◆クリスマスに想い見ること3つ◆

1. 《神の払いし犠牲を想い見よ》 もしイエス・キリストが神であり、私のために死んでくださったとすれば、私がこのお方のために払う犠牲で、“大きすぎる”ものなど断じてないのだ。~C.S. スタッド

【解説】 クリスマスは、神のみ子が、あなたのため、私のために命を捨てるという大いなる犠牲の目的を持って、人となられた日です。だとすれば、私たちもまた、ただ感謝し、喜ぶだけではなく、自分の払うべき犠牲(それは、犠牲と呼ぶほどのものではないのです!)について、考えてみるべきです。クリスマス――この日は、「主よ、私はあなたのために、何を捨てればいいのでしょうか?」と、ひざまずいて問う日でもなければならないのではないでしょうか?

(ルカ 9:23) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

If Jesus Christ be God and died for me, then no sacrifice can be too great for me to make for Him. -C.T. Studd- “If anyone desires to come after Me, let him deny himself, and take up his cross daily, and follow Me" (Lk. 9:23).

 

2. 《神の我が選びの日を想い見よ》 まだ神を憎んでいたあなたを、あの日、救いに選んでくださったほどの神の“寵愛”を、あなたが新生した日から死ぬ日までの間に受けることは、二度とありはしない。~デイヴィッド・シルカー~【

解説】 ”あの日”とは、私たちが地上で知りうる日ではありません。永遠の天で、誰も知らないところで、しかし確かに神様があなたの救いを定められた“特別の日”なのです。クリスマス――それは、神様が、こんな無きに等しい者を選ばれたご自身の愛を、時満ちて、この地上であなたにお示しになるために独り子を遣わされた日として、想いを馳せるべき日なのです。

(エペソ 1:4) 「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

"From the day you're born again to the day you die, you will never receive more favor than the day He chose you even though you hated Him."—David Sliker

 

3. 《日々、神の臨在を想い見よ》 “神への飢え渇き”は、“神の不在”のしるしではない。それは“神の臨在”の証明なのだ。~ダナ・キャンドラー~【解説】 クリスマスは、天使の声も高らかに、「インマヌエル 神我らと共にいます!」と宣言します。その声を聞きながら、私たちは、この一年を振り返って、この世との闘いの中で、いかにしばしば神様を見失いかけたかを、痛みと共に思い出します。そんな中でも、神=主イエス様は、いっときも離れることなく、あなたと共におられたのです。そんな徹頭徹尾自己中心な私たちに、神様は、鹿が谷川を慕いあえぐように(詩篇42:1)、ご自身を渇き求める思いを与えてくださいました。私たちは、姿を消した神、いなくなった神を求めるのではない。目には見えずとも、確かにそこにおられるからこそ、叫び求めるのです。クリスマス――それは、私たちが「インマヌエル」の主をしかと心の王座に迎え直し、”私の主、私の神”の臨在を人々に示すために、“神への飢え渇き”の思いを新たにする日なのです。

(マタイ1:23) 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

"Hunger for God is not a sign of His absence, but proof of His presence."—Dana Candler