◆キリスト教は”キリスト”なのです◆

(1) 神のみ子が人になられたワケ

 

人間が神の子となることができるように、神のみ子が人間になられたのです。

~C.S. ルイス~

 

【解説】 ここには、“主客転倒”の修辞が用いられていますね。でもこれは真実です。人が努力して、修行を積んで、神(仏)になると説く世のあまたの宗教の中で、ひとり、キリスト教だけが、「神は人間になられた」と宣言します。進化論とも呼応して、“上へ、上へ”とひたすら救いを求めるこの世界で、聖書の神様だけが、「私は下に、人間の世界に我が子を下す」と言われたのです。それは、私たちが、この限りなく低くなられた神を信じて、“神の子”となるためです。この神のみ子、イエス・キリストなしに、当然のことながら、キリスト教は成立しません。神の子とされた私たちも存在しません。この“驚くべき恵み アメイジング・グレイス”を、私たちは、決して当たり前のことと思ってはいけないのです。

 

The Son of God became a man to enable men to become sons of God.

-C.S. Lewis

 

(2) あなたの神はカルバリにおられますか?

 

“カルバリ”(十字架)なしに神を描くことは、

それがどんなものであれ、神への“背信”です。

~ラインハード・ボンク~

 

【解説】 後半生をベッドに伏したままインド宣教に生涯をささげたエイミー・カーマイケルは、その著書「カルバリの愛を知っていますか?」で、十字架の主の自己犠牲に基づかない信仰者に、たとえその言動がどんなに人々の賞賛を受けたとしても、「あなたはカルバリの愛を知らない」と言い放ちました。私たちの語る神は、いつもあのカルバリにおられるでしょうか? 主の日の講壇や私たちの証しで、人に幸福をもたらす神の力と、信じる者の祝福のみが強調されることはないでしょうか? もしそこで、私たちを救ってくださるためのカルバリの主のお苦しみと、この主に従っていくための犠牲と喜びが語られなかったならば、それは“信仰”の衣をかぶった神への背信となるのです。そこにあるのは大いなることをなされる偉大なる神と、その神に在って大いなる業をなす人間の肉の誇りだけで、私たちが神の子と呼ばれるために払われた、神の愛の原点、“カルバリ”が欠落しているからです。“背信”――この言葉の厳しさに、私たちは襟を正さなければなりません。(なお原文では、“描写(描く)portrayalポートレイヤル”と“背信betrayalベトレイヤル”で、韻を踏む修辞がなされています。)

 

“Any portrayal of God without Calvary is betrayal.”

—Reinhard Bonnke