◆ネヴァー・セイ・トゥー・レイト(「遅すぎる」と言うなかれ)◆

(1)あなたを待ち続けるのは誰?

誰も、「私は神を待っている」などと言うべきではない。愛兄姉よ、違う、私たち人間の誰が神を待つにもまして、大きなみ手を広げて私たちを待っておられるのは神なのだ。

 

(2)ゆえに“救いの時”にタイムリミットはないのです

人生のどんなに遅い時であろうと、人は回心することができる。その人は、他の誰とも同じように、信じる者への特権と約束を享受できるのだ。自由なる恵みは、惜しみなく与えられ、何人(なんぴと)をも批判することはない。

 

【解説】 神様の定義は、あまたありますが、ここでは躊躇なくこう言いましょう。私たちの神様は、「待ちたもう神」だと。キリスト者の徳の一つである「忍耐」は、実にこの待ちたもう神の忍耐に範をとっています。この真理に目覚めたら、私たちは、「俺は神のお呼びを待ってるんだけど、なかなか来ないんだよ」などとあまのじゃくなことは、決して言えなくなるのではありませんか? 私たちにできることは、欠けだらけの自分を、「私のもとにおいで」と言われる神様の大きなみ手の中に、今、丸ごとお預けすることだけのはずです。

 

そして、神様の忍耐が受け入れてくださる「人生の遅い時」は、実にあなたの今わの際にまで及びます。私たちは、あの十字架上で死の直前に天国に凱旋した強盗の一人と同じです。イエス様はあの時、「お前はどうしてもっと早く私を信じなかった? そうすればお前の悪事はもっと少なくて済んだろう。バカな男だ。お前の悪事がどれほど人の人生を苦しませたか、考えたことがあるか?」などという“批判”は、ひと言もおっしゃいませんでした。「あなたのみ国の座で、(せめて)私を思い出してください」と涙ながらに願った彼に、「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいます」と、“惜しみなき恵み”を、あふれんばかりにお与えくださったのです。

 

これが、「福音」でなくて、なんでしょうか?

 

No man ought to say, I am waiting for God.

No, beloved, it is God who is waiting for us generally, rather than any of us waiting for him.

 

However late in life a man may be converted. He shall enjoy the same privileges and promises as others. Free grace gives freely and does not upbraid.