◆”愛”に思いを馳せて◆

(1) 失楽園の教えるもの

 

全ての男と女の心には、真実の愛を取り戻すことへのあこがれがあるのです。それは、はるか昔に、あの”園”で失われてしまった、深く親しい交わりの場所に帰ることへの切なる望みです。

~アレン・フッド~

 

【解説】 これは、今世紀に最も用いられている伝道者の一人であるアレンの深い洞察から生まれた、人間の全ての愛の原点と、人類のDNAにインプットされたそこへの回帰願望の提示です。その原点とは、アダムとエヴァが毎日、いえ、刻々に味わっていた、創り主、父なる神との“深く親しい、霊的な交わり”です。この回帰願望を、かのアウグスティヌスは『告白』の中で、「父よ、私たちは、あなたのみもとに帰るまでは、魂に安きを得ません」と文字どおり赤裸々に告白しました。堕罪によって生まれた失楽園は、まことの愛を失った“失愛園”です。そしてこの園への道は、あの“十字架”の下から始まっているのです。ああ、帰りなん、いざ。

 

In the heart of every man and woman is a yearning for the return of

true love…the place of intimacy lost in a garden long ago.

-Allen Hood

 

(2) 愛があふれたとき

 

あなたが神様の愛にあふれてしまうまで、あなたの人生に愛を満たしてくださるよう、神様にお求めなさい。

―あまりにあふれて、あなたの嫌いな人をも覆うほどに!

~アン・グレイアム・ロッツ~

 

【解説】 著者は故ビリー・グラハム博士の次女です。これは、ある意味、(1)で“愛の原点”に回帰した人の全てが体験する、当然の結果です。なぜなら、イエス様の十字架の血潮によって、神様との愛の交わり意を回復し、日々神の愛に満たされて生きるということは、泉の水のふき出口をふさいでいた“罪”という自我の硬い塊が取り除かれて、あなたの内から“愛”の泉がこんこんとあふれ出るようなものだからです。―これは現実には不可能でしょうか? 私には無理とお思いでしょうか? はい、そうです。私たちが“自分の力で”と思っているうちは、絶対に無理です! だからイエス様は、進んで命を捨ててくださったのです。私たちが、このお方の愛の力で、憎しみと、恐れに打ち勝つために。そして本当に神の愛のすばらしさを、この身に味わうために――。

 

Ask Him to fill your life until you overflow with His love – even for

those you don’t like!

-Anne Graham Lotz

 

(3) 礼拝も聖餐も、これなくば…

 

あなた方は、宗教的な礼式を守るとか、信仰上の義務を果たすために創られたのではありません。

この宇宙の創り主との、愛ある交わりのために創られたのです。

~アレン・フッド~

 

【解説】 再びアレンですが、彼の目は、今度は私たちの教会生活、信仰生活に注がれます。毎日曜日には礼拝やミサがなされ、月に少なくとも1度は聖餐式が持たれます。また私たちは、キリスト者として、静思の時を持ち、家庭礼拝を守り、教会の様々な奉仕をします。全て私たちのなすべき必要なことであり、全て、私たちの目に見える二次元の世界でのことです。でもそこで、私たちが次元を超えた“上”を見上げることを忘れ、見えない高みから見ておられるお方との深い霊の交わりをおろそかにしたら、私たちが“信仰”の名のもとになす全てのことは、外面的・形式的になり、みずみずしい命の息吹と、深い愛の喜びを失ってしまします。それは、私たちがこの世に生を受けた、神の創造の意図に背くことになるというのです。この厳粛さに、私たちは襟を正さなければなりません。私たちが、どこで何をしていても、いつも“私の主、私の神”(ヨハネ20:28)に心を開いて、このお方との“愛ある交わり“を第一にすべきことを、アレンを通して神様ご自身が、あなたに求めておられます。

 

“You weren’t created for religious forms and duty but for loving

communion with the Maker of the universe.”

-Allen Hood