◆語れ 黙っているな◆

―語るのです―

 

「真実を語りたまえ

たとえ あなたの声が震えるとしても――。」

 

―黙っていないで―

 

いや! 私は、

それが起こるのを見た人が

口をつぐむさまに抱く恐れほどには、

悪を恐れたりはしない!

 

【解説】 今日は、サミュエルのシェアした記事2つが、同じテーマだったので、コラボしてみました。最初のは、家の壁に書かれた一種の落書きですが、なんという訴求力を持った言葉でしょう。私たちの声は、本当に震えるのです。とりわけ、真実を語りづらい状況の中で語るときは! 心の中で、「言おうか、言うまいか」と迷います。「これは言うべきだ。言わなきゃならない。」でも、それを語ったあとに起こることを考えたら、何度も「やめとこう」と思います。でも意を決して話し始めるとき、私の声はもう上ずり、どもり、震えるのを感じます。…でも、真理は語らなければならないのですね。

 2つ目は、“沈黙の罪”についてです。この罪は、決して刑法にも民法にも触れる心配はありません。懲役や罰金の心配もありません。でも、“神法”に触れるのです! 天の法廷の裁きの座にいますお方の前で、「見たこと、聞いたこと」について、正直に語らなかった“良心の不作為罪”に問われるのです。著者は、もちろん悪を恐れています。その仕掛け人であるサタンの怖さを知っていますから、私たちは誰でも悪を恐れます。それでも、この“真実に対して沈黙する”ことの恐ろしさに比べたら、物の数ではないというのです。なぜなら、その沈黙から、ありとあらゆる悪と腐敗が、国家大にまで蔓延していくからです。

 最後に、この「真実」と訳した言葉、truthトゥルースは、「真理」とも訳せますので、それに置き換えてみてください。それこそは、私たちが、時が良くても悪くても、語らなければならない「福音」です。聖書から、3つのみ言葉を引用して、同じような状況に直面しながら、殉教の死に至るまで“語り続けた”私たちの“生き方モデル”に聞いておきましょう。

① ペテロはイエス様の十字架刑の前に、三度も主を否定した臆病者でした。その彼が、復活の主に出会って全く変えられ、大祭司や民のリーダーたちの前で言い放った言葉です。

(使徒4:20) 「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

少し前の7節には、「ペテロは聖霊に満たされて」とあります。これが私たちの“語る力”の源です。

② 性的に乱れに乱れた退廃の町コリントで、さしものパウロも福音を語ることに恐れと無力感を感じていました。その彼に、ある夜、復活のイエス様が幻の中でこう語りかけました。

(使徒18:9,10) 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。」

私たちにも、祈りの中で、この主のみ声を聞くことが必要です。真実・真理を語るとき、私たちは決して独りではない。このお方が、どんな状況の中でも、あなたの“同伴者”なのです。

③ そのパウロが、同労者に絶えず言った言葉は、「私は主が一緒だから大丈夫」ではありませんでした。彼は事あるごとに、彼らにこの願い事をしたのです。

(エペソ 6:20) 「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

弱い私たちは、信仰の友のために祈り、自らも祈られて、“語る勇気”を与えていただきましょう。