◆スポルジョンの説く救いと信仰のキモ◆

救うのは、偉大な信仰ではなく、“まことの信仰”である。

そして救いは、信仰の中にあるのではなく、信仰が寄り頼む“キリスト”の内にある。

熟慮すべき点は、信仰の程度ではなく、信仰の“誠実さ”である。

 

【解説】 さすがスポルジョンの“三段論法”は、一段一段、大切なポイントを衝いていますね。では、今日は、彼なら、このように解説するかもしれない、という語調で、説き明かしてみます。

第1段: 人を救うのは、“偉大な信仰”ではない。もしそうなら、救われる人は極めて少ないだろう。そもそも“偉大な信仰”などというものは、人間の評価であり、神の前には存在しない。神がご覧になるのは、たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても、いかに真実に、偽りなく、心から神の救いを信じたかにあるのだ。

第2段: しかしながら、いかにあなたの信仰が真実であっても、“救い”は信仰そのものの中にあるのではない。徹頭徹尾自己中心な人間は、ともするとそう考えてしまう。そのとき、信仰は己の“業”になる。人は己の業である信仰を誇り、それによって自分は間違いなく救われているという錯覚に陥る。そこにはもはや、神の“恵み”は存在しない。大切なのは、信じる“対象”である。私たちの救いは、私たちが救い主と信じ、主としてより頼む、“イエス・キリストご自身”のうちにのみある。“業”というなら、キリストが、私の罪の身代わりに十字架の上で命を捨てられ、三日目によみがえられた、あの”救いのみ業”そのものの中に、私たちの救いはあるのだ。

第3段: 最後に、私たちが深い洞察を持って、正しく理解しなければならないのは、“信仰”というものの内実、核心は何なのか、神が最も大切なものとしてご覧になるのは、私たちの信仰の、どのポイントなのかということだ。私がmeasure“程度”と言ったことの中には、信仰歴、神学の学歴と得た学位、関わった働き、そのために得た肩書、著した本の数…、など、およそ数字的に測りうる全ての外面的な評価を指す。しかしながら、それをもって神のみ前に出ようとするならば、神はたちどころに顔を背けられるであろう。それらのものは、人には誇れても、神に対して誇れるものではない。(Ⅰサムエル16:7)「人はうわべを見るが、主は心を見る。」 信仰の核心は、人に見せるうわべの“計測値”ではなく、神に包み隠さず見せるあなたの心の“信頼度”―あなたが、どんな場合でも、いかに誠実に、陰ひなたなく、ありのままで神を信頼してきたか、それだけなのだ。

 

It is not great faith, but true faith, that saves; and the salvation lies not in the faith, but in the Christ in whom faith trusts. It is not the measure of faith, but the sincerity of faith, which is the point to be considered.