◆キリスト者の完全◆

 クリスチャンにとって必要な2つの種類の“完全”がある。1つはイエスの人格における“義認”の完全であり、もう1つは、聖霊によって、人のうちに働く“聖化”の完全である。

 現在において、堕落は新生した人間の胸のうちにいまだに眠っている。現在において、心は部分的に汚れている。現在において、欲情や悪しき想像心がいまだにある。

 しかしながら、ああ、神が始められた働きが完成を見る日が来ることを知って、私の魂は歓喜する。その時、神は、私の魂を―キリストにおいて完全であるのみか、聖霊においても完全で、しみも傷も、そのたぐいのものも一切ない魂を、お示しになるのだ。

 

【解説】 “キリスト者の完全”ということは、キリスト教教義の中でも大切なものの一つですが、この2つの完全をしっかりと心にとどめておきましょう。1つは、分かりやすく言えば、人が救われて義とされることの完全で、それは瞬間的なものです。もう1つは、救われたキリスト者が、その後の信仰生活でキリストに似た者されていく聖化の完全で、これはやがて栄光の姿に変えられる(栄化)までの長いプロセスを要します。前者が”点”における完全、後者が“線”における完全と言ってもいいでしょう。

 そしてもうひとつ大切なことは、この“完全”は、人間の側の状態にかかわらず、神様が完全なものとしてくださるということです。私たちの救われた証しが、どんなにささやかなものであっても、またたとえその確信や喜びが、ドラマティックなものでなくても、「イエス・キリストは私の主、救い主です」というひと言の言の信仰告白をもって、神様は100パーセント完全に、あなたを“義”(罪なし)と認めてくださるのです。聖化における義認も同様です。スポルジョンが正直に記したように、どんなに長く聖化の道を歩んだとしても、なお私たちの心の奥深くには、肉の思いが潜んでおり、折あれば頭をもたげます。それでも神様は、私たちの聖なる者への歩みを、完全なものとみなし、堕落への道からお守りくださり、その完成の日を迎えさせてくださるです。その”栄化”は、私たちの信仰の始まりの”義認”の時と同じように、一瞬のうちになされます。

 なんというかたじけなさ、なんという神様の哀れみでしょうか。そう、“キリスト者の完全”とは、100パーセント、神様の主権において、なされることなのです。“アメイジング・グレイス 驚くべき恵み”の業として――。

 

There are two kinds of perfection which a Christian needs-one is the perfection of justification in the person of Jesus; and the other is, the perfection of sanctification worked in him by the Holy Spirit. At present corruption still rests even in the breasts of the regenerate. At present the heart is partially impure. At present there are still lusts and evil imaginations. But, Oh! my soul rejoices to know that the day is coming when God shall finish the work which he has begun; and he shall present my soul, not only perfect in Christ, but, perfect in the Spirit, without spot or blemish, or any such thing.