◆神の厳しさの中に◆

 神の硬さ(厳しさ)は、人の柔らかさ(柔弱さ)よりも優しく、神の強制は、私たちの解放なのだ。

~C.S. ルイス~

 

【解説】 このルイスの言葉を読むと、かのマルティン・ルターの「キリスト者の自由」の命題を思い出します。

《第一の命題》 キリスト者は全ての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも従属していない。

《第二の命題》 キリスト者は全ての者に奉仕する僕であって、誰にも従属している。

 ここで、信仰によって全く自由にされた者は、およそ人間関係のあらゆるしがらみから解放されているゆえに、誰の主人にも、奴隷にもなれるのですが、そこには一切の”支配・被支配“関係はありません。全ては自らの自由意志によるからです。そしてその自由は、徹底的に自らを神の支配のもとに差し出すところからのみ生まれます。天下広しといえども、私たちがただ一人100パーセントの従順をもって仕えるお方は神様のみです。この神の懐で、私たちは、このお方のみが与えうる魂の“自由”を体験します。これはパウロがが発見した大いなる信仰の逆説です。そのときに、「神の厳しさ」「神の強制」は、人間の与えるいかなるものよりも優しく、快いもになっているのです。

 それでは、このルターの二つの命題を結ぶカギは、何でしょうか? 私の理解によれば、それは“愛”、キリストの十字架に表された神の愛です。

 

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、

愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)

 

 "愛”だけが、人を“自由な仕え人”にするのです。

 

“The hardness of God is kinder than

the softness of man, and His compulsion is our liberation.”

—C. S. Lewis