディー~

【解説】 これは信仰者の一生のプロセスです。モーセはその”型“、見本ですね。彼は、この真理を悟るのに120年かかりましたが、私たちはそれでは長すぎます。そのために神様は、私たちが無駄な失敗をしないように、聖書の中に”見本“の人物を残したのです。「神様は、無にも等しいこの私を通して、ご自身の大いなるみ業をなさる」――このことを、彼からしかと学びたいものです。 Moses spent forty years thinking he was somebody; forty years learning he was nobody; and forty years discovering what God can do with a nobody. – D.L. Moody

 

2. 《あなたの教会は、大きいのか、聖いのか?》

新約聖書の使徒書簡の大いなる関心は、教会の“大きさ”ではない。それは教会の“聖さ”なのだ。 ~マーティン・ロイドジョーンズ(1899-1981)~ (エペソ5:23、26,27) 「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

【解説】 あなたは、ご自分の教会に何を求めていますか? 集う人の多さですか? 経済的な豊かさですか? 神様が一番求めておられるのは、“聖さ”です。このエペソ人の手紙の中では、ご存じのように夫と妻の深い関わりを、キリストと教会の関わりになぞらえていますね。すなわち、教会の聖さは、ひっきょう、キリストの体である私たち一人一人の聖さから生まれるのです。聖さを阻むものは、私たちの内になおもしつこく残る“肉”です。一人一人が、神様のみ前に砕かれて、み霊の実を結ばなければならないのです(ガラテヤ5:16-25をぜひ開いてお読みください)。 The great concern of the New Testament epistles is not about the size of the church, it is about the purity of the church.

– Martyn Lloyd-Jones (1899-1981)

 

3. 《正義は神の手に》

私は、正義が神のみ手にあることを感謝する。 ~A.W. トーザー~

【解説】 この世の“正義”はしばしば相対的です。だから時として冤罪が起こり、無実の人が一生を台無しにされてしまう悲劇が起こるのです。しかし神様の正義は絶対的です。それは神の絶対的なご性質(神学用語では“属性”と言います)である“義”に基づくからです。この究極的な“神の正義”を信じられるからこそ、人は、どのような不条理の中でも、神様に委ねて前に進んでいけるのです。この世にこの絶対的な正義が存在しないとしたら、私たちは絶望して生きていくことが嫌になります。それほどに、人間社会は悪と不正で満ちあふれているのです。その現実に思いを馳せると、トーザーが「感謝する」と言ったことの重みが、ひしひしと伝わってきませんか?

I am thankful that justice is in the hands of God. -A.W. Tozer

 

4. 《“祈りと罪”は“水と油”》

”祈り”と”罪”は、人の心の中で同居することは絶対にできません。 祈りは罪を燃やし尽くしますが、 罪は祈りの炎を消し去るのです。 ~J.C. ライル~ 【解説】 “祈り”の反対語は何だろう? 神に頼らない“自尊心”かな。“罪”の反対語は何だろう? “潔白”かな。…などと私たちは考えますが、ライルは、”祈りと罪”こそ、互いに相容(い)れないもの、まさに“水と油”だと言うのです。一瞬、意表を突いた言い方ですが、これもまた真理です。ズバリ言って、人は、罪を持ったままで祈ることはできないのです。仮に罪に目をつぶって祈ったとしたら、その祈りが神様に聴かれることは絶対にありません。神様の目は節穴ではないのです。ですからもし祈りの中で隠れていた罪を思い出したら(それは聖霊のお働きですが)、まずその罪を言い表して、神様の赦しを請わなければなりません。 この言葉が教えるもうひとつ大切なことは、罪を焼き尽くしてあなたを聖めるのは祈りの力だということ、逆に、罪が最も力を振るうのは、あなたを祈れなくすることだということです。実に祈りは、霊の世界でサタンを打ち砕く神様の力を呼び覚ますものであり、あなたが祈らないことこそ、サタンが何にもまして小躍りして喜ぶことだということです。――これがあなたの信仰生活が実を結ぶかどうかのカギです。どうぞ忘れないでください。

Praying and sinning will never live together in the same heart. Prayer will consume sin, or sin will choke prayer. – J.C. Ryle