◆”赦し”に関する大事な2章◆

💓第1章 ~愛と赦し~

赦しのない愛などというものはないし、

愛のないところに赦しもまたないのです。

~ブライアント・H・マッギル~

 

【解説】 “赦しのない愛”があるとすれば、それは見せかけの愛、寛大さを装った愛、上から目線の愛です。そのほほえみの背後には、氷のように冷たい“赦さない心”があるのです。

また愛がなければ、決して心から人を赦すことはできません。ある人が言いました。「あなたを赦すわ。でもあなたのしたことは一生忘れないから」。これは、立場上強いられた赦し、相手をひそかに憎んだままの赦し、時には赦したことを後悔さえする偽りの赦しです。

”赦す”とは、“愛する”ということのコア(核心)を成す行為で、強い意志による決断を伴います。言葉や口先の世界では軽々に使えない言葉なのです。

“赦す”ことは、己の自我が打ち砕かれたときに、初めて可能になります。キリストのようにへりくだることが喜びになり、そこではもはや、相手を赦す言葉は、自分の非を進んで告白し、相手の赦しを請う言葉になります。そのとき初めて、あのイエス様の十字架の愛は、あなたのうちに確かに“受肉”したのです。

 

There is no love without forgiveness, and there is no forgiveness without love.

~Bryant H. McGill~...

 

💓第2章 ~赦しと平安~

“赦す”ことは、必ずしもたやすいことではありません。時として、自分に傷を与えた人を赦すことは、自分が苦しんだ傷そのものよりも、より痛みを感じるものです。それでもなお、“赦し”のないところに“平安”はないのです。

~マリアン・ウィリアムソン~

 

【解説】 ”赦す”ことは、相手から受けた傷を忘れることです。その傷は、時に相手の言葉によって、態度によって、あるいは行為によって負いますが、この順番で深くなるとは限りません。場合によっては、相手の何気なく語ったひと言が、立ち上がれないほどの痛みとなって心に突き刺さることもあります。そんなとき、心の中は煮えくり返るようで、とても赦す気にはなれません。ある意味、”赦す”ことの大変さに比べたら、相手から受けた傷の痛みに耐えているほうが楽であり、むしろ快さを感じることさえあります。それは、そんな自分が、けなげで、いとおしいからです。「あの人のせいで、私はこんなに苦しんでいるのだ」という自己愛で固められた自我を、そっと撫でてあげていればいいのですから。この“赦す苦しみ”とは、“自我を砕かなければならない苦しみ”です。信仰の世界で、これほど苦しいことはありません。これほどエネルギーを要する神の訓練はありません。これを、自分の肉の力でやろうと思ったら、地獄です。このときこそ、キリストのみ霊のご介入が必要なのです。あなたのすることは、このお方の前に、ありのままの醜い姿を全てさらけ出して、「主よ、私のかたくなな心を砕いてください。愛のない私を赦してください。十字架の上で、「父よ、彼らを赦してください」と祈られた、あなたの愛を注いでください」と祈る他ありません。あとのことは、神の領域です。人をつくり変えるのは、神様の主権のみ業なのです。そして、そのお力によって、相手の人を赦せたときの“心の平安”こそ、他の何ものにも代えがたい“スピリチュアルギフト”(霊のたまもの)と言えるでしょう。

 

 最後に、当たり前のことですが、第1章があって、この第2章があります。赦しは己に死んで初めて可能になります。そして己に死ぬ苦しみのあとに、全き平安が訪れます。この平安を、どんなことがあっても失ってはなりません。なぜなら、あらゆる信仰生活の祝福は、そこに始まり、そこに終わるからです。

 

Forgiveness is not always easy. At times, it feels more painful than the wound we suffered, to forgive the one that inflicted it. And yet, there is no peace without forgiveness.

~Marianne Williamson~