◆忘れてならない”信仰の基本”4か条◆

1.《人間の罪は、神のみ子でも容赦されない》

神がイエスを“罪びと”としてご覧になったとき、神はみ子を容赦されなかった。

そして神は、キリストを拒み、悔い改めない人々を見たら、彼らを容赦なさらないだろう。

【解説】 この端的なスポルジョンの言葉に、福音の“恵み”と“厳しさ”がよく表れています。神のみ子は、すでに2000年前のあのゴルゴタの十字架で、私たち全ての人間に代わり、“罪びと”として父なる神に裁かれたのです。父なる神様は、たとえご自身の独り子といえども、十字架の上で“罪びと”となったイエスを、人間(私たち!)への愛のゆえに、容赦なく死に渡されたのです。その大いなる恵みを知りながら、なおもこの”福音”を拒む者には、もはや罪からの救いの道は残されていないことに、私たちは粛然として気づかなければなりません。

(Ⅱコリント 5:21) 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

When God saw Jesus in the sinner’s place, He did not spare Him; and when He finds the unregenerate without Christ, He will not spare them.

 

2.《罪の裁きと訓練の懲らしめを混同しない》

“信仰者の処罰”などという話をするおつもりか! そんなものはない。人の世における様々な苦難は、キリスト者の罪に対する処罰などではない。それは、“天の父の懲らしめ”であって、“裁判官の下す刑罰”とは違うのだ。

【解説】 これは、信仰者も避けて通ることはできない様々な人生の苦しみに対して、“それは神からの罰だ”という間違った考えに対する、スポルジョンの聖書に立った論駁です。それは、私たちの内に“キリストのかたちが成るため”(ガラテヤ4:19)の、父なる神様からの信仰の訓練なのです。これが、信仰を持つ前、神を信じないで自分中心に生きる人間に対する神の“永遠の裁き”と、信仰を持ったのち、私たちを神の人になるために訓練として神様がお与えになる“苦難という懲らしめ”の違いです。この違いをよく理解しないと、私たちの信仰生活は、いつも神の裁きを恐れる、喜びのないものとなります。下のみ言葉を、しっかりと心に据え直しましょう。

(ヘブル 12:6,7) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」

Talk of the punishment of a believer! there is not such a thing. The

afflictions of this mortal life are not punishments for sin to Christians, they are fatherly chastisements, and not the punishments of a judge.

 

3.《救いの原点に立ち返る》

かの大いなる“身代わりびと”の上に

我が罪 裁かれ

永遠に取り去らるるを見しとき

我は驚きに目を見張り

我が生けるを知り

自由となりし喜びに跳ね踊りたり。

(イザ 45:22) 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

【解説】 これが、有名なスポルジョンの“我が回心の記”です。1850年12月15日の日曜日、彼は突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでメソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、劇的な回心を経験したのです。これはその時、決め手となった聖書の言葉です。彼を冷たく命のない、暗黒の世界に閉じ込めていたのは、神なしに独り己が道を手探りで進もうとする自我の“罪”でした。その罪を、無条件に引き受けて、十字架で身代わりに死んでくださった神のみ子イエス・キリストを仰ぎ見たとき、彼はあまりの恵みの深さに言葉を失い、今こそ自分が真に生きていることを魂の底から実感し、罪の縄目から解放された喜びに、文字どおり雪道の上を喜び踊ったのです! 彼のその後の目覚ましい宣教の働きの原点は、この回心にありました。私たちもまた、人生の様々な試練に出会い、信仰を試されるときは、自らの“原点”に立ち返らねばなりません。“救いの原点に返る”――これは、あの背信を繰り返した旧約の民が、大いなる”出エジプト”の原点に幾度も立ち返ったように、そしてペテロが、パウロが、新約の教会が、主イエスの“赦しの愛”の原点に立ち返ったように、私たちの信仰の旅路を最後まで全うさせてくださる、神様の恵みのたまものなのです。

I looked, and lived, and leaped in joyful liberty as I beheld my sin punished upon the great Substitute, and put away for ever. “Look unto me, and be ye saved, all the ends of the earth, for I am God, nd there is none else.“-Isaiah 45:22

 

4.《“悔い改め”もまた成長する》

”信仰”が成長するように、”悔い改め“もまた成長する。そのことを、決して誤解してはならない。”悔い改め”とは、せいぜい数日、数週間のものとか、できるだけ早く乗り越えるべき一時的な改悛などのたぐいではないのだ! 違う。それは、“信仰”そのものがそうであるように、生涯にわたる“恵み”なのだ。小さな神の子たちも悔い改める。同じように若い人たちも、親となった人たちも悔い改める。“悔い改め”と“信仰”は、切り離すことのできない“伴侶”なのである。

【解説】 上記3.の、「救いの原点に立ち返る」ことを可能にするもの、いえ、その”絶対条件”と言ってもいいものは、この”悔い改め”です。悔い改めなき原点回帰は、何度繰り返しても無駄なことです。

けれども一方で、“悔い改め”もまた、“信仰”と同じように成長できるのです。悔い改めの深化は、信仰の成長と比例します。なぜなら、信仰の成長に伴って、私たちの霊性は研ぎ澄まされ、“罪”への感覚が深まるからです。それまでは気にも留めなかったもの、”これぐらいは誰でもやってる。赦される”と思っていたものが、”これもまた罪だ”と分かってきます。それは、自分の言葉や行為を受けた相手の人の立場に立って考えられるようになるから―あなたの中の“愛”が深まるからなのです。

そしてまた、人は、子どもも大人も悔い改めることができるし、いつになっても、死の瞬間でさえも悔い改めは可能です。だからこそ、“悔い改め”が許されているということは、その都度心の痛みは伴いますが、神の備えられた大いなる“恵み”なのです。

げに「信仰とは、”生涯の悔い改め”と見つけたり。」 私が、あなたが、どんなに大きな失敗をしても、悔い改める限り、再び神様の愛の懐(ふところ)に飛び込んでいけるのです、あのペテロのように――(ルカ22:32、ヨハネ21:15-17)。

Repentance grows as faith grows. Do not make any mistake about it; repentance is not a thing of days and weeks, a temporary penance to be got over as fast as possible! No; it is the grace of a lifetime, like faith itself. God’s little children repent, and so do the young men and the fathers. Repentance is the inseparable companion of faith.