◆祈りについて心すべきこと二つ◆

(1) 祈りは ひそやかに

 

祈りの秘けつは、ひそかに祈ることです。

~レナード・レイヴンヒル~

 

【解説】 この短い原文は、一種の“言葉遊び”で、「秘けつ」「ひそかに」と訳した語はいずれもsecret。そのまま訳せば、「祈りのシークレットは、シークレットの祈り」となります。これを実行するには、もちろん現実に、静かな祈りの場所を確保して、そこで独りで祈ることも大切な要素ですが、ここではもう一つの霊的な真理は、祈っているときも、祈り終えたときも、その祈りの内容を“ひそかに”(秘密に=人に知られないように)しなければならないということです。これは、とりわけ“とりなしの祈り”において大切です。祈っている相手の人を慰め、励ますために、「祈ってますよ」と声をかけたり手紙に書いたりすることは、愛と思いやりの行為ですが、心しなければならないことは、自らの祈りを、“善行”として誇らないように気をつけること。この誘惑に負けたら、あのイエス様が厳しく戒められた、“偽善者の祈り”と同じになってしまいます。ある本に「人がとりなしの祈りに身が入らないのは、祈っていたことがかなっても、自分を誇ることができないからである。」とありました。私の内には、潜在的に、「私の祈りが聞かれたんだ」と誇りたくなる“偽善者”が潜んでいます。“ひそかな祈り”とは、この強力な己の自我と闘いつつ、主のみ前に魂を注ぎだして愛する人のために祈り、かなえられたら、ただその人のために心から喜び、主のみ名のみをあがめる者に変えられるための、大いなる主の訓練なのです。

 

(マタイ6:5,6)

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 

“The secret of praying is praying

in secret.”

—Leonard Ravenhill

 

(2) 言葉よりも、心で

私は、祈りのない言葉よりも、むしろ言葉のない祈りのほうを選ぶ。

~E.M. バウンズ~

 

【解説】 19世紀アメリカで、終生“祈り”と格闘したバウンズの、最終選択の言葉です。この”祈りのない言葉”というのは、まず第一に、イエス様が言われた“異邦人”の祈りです。これは、神様よりも“人に聞かせる”祈りで、人の心に印象づけるために、きれいな言葉を並べ立て、繰り返します。でもそこには、“言葉”はあっても真の“祈り”はありません。神様が聴かれるのは、独りのときも、共に祈るときも、ただご自身に向けて心を開き、魂を注ぎだして祈る祈りです。言葉はたどたどしくてもいい、いいえ、言葉にならなくてもいいのです。神様は、あなたの口に出した言葉は聞かなくとも、あなたの心の中の全ての思いをご存じなのですから。

このバウンズの深い洞察は、さらに霊の視野を広げて、私たちの人間関係にも適用することができます。私たちはしばしば、“言葉”によって相手の誤りを正し、自分の正しさを主張しようとします。その言っている言葉は、あるいは100パーセント正しいかもしれない。でもそこに真の相手への思いやりがなかったら、“祈り心”がなかったら、それは正しくはあっても、神様の“愛”の標準には、遠く達しません。人間関係における“祈り”とは、相手の人への“愛”と同義語です。そのことに思いを致したら、私たちには、時には一言も相手を責めることなく、まさに“ひそかに”その人のために祈ることも大切ではないでしょうか。その祈りをも、神様は確かに聴いておられるのですから――。

 

(マタイ6:7,8)

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

“I would rather have prayer without

words than words without prayer.”

—E. M. Bounds