◆続・成熟のしるし◆

① よっぽど言いたかったんだけど…

 あなたは今まで、こんなことありませんでしたか?

 ある人に、自分が今どんな気持ちかを伝えるため、メールを打たねばと思う。それで打ち始めるが、途中で「これはいいことではない」と心に決めて、バックスペースで書いたことを全て消し、結局メールは出さなかったという経験。

 

【解説】 それでいいのです。「送る」ボタンを押してしまったら、メールは相手に届きます。それを受け取った相手の気持ちは考えず、ただその人のせいで自分がどんなに傷ついたかを知らせたくて送ったメール。しかも時には早とちりや誤解に基づいて…。でもひとたび相手に届いたら、それであなたの“裁き心”は満たされても、それを読んで受けた傷は、永遠にその人の心から消えることはありません。こんな経験のない人は、本当に成熟した人、私は無条件に尊敬します。なぜなら、私は何度もそういう経験があるからです。成熟には程遠い人間、時にはメールを打ちかけてもいいのです。でも…ぜひ途中でキーを打つ手を止めてください。そして一字一字打ち消して、決して送らないことです。

 “義”のしるしは「裁き」です。“愛”のしるしは「受容」です。そして“言わない”ことも、「受容」の一つのかたちなのです。

 

② “無口”も個性と思ってあげて

 人に「なんであんたって、そんなに無口なの?」と言われるのが、私は心底嫌いです。だって、それが私だから。私はそのように創られているんですから。

 私はあなたに、「なんであなた、そんなに かしましいの? なんでそんなにおしゃべりなのよ!」とは言いません。それは礼儀知らずというものですから。

【解説】 これを読んで、「あら私しょっちゅう言ってる!」と思われた方、3人ぐらいはいませんか? ちなみに「礼儀知らず」と訳した言語rudeルードには、まさに「未成熟」という意味もあります。

 徹頭徹尾自己中心にできている“罪の子”の私たちは、本能的に、自分と違うものに無意識のうちに”拒否反応”を起こしてしまいます。そしてその違いが、自分にはなく、ひそかにあこがれているもの、また自分より優れたものの場合は“嫉妬”に変わります。神様が限りなく私に寛容であられるように(そのおかげで私は生きている!)、私たちも、他者に寛容でありましょう。昨年妻が認知症になった時、「どうしてこんなに早く? どうしてこんな簡単なことが頭にとどまらないの?」と、最初の数か月は、焦り、怒り、妻にもつらく当たりました。でも、「あなたに故意に逆らってるんじゃありません。覚えていないんです」と言われた時、はっとして、悔い改めました。そして心にこう言い聞かせました。「認知症も“個性”なんだ」と――。とても心が楽になり、「この人と、これからも一緒に生きていこう」と心が定まりました。(私は、自分や身内のことを話すのが苦手で、これを書くのにも勇気が要りました。) そうです、おしゃべりも、無口も、神様がそのように創られた“個性”なのです。そのままに受け入れ、認め合えたら、ずいぶんラクに生きていけるのではないでしょうか。