◆キリスト者がこの世で生きるということ《私の場合》

私について、クソミソに言う人には、言いたいだけ言わせておきました。

私に涙を流させた人の顔から、私は黙って涙を拭いてあげました。

私を打ちのめそうとした人の手を、私は取りあげて立たせました。

私のためにとどまろうとしなかった人のそばに、私は一緒にいました。

私ってヘンですか? そうかもしれません。

でも私は、他人(ひと)の憎しみの中で、自分を失いたくない。

人生はキビしいものです。

でも、あらゆるウソでたらめに囲まれていても、

私は心をしっかり持って、自分のいるべき場所にいようと思います。

 

【解説】 これを書いた人は、実はクリスチャンではありません。でもその心は、限りなく信仰者の生き方に似ています。どこが似ているかと言えば、憎しみや敵意に、同じ憎しみや敵意で返すのではなく、“愛”をもって返しているところです。信仰者としての私は、これを読んで2つのことを考えました。

1つは、これはある意味、本当に大きなエネルギーを必要とするこの世との闘いでもあること。でも、このような生き方は、最後には勝利するのです。どんな逆境の中でも人を生かす本当の力、そしてあらゆる憎しみに打ち勝つ究極の力は“愛”だからです。

2つ目は、この方にも、疲れ果てるときがある。挫折して立ち上がれなくなる時が来る。それは、このような生き方は、あまりにも孤独な闘いだからです。人間は、どんなに意志の強い人でも、本質的に弱い存在です。疲れたときに、泣きたくなるときに、慰め、励まし、支えてくれる上からの力が、私たちには絶対に必要なのです。それを知ったときに、そしてその力をお与えくださるお方のもとに出たときに、私たちは、弱さのままで強くなれます。この方の生き方は、その時にホンモノになるはずです。

 

(ローマ12:21) 「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

(マタイ 11:28) 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

(Ⅱコリント 12:9,10) 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 

I have fed mouths that have talked shit about me. I’ve wiped tears from the faces of people who have caused mine. I have picked up people who have tried to knock me down. I have been there for people who have not been there for me. Crazy? Maybe… But I will not lose myself in the hatred of others. Life isn’t easy, but even through all the bullshit, I will still be here with my heart in the right place.