◆先達三人の語る信仰のキモ◆

《まことの知恵を生み出す信仰》

まことの“知恵”は、人が己の誇りを脇へ押しやって、自分自身をキリストの権威のもとに差し出すときに始まる。

~ジョン・カルヴァン~(1509-1564)

【解説】 これが、“プロテスタント神学の雄”と言われ(言ったのは私ですが)、プロテスタント最初の組織神学であり、“神”に関する知恵の結集とも言うべき(…と考えているのも私です)主著「キリスト教綱要」を世に残したカルヴァンの言葉です。この言葉に、彼がどのような思いをもってこの書を書き、どのような姿勢でプロテスタント思想を集大成していったかが、いみじくも表されています。彼は、絶えず、自分の罪のために命を捨てられたキリストの権威の前にひざまずき、己の“知の誇り”を十字架の前に差し出しつつ、このライフワークとなる書を書き続けていったのです。まことの“信仰”は、このようなまことの“知恵”を生みだします。

The beginning of true wisdom is when a man lays aside his pride, and submits himself under the authority of Christ. – John Calvin

 

《幼子のような信仰》

イエス様は言われたわ。私たちは皆、“幼子”のように彼のもとに来なければならないって。私たちの年とか、社会的な地位とか、知的な背景が、どうであろうとね。

~コーリー・テン・ブーム(1892-1983)

(マタイ18:3,4) 「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」

Jesus Christ says that we all must come as children, no matter what our age, social standing, or intellectual background. – Corrie ten Boom

 

《パニックを締め出す信仰》

”信仰”は、“パニック”に陥ることの拒否である。

~マーティン・ロイドジョーンズ(1899-1981)

【解説】 さすがロイドジョーンズ、このような”信仰”の定義は、斬新で、心に響きますね。“信仰”と“パニック”は、霊の世界における“対義語”です。“パニック”とは、「(突然の)恐怖、おびえ、狼狽(慌てふためき)、臆病風」(広辞苑)であり、もう原語片仮名のままで、私たちの生活の中に入り込んでいます。それは、得体のしれない突然の出来事が起こったときに陥るものですが、日常生活の中の様々な心配、思い煩い、不安などが高じても引き起こされます。聖書の中では、例えば、嵐に遭って「主よ、舟が沈みそうです!」と叫んだ時の弟子たちは、まさにパニック状態でした(マルコ4:35-41)。その時、「嵐よ、静まれ!」の一喝のもとに嵐を鎮められたイエス様は、自然をも支配なさるご自分を前にしながら、ただ恐れまどった彼らを、「信仰の薄い者たちだな」と叱られたのでした。

”信仰”とは、何を”信じ仰ぐ“のか? それは、あなたの人生のどんな局面においても、そこにあなたと共におられる“イエス様のご臨在を信じる”ことです。パニックに陥りそうになったとき、「私だ。恐れるな!」という主のみ声をしかと聞き、その場で“主を仰ぐ”ことです。その時に人は、初めて、”パニック”に対して、断固「ノー!」と言うことができます。“キリストの臨在のうちにある信仰”は、”神不在の恐怖”を拒否することによって、あなたの内に不動のものになるのです。

Faith is a refusal to panic. – Martyn Lloyd-Jones