◆愛は…すべてを耐え忍ぶ◆

完全な愛とは、完全な忍耐です。

 

【解説・証し】 この短い一文を読んだ時、2つのことを思いました。1つはあのⅠコリント13章、そしてもう1つは、またつたない証しになりますが、認知症の妻のことです。神様は、”弱さ”とはどういうものかを知らない私に、「弱さと共に住め」と、Ⅱコリント12:9のみ言葉と共に、妻を与えられました。これが神様の、私への結婚の召しでした。そしてこの3月で満48年を迎えますが、いわばこの結婚の“完成期”に、神様は、妻の弱さにこの病を加えることによって、この結婚への召しが終生変わらないことをお示しになりました。このところ気づかされているのは、この病の進行に段階があるように、それを受け止める側にも心の成長の段階があるのだということです。“ある”というより、“なければならない”のです。“認知症も個性だ”と受け止めて、精神的に楽になった話をこの間しましたが、それでも、電気の消し忘れ、ドアの閉め忘れ、タオルの出し忘れ、所持品のしまい場所忘れ…の“忘れもの”があるたびに、何度も言えば少しは気をつけるだろうと、その都度注意してきました。時にはつい「今言ったばかりでしょう!」と声を荒げました。そのうちに、最近は妻の言っている話のつじつまが合わなくなってきました。でも考えてみれば、記憶が断片的になり、それを組み合わせて話すのですから、論理的におかしくなるのは当然なのですが、人一倍“論理的”な私は、それが受け入れられませんでした。「どうしてそういうことになるの?」と、論理的に妻の誤りを分からせようとしました。でも、それは、“正しく”はあっても、”愛”には程遠い“さばき”の姿だと気づかされました。そこでまた神様の前に悔い改めて、妻の言動を「何でもあり!」「100パーセントOK!」で、全て在りのままで受け入れることにしました。それでこそ妻は、のびのびと“個性”を発揮できるというものです。この決心をしてからまだ数日ですが、妻が精神的に楽になっただろうことは、見ていて分かります。でも、これで本当に“救われた”のは、私のほうでした。そして今日のこの言葉に出会いました。「完全な愛とは、完全な忍耐です。」 私にとっては、続きがあります。「そして完全な忍耐とは、完全な受容なのです。」と――。 (最後に、私事を語るのが極めて苦手な私が、妻のことで、ここ数回にわたって証しをしたのには自分なりの理由があります。私は、自分自身が最もよく知る“愛欠症”の人間です。また同じような過ちを犯してしまうかもしれません。そんな私が、これらの証しをすることによって、「これで私のささやかな決心は、人の知るところとなり、もはや後へは引けないのだ」と、我と我が身を励ますためであり、私たち二人のためにお祈りいただくためです。お読みくださり、感謝します。)

 

(Ⅰコリント13:4-8) 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

(解説・聖書引用・訳 小川政弘)

 

✻´¯)"Perfect love is perfectly patient" ..;¸.*✻ღϠ₡ღ¸.✻´´¯`✻ღϠ₡ღ¸.✻´´¯`✻ღϠ₡ღ¸.✻