◆神の選びの教会◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

―神の選びの教会―

 

神の選びの教会は、

天の寵愛せるもの、

キリストの宝、

その頭(こうべ)にかぶれる冠、

その腕にはめたるブレスレット、

その心に当てたる胸当て、

その愛の真髄にして

彼の最も心を寄せたるものなり。

 

【解説】 この19世紀の偉大なる福音宣教の先達の、“神の教会”への一級の賛辞を日本語にするには、現代文では軽きに失しますので、文語にしてみましたが、いかがでしょうか。

ここで考えなければならないのは、1つは、ひょっとして”神に選ばれない教会”というのはあるのだろうか、という問題ですが、答えは、異端の教会を別にすれば、はっきりと「ノー!」です。全ての教会は、“神の選びの教会”です。なんとなれば、その教会をかたちづくる私たち一人一人が、神の選びと召しにあずかっているからです。

2つ目は、この実に美しい“教会賛歌”は、果たして今の自分の教会に当てはまるのだろうか、という疑問です。“神の教会”と言いながらも、あなたの教会には、全く問題はありませんか? 人間関係は良好ですか? 牧師と信徒の間ではどうですか? 「全て良好です」と言える教会は、おそらく一つもないのではないでしょうか? かく言う私の教会も、牧師と信徒の高齢化、会員減少、新しい受洗者が与えられない…と、問題は山積みです。しかしそのような、多くの問題を抱えた一つ一つの教会に対し、神様は、「我が宝、我が冠、我が最も心を寄せるもの」と呼んでくださるのです。なぜなら、この地上の教会に連なる私たちは欠けだらけの者ですが、この群れは、神のみ子がご自身の命をもって贖われた、“キリストの体”だからです。私たちは、自らのうちに、そして自分が集う教会の中に、様々な“破れ”と“ひずみ”を見るときにこそ、この神様の“選び”の目で、イエス様の“十字架の愛”の目で、見つめ直す必要があるのです。そのときに、不満と裁きの目には見えなかった、この教会に注がれている神様の“あわれみと恵み”のみ手が、はっきりと見えてきます。そしてこの“キリストの体”への新たな献身の思いと、兄弟姉妹への暖かい主に在る愛が、静かに心の深いところから湧き上がってくるのを体験なさるはずです。

 

(エペソ 1:23) 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

The elect church is the favorite of heaven, the treasure of Christ, the crawn of His head, the bracelet of His arm, the breast plate of His heart, the very center and care of His love.