◆ヨブ、イザヤ、パウロさえ…◆

もしヨブや、イザヤや、パウロらが、一様に「私は汚れた者です」と言わざるを得なかったとすれば、ああ、哀れな罪びとよ、あなたはこの告白に加わることを恥とされるのか?

 

【解説】 ヨブ、イザヤ、パウロ…。彼らは聖書の中でひときわ光を放つ信仰の偉人です。しかし彼らは、聖なる神のみ前に立たされた時、「ああ、主よ、私は汚れた者、堕落し、恥ずべき者、悪質で、鼻持ちならない、卑しい者、無きに等しい者です」(いずれも原語vileヴァイルの訳です)。いいえ、彼らだけではない。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、ペテロも、皆そうでした。聖い神様のみ前で、己を“汚れなき者”と誇りうる人は、この地上に誰一人いないのです。このスポルジョンの問いに対する答えは、即座に「いいえ」ですね。私たちは、ともすれば、これらの信仰の先達たちの“偉大さ”に圧倒されて、「自分にはとても…」とたじろぎますが、私たちは、彼らの“罪、弱さ、欠け”も、ありのままに見つめなければなりません。そして、この地上でただ一人、罪なき神の子でありながら、私たちへの愛のゆえに、十字架の上で、”罪びと”となる道を選ばれたイエス・キリストに、叫ばざるを得ないのではありませんか? 「ああ、主よ、彼らでさえそうなら、この私は、本当に汚れ果てた者です。どうぞこの罪を赦し、清めてください」と――。

 

(ヨブ40:4) 「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」

(イザヤ 6:5) 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

(Ⅰテモテ1:15) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

If Job, and Isaiah, and Paul were all obliged to say, “I am vile,” oh, poor sinner, wilt thou be ashamed to join in the same confession?