◆神の前に、一人の”人間”であれ◆

全ての聖徒にも過去があり、

全ての罪びとにも未来がある。

~オスカー・ワイルド~

 

【解説】 この言葉は、ある意味、先日の「すべての差別は“罪”なのです」の姉妹編とも言えます。

物事の本質を鋭く捉えて、それを端的に言い表す独特の才を持っていた、19世紀アイルランドの生んだ詩人であり劇作家であるワイルドは、 “聖徒”と“罪びと”という、およそ人々の考える人間評価の両極端に属する人々を挙げることによって、神の前における全ての人間を表すことに成功しています。すなわち、この世の表街道を歩き、様々な分野で、富、名声、学識、業績などにおいて、卓越した成果を上げている人々は、この“聖徒”で代表されます。反対に、この世の裏街道を歩き、闇の世界で、様々な悪事を働き、人々に恐れられ、法の厳しい裁きにも服してきた人々は、“罪びと”に代表されているのです。

次に思いを致したいことは、そんな対極にある人々の過去と未来です。人間の常識は、前者の人々は過去もまた輝かしいものであり、後者の人々には、暗澹たる未来しか残されていないと、何のためらいもなく断じます。しかし、そうではない。ここにおける前者の人々の“過去”は暗いネガティヴな過去であり、後者の人々の”未来”とは、明るいポジティヴな未来なのです。人間には、たとえその人自身しか知らなくとも、現在の富と名声の陰に、できることなら抹殺してしまいたい、暗く悲しい過去の記憶があります。かくいう私にも(私が前者に属する人間だという意味では断じてありませんが)、思い起こすたびに悔恨の念に駆られ、「あれさえなかったら」と神に赦しを請う“負”の記憶があります。一方で、後者の人々は、決してそれで惨めな人生が終わるわけではない。パウロのように償いの実を結び、人々から愛され、尊敬され、神の栄光のために用いられる者に変わりうる未来が待っています。だから私たちは、今あるその人へのこの世の評価だけで、その人となりを判断してはならないということです。

本来、神がご自身のかたちに創られた人間には、一切の優劣も、差別もありませんでした。それをもたらしたのは、人間の己を人よりも高しとする自己中心の罪です。この罪をみ子イエス・キリストの身代わりの死と復活によって赦されたことの大いなる恵みの中でも、最大のものと言っても過言でないのは、私たちが、この罪にゆがめられた“差別”思想から解放されたということです。その恵みを無駄にしないためにも、私たちは残された生涯、人種も、身分も、学歴も、性も一切関わりなく、神に創られ、あがなわれた一人の“人間”であり続けたいと思います。そしてそのような人間同士として、愛し合い、よきものを分かち合い、共に歩んでいけたらどんなにいいかと思うのです。

 

Every

saint has a past and every sinner has a future.

-Oscar

Wilde