◆ある”ヨハネ3:16”物語◆

何曲かの、いつもの日曜夕拝の賛美歌のあと、その教会の牧師は講壇に向かって歩き出しました。

その夜の説教を始める前に、彼は一人のゲスト聖職者を紹介しました。

牧師は会衆に、そのゲスト聖職者は、少年時代に最も仲の良い友達の一人だったと紹介しました。

牧師はその友人に、教会員にひとこと挨拶と、何かお話をしてほしいと頼みました。

それを受けて、その年配の紳士は講壇に上って、話し始めました。

「一人の父親と息子、そして息子の友達の三人が、太平洋岸からボートで漕ぎ出しました。」

強い嵐が吹き荒れ、岸に戻ろうといろいろやってもダメでした。

波がとても高かったので、ベテランの船乗りである父親も、ボートを平衡に保つことができませんでした。

ボートはひっくり返り、三人は海の中に投げ出されました。」

老聖職者は、会衆の中の2人の少年と視線が合った時、一瞬、ためらいました。

夕拝が始まってから初めて、彼らはどうなるのかと身を乗り出していたのです。

「救命ロープを握ると、父親は人生で最も痛みを伴う決断をしなければなりませんでした。

その命綱を、二人の少年のどちらに投げればいいのか?

とっさのうちにそれを決めなければなりません。

父親は、自分の息子はクリスチャンであることも、友達のほうはそうでないことも知っていました。

逆巻く波の激しさも、彼の決断の苦しみには比べるべくもありませんでした。

父親は、「息子よ、愛してるぞ!」と叫ぶと、命綱を友達めがけて放り投げました。

ほどなく父親は、息子の友達を引き寄せましたが、彼の息子は荒れ狂う波間に消えていきました。

彼の体は、二度と見つかることはありませんでした。」

その間(かん)、2人の少年は会衆席に背筋をまっすぐにして座り、話を聞いていました。

彼らはかたずをのんで、この年老いた聖職者の口から出る次の言葉を待ちました。

彼は、「父親は、イエス様が共にいる永遠の世界の中に、息子が踏み出したことを知っていました。」と続けました。

「彼は、息子の友達が、イエス様を知らないまま、永遠の滅びの中に入っていくことに耐えられなかったのです。

それで彼は、その友達を救うために、息子の命を犠牲にしたのです。

同じことを私たちになさった神の愛は、どんなに大きなものでしょうか?

私たちの天の父は、私たちが救われるために、ご自身の愛する独り子を、犠牲になさったのです。

私は、神様があなたを救おうという申し出を受け入れ、この集会であなたに投げ出しておられる命綱をつかまれることを強くお勧めします。」

こう話し終えると、彼は、会堂がシーンと静まり返る中、身を返してゲスト席に戻り、座りました。

牧師が再びゆっくりと講壇に歩き、短い説教をしたあと、終わりに、会衆に信仰の決心への招きをしました。

けれども、誰一人招きに応じる者はありませんでした。

夕拝が終わってほどなく、先程の2人の少年が、老聖職者のそばにやってきました。

「いいお話でした。」と少年の一人が言いました。

「でも僕には、すごく現実離れしてるように感じました。

なんでその父親は、その友達がクリスチャンになるという希望だけで、自分の子供の命を犠牲にしたんですか?」

「ああ、そこが大切なところだね。」老聖職者は、使い古した聖書にちらりと目をやりながら答えました。

そして、その小さな顔いっぱいに微笑みを広げながら、少年たちを見上げ、こう答えました。

「確かにこれは、すごく非現実的だね。

でも私は今日、この話が“神様もきっとこうだったのでは”と思わせてくれるということを話すために、ここにやってきたんだ。

神様が、この私のために、独り子を犠牲になさった時のお気持ちだよ。よくお聞き、

実は私がこの話の父親で、君たちの牧師先生は、私の息子の友達なんだよ。」

 

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