◆詩篇23篇に寄せて◆

「私は全てのものを持っていて、満ちあふれている。」

それは、私が銀行に多額の金を預けているからではなく、

日ごとの糧を得るための技術や才覚を身に着けているからでもない。

「主が私の牧者である」からなのだ。

 

【解説】 これは、詩篇23篇の中でも、冒頭の1節に寄せたものです。カッコにくくった部分を、倒置して読めば容易に分かりますね。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」(口語訳)

 そのうち冒頭のカッコの部分は、ピリピ人への手紙4:18をも踏まえています。

「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」(新改訳)

 またこの詩篇は、私たちの良き牧者、イエス様の言葉も思い起こさせますね。

(ヨハネ10:11) 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 ここで、“説教者のプリンス”と呼ばれたスポルジョンの目は、この1節の前後の関わりの大切さを見逃しません。「主は牧者であって、私は満ちあふれている。」―この前節、後節は、決して単なる並列ではなく、前者あっての後者であり、この前者は「主が牧者であるゆえに」という、後者の根拠を示しています。すなわち、私たちの満ちあふれて余りある一切の祝福の源を、「私の羊飼いであられる主」に置くべきことを、私たちに教えているのです。

 余談ですが、詩篇23篇には思い出があります。妻は十代の若い頃、病院伝道でイエス様に出会ったのですが、導いてくれた先生から詩篇23篇を教えてもらい、このみ言葉を口ずさんで、結核による肺切除の苦しみを耐えたといいます。結婚してからも、これは二人の愛唱詩篇となりました。やがて妻の母が、妻の導きによってイエス様を信じました。家庭礼拝では、もう80を過ぎた母に、一節一節繰り返して暗唱させ(“八十の手習い”ならぬ“聖句暗唱”は大変だったでしょうが!)、とうとう全節をそらで言えるようになりました。晩年は認知症になり、妻以外は、他の子供たちの顔も分からないほどでしたが、最期まで、詩篇23篇は口を突いて出たそうです。

   我がために命を捨てし君ゆえに 

         乏しきことの絶えてなかりき

   満ち足りて感謝のうちに今あるは 

         ただに主は我が牧者なりせば

 あなたも、詩篇23篇を、いま一度読み返してみませんか?