◆ローマも教会も一日にしてならず◆

私たちは、“救霊”は、教会員名簿により多くの名前を性急に加えていくことによって成し遂げられるとは考えていない。

 

”ローマは一日にして成らず”、地域教会も一週にしては成らないのだ。人は、誰もが福音を初めて聞いて、その全てを受け入れるわけではない。イエスのために魂に食い入ることは、薪(まき)を割るのにどこか似ている。そのために私たちは、くさびを使う必要があるが、その一端は極めて細身で小さくはあっても、打ち込まれるほどに、その裂け目は大きくなっていくのである。

 

新しい回心者は、教会の“血管”に、新鮮な血潮を流し込んでくれる。

 

【解説】 これは、出典の異なるスポルジョンの3つの救霊論文からの抜粋ですが、”救霊”の業の労苦と喜びを、“くさび”と”血管”という巧みな例えを使って、実に的確に描いていると思いませんか? そして編訳しながら私が改めて心を探られたのは、私たちは、最初の部分の、いたずらにクリスチャンを“粗製乱造”して、名簿に教会員数が増えていくことに満足するか、あるいは最後の部分のように、かつて新しい信仰者の救われた喜びの証しを涙して聴き、彼らが主のためにいきいきと奉仕する様を心から感謝した日の記憶をいつの間にか忘れているかの、どちらかではないのか、ということでした。“救霊”と教会員数の増加は、本質的に似て非なるもの、後者は前者からの結果であって、断じて教会の目指す目的ではないのです。また、日本の教会に今一番必要なのは、一人の魂が救われたときの群れを挙げての喜びを取り戻すことです。そのために何よりも大切なのは、忍耐を持って、今与えられている求道者の人たち、祈りに覚えている友や家族の心に、“み言葉”のくさびを、忍耐を持って打ち込み続けることではないでしょうか?

 

We do not consider soul winning to be accomplished by hurriedly inscribing more names upon our church-roll.

Rome was not built in a day, nor will a parish be saved in a week. Men do not always receive all the gospel the first time they hear it. To break hearts for Jesus is something like splitting wood: we need to work with wedges that are very small at one end, but increase in size as they are driven in.

The new converts put fresh blood into the veins of the church.