◆争い: 大いなる自己矛盾◆

“争う羊”なるものは、理解しがたい生き物である。

同様に、“争うキリスト者”なるものは、誰の目にも自明な“矛盾”である。

 

【解説】 スポルジョンの“争う羊”の例えは、言い得て妙です。羊は、あらゆる動物の中で、最も“争い”とは無縁の生き物と言われていますので。私たちクリスチャンも、本来、イエス様の十字架を仰いで救われた瞬間から、この“争い”とは最も無縁の存在にされた者でした。けれども現実には、多くの争いがあります。教会の中に、教団・教派の中に、そして歴史は、“争い”が“戦い”になり(原文のfightはいずれにも訳せます)、信仰の名のもとに多くの血を流した事実を示しています。そんなとき、私たちは争うことによって、“平和の君”なるイエス様を、この身をもって証しすべきこの世の人々に、言葉以上の雄弁さでこう叫んでいるのです。「このとおり、私は矛盾した存在です。こうして人と争って、主イエスが私のために流してくださった貴い血潮を無益にしている者です。どうぞ、決してクリスチャンにはならないでください」と! 

あらゆる「争い」は、私たちの中の“肉”が、己の正しさを相手に認めさせようとしてなせる業です。柔和なキリストのみ霊が、私の魂の深いところを支配していないのです。完全に明け渡していないのです。そして、み言葉の権威への服従が、不徹底なのです。聖書は、始めから終わりまで、“神との平和、人との平和“を説いています。今、静まって、その中から、次のみ言葉を読み、み前に祈りの時を持ちませんか?――

(マタイ 5:9) 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

(エペソ 2:14-16) 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

(Ⅱテモテ 2:24,25) 「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。」

(ローマ 12:18) 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」