◆年の初めに思う2つのこと◆

1.《時のあるうちに》 

草の一生とは、このようなものだ。

蒔かれ、生長し、風に吹かれ、刈り取られ、消え去る。

人間の一生も、大した違いはないのだ。

【解説】 これは、さしずめスポルジョンの「伝道者(コヘレト)の書」ですね。原文では、韻を踏んで修辞を施していますし、人間の一生に、巧みになぞらえています。すなわちこうです。「蒔かれ(ソーン。誕生)、生長し(グローン。成長)、風に吹かれ(ブローン。試練)、刈り取られ(モーン。死)、消え去る(ゴーン。忘却のかなたに)。まさに、はかない一生です。私たちは、新しい年が明けて、それぞれに1つ年を重ねました。それは、地上で残された年月が、1年減ったということでもあります。これだけを読んだら、そぞろ寂しさが募るだけですが、スポルジョンの言わんとするのは、《だから》なのです。

1つは、《だから》やがて消え去る地上のものに一切望みを置くのではなく、永遠に残る神のみ言葉に、いよいよ固く立つということです。

(イザヤ 40:6-8) 「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

もう1つは、《だから》残された時を生かし、心を込めて主を求め、主の業をせよ」ということです。聖書の中には、与えられた“時”を逸して、もはや取り返しのつかない後悔をした愚かな人々の例えが多く出てきます。蟻に学ばなかった怠け者(箴言6章)、ランプの油を用意しなかった5人の花嫁(マタイ25章)、家族に神の国を語らなかった金持ち(ルカ16章)…。私たちは、光なるイエス・キリストと共に、昼の間に働かなければなりません。“究極の夜”である“死”は、しばしば突然にやってきます。あわれみによって生かされている“今日”という日を、無為に過ごしてはいけないのです。

(イザヤ 55:6) 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」

(ヨハネ9:4,5) 「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

Here is th history of the grass – sown, grown blown mown, gone; and the history of man is not much more.

 

2.《この恵み、忘れまじ》 

神は、あなたの良き業のゆえに、あなたを愛したのではない。

あなたの悪しき業のゆえに、あなたを捨て去るのでもない。

ただあなたを、“イエスの贖いの血によって洗われた者”と見てくださったのだ。

【解説】 これが”福音”です。これ以上でも、これ以下でもありません。徹頭徹尾自己中心な“生涯現役の罪びと”(!)である私たちは、ほんの少し良き業をしても、「これで主は愛してくれる」とうぬぼれ、性懲りもなく同じ間違いをして、人を言葉や行為で傷つけては、「またやった。もう主は見捨てるかも」と自分を責めるのです。どちらの場合も、その瞬間、あなたは大切なことを忘れています。「イエス様は、命を捨てて、私の罪を自分の身に負ってくださった」という永遠の事実を――。新しい年も、この“驚くべき恵み”の中にとどまり続けましょう。人生のどんな修羅場の中でも、あなたに注がれる主のまなざしを決して忘れずにいましょう。

(イザヤ43:1 「主】こう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」

(Ⅰヨハネ4:10) 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

He never loved you for your good works; never cast you away for your bad works; but beheld you as washed in the atoning blood of Jesus.