◆確実に平安を得られる二つの方法◆

(1) 人のことはほっときなさい
もしあなたが、“自分の目で”それを見たのでなかったら、
はたまた“自分の耳で”それを聞いたのでなかったら、
“自分の口で”人にそれを話すのはおよしなさい。

【解説】 この引用句には2つのウィット(機知)があります。1つは「人のことはほっときなさい」と訳したタイトルの言語Mind your own business。直訳すれば、「自分の仕事をちゃんとやりなさい」ということで、誰かに何か文句を言われたときに、「私が何をしようと、余計なお世話よ。口出ししないで!」という意味で使います。それがここでは、“自分自身に”戒めとして言っているのです。
 もう1つは、この訳でも引用符で強調しておきましたが、「目」「耳」「口」という人間の体の3つの器官をを使って、“ちゃんと自分で事実だと確認しない限り、人のうわさ話を安易に受け売りしてはいけない”と戒めていることです。
 これは、人間のモラルとしても当然ですが、キリスト者はさらに一歩“上”を目指さなければなりません。聖書には、「陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」(箴言18:7-8)とあり、その“おいしさ”には、信仰を持っていても、ついつい一口“食べたく”なりますが、結局それは誤解のもととなり、親しい友をさえ離れていかせる結果になります(同16:28)。当然ながら、「そのような人とは交わるな」と戒められ(同20:19、Ⅰテモテ5:12-13)、ひっきょう神の裁きに会う罪のリストの中にも記されているわけです(ローマ1:29b-32)。反対に、自分の舌を制する人は苦しみから自分を守ることができますが(同21:23、ヤコブ1:19,26)、その苦しみの最たるものは、人間関係の破れから“心の平安”を失うことではないでしょうか?
 「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」(箴言11:12-13)。”英知のある者”、”真実な心の人”とは、頭脳明晰の賢さではありません。“心の賢さ”です。真に賢い心は、自分の徳を高めることには向けられず、他者への優しさと思いやりに向けられます。人の英知と真実は、深いところで“愛”に根差しているからです。あのキリストのご生涯に表された愛に心が満たされているとき、人は、もはやたとえ自分の目と耳で事実と確かめても、自分の口から人に告げることはしません。“心の平安”は、人間関係が安らかであって、初めて得られるものだからです。

(2) 赦すことです
他の人を赦しなさい。
その人が赦すに値するからではなくて…
あなたが“平安でいる”ことに値するからです。

【解説】 復活されたイエス様は、弟子たちに向かって、「平安あれ」と3度も言われました(ヨハネ20:19,21,26)。他の時に言われた「強くあれ」でも「恐れるな」でも「しっかりしなさい」でもなかったのです。それは、この“平安”が、人間にとって、どんな場合にも、というより、周りに風がほえたけり、荒波が押し寄せる“嵐”の状況であればあるほど、何よりも大切な心のよりどころ、生きる支えになるからです。
 この平安は、この世の何ものによっても得られません。巨万の富を蓄えてもダメです。それは、2つのことによって、あなたのものになります。1つは人に対して“平和”であること。(「平安」と「平和」は、原語では共にpeaceピースです。)これは、人を赦すことによってしか得られません。もう1つは、神様との平和です。そのためには、あなたと神様とを隔てる“罪”が、大きなものも小さなものも、包まずに告白することによって、十字架のみ前に赦されていなければなりません。それによって、神様とあなたとの隔ての中垣が何一つ存在せず、いつもイエス様が、あなたと共にいてくださること。この2つが解決されて、人が何よりも必要な“平安”は、あなたのものになります。
 そのときには、人があなたにしたことなど、どうでもよくなります。なぜならあなたの目は、もはや人があなたに犯した過ちの大小にではなく、この世の何ものにも揺るがされない、主にある平安に注がれているからです。生ける主は、今、あなたに対しても「平安あれ」と言われます。それには「あなたは平安でいるに値するからだ」と言われる主の、声なき声が続いているのです――。