◆待つを知る人の幸い◆

祈りつつ、決して忍耐を失わず、

“待つ”ことを学ぶ人は幸いです。

神様の“時”は、“完璧な時”だからです。

 

【解説】 今、神様のお答えをじっと忍耐して待っている人がいますか? 私は、あることをみ心と信じて、2年間待ち続けています。今日の言葉は、現代の「山上の垂訓」のようですね。現代は、”待てない時代”です。誰もが、すぐに結果を出したがる。そのために、それがダメならこれ、これもダメならあれ、とばかりに、すぐに方法を変え、あたかも神の定められた時を、自分の力で早めようとしているかのよう。そうすればするだけ、“神の時”は遠ざかっていることも知らずに――。

待つのです。でも、待つ期間が長ければいいというものでもありません。一つは“祈りつつ待つ”。その間を、いかに執拗にサタンが試みることでしょう。「いや、そんなに待ってもかなえられないのは、それが神のみ心ではないという何よりの証拠だ。待っても無駄。いい加減に諦めよ。せいせいするから」と。私も、何度となくこの誘惑のささやきを聴きました。そのたびに主を仰いて祈りました。そうです、このサタンの声に打ち勝つには、理屈ではなく、祈るしかありません。“祈りつつ待つ”ことは、深いところで“信じて待つ”ということと同義語なのです。

もう一つは“忍耐を失わずに待つ”。私はもう半世紀を超えた自らの信仰生活の中で、今ほど忍耐を試されている時はありません。そして今ほど、自分に忍耐力がないということを知らされた時も――。(「私はけっこう忍耐強い」と思っている方がいたら、よほどの自信過剰か、まだそのような本当に忍耐を試される事態に出会っていないかです。サタンに足元をすくわれないよう、せいぜい用心なさることです。)そのようなときは、神様の前に丸裸になって、「神様、もうダメです。限界です。あなたの忍耐を、あと少しの忍耐を、どうぞ私に与えてください」と神様のあわれみにすがりつつ、なおも待つよりほかにありません。

 私はそうやって、今も神様の、“完璧な時”を待っています。それは決して早すぎることもなく、決して遅すぎることもありません。永遠の昔から、あなたのために定めておられる神様の“最善の時”は、まさに、正確無比、寸分もたがわずに訪れます。その時が来たら、私は静かに、神のなさることの“時にかなった美しさ”に感嘆し、感謝し、み名をあがめることでしょう(伝道者の書3:11)。終わりに、私がこの数か月、日夜唱えているみ言葉を掲げておきます。

 

(ヘブル 10:36) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

Happy is the person who learns to wait as he prays and never loses his patience, for God’s time is the perfect time.