◆苦しみと信頼◆

私たちのためにキリストが苦しまれたことを

もし私たちが信じられるなら、

私たちがキリストのために苦しむときも、

このお方を信じることができるはずです。

~A.W. トーザー~

 

【解説】 これは、私たちが、ともすれば見落としがちな、信仰生活の中の大切な真理です。すなわち、私たちが信仰を守るために経験しなければならない様々な苦しみは、すでに主キリストが身をもって味わわれており、主はその全てをご存じなのです。それがもし信じられるなら(この“もし”は、“当然の「もし」”で、“信じられるのだから”という意味です!)、私たちが苦しむときも、主はそれをすでに私のために苦しんでくださったのだから、たとえどんなにつらくとも、このお方を信頼し、委ねていくことができるはずだというトーザーの言葉は、論理的にも、実際的にも、「アーメン!」と受け入れることができるのではないでしょうか? 私たちの苦しみは、実に、”キリストの苦しみにあずかる”ことです。そして、この信頼あるところ、主に在って”苦しみ”が”平安と喜び”に変えられる時が必ず来ます”。苦しみ”と”信頼”は、私たちが良き信仰の実を結ぶための、“車の両輪”なのです。

 

(ヨハネ 16:33) 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 

(1ペテロ4:16,17) 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」

 

"If we can trust the sufferings of Christ for our sake then we can trust Christ when we suffer for His sake." - A.W.Tozer