◆感覚化された信仰◆

“生きた信仰”とは、神様に対する疑うことのない信念、信頼、そして依り頼みです。

“信仰”は、私たちのどの感覚とも同じように、現実のものとなりうるのです。

~キャスリン・カールマン~

 

【解説】 私たちには、視覚、聴覚、味覚、…いわゆる五感と言われるさまざまな感覚が、生まれつき備わっています(不幸にしてその一部が欠けていたり、不十分な方々もいますが、その方々には、それを補うため、ある感覚が特別に発達したり、常人にはない別の感覚が与えられたりします)。それは、様々な出来事に、真っ先に反応します。その感覚が、本能的なもの、私たちの体と人格の一部だからです。ある人が、ケガをして自分の足から血が出ているのを見て、「あれ、血が出てるな。これは止めなきゃ」と考えて傷を消毒して包帯を巻き、ややあってから「痛い!」と飛び上がる…などということはあり得ないのです。

著者は、“信仰”もそれと同じくらいにリアルなものだと言っていますが、現実にはどうでしょうか? 何か不測の事態が起こると、「どうしようどうしよう」と慌てふためく。ああでもない、こうでもないと対策を考え、挙げ句の果てに、「ダメだ、このままじゃ大変なことになる!」と切羽詰まってから、やっと「もう神に頼るしかない」と、最後の最後に神様にすがる、などということがないでしょうか? 私たちの信仰を、他の感覚と同じように、研ぎ澄まさなければなりません。“信仰”は人間本来のものではないので、そのためにはたゆまない訓練によって、鍛えなければならないのです。それは、呼吸のような祈りと、日頃のみ言葉の蓄えによって、いつどこでも、神様を、イエス・キリストという生ける人格において、身近に感じるようにすることです。そのときに、日常のごく小さなことから、思わず目の前が真っ暗になるような大きなことに至るまで、それに直面した瞬間に、「神様!」「イエス様!」という祈りができます。そしてすぐ、自分がどうしようかと考えるより先に、「主よ、これをどうすべきですか? あなたならどうなさいますか?」とみ心を求めます。そして、その問題が解決されるまで、たとえそれがどんなに長引こうとも、終始、「主よ、あなたに信頼します。あなたに依り頼みます。あなたは絶対に、最善以下のことをなさいません」と、信じ切り、全てをお任せし、内なる主のみ霊の促されるままに、信仰の決断と、行動をとるのです。

それが“生きた信仰”です。まるで自分自身の生来の感覚のように、即 働く信仰です。この“感覚化”した信仰こそ、神様が、私たち一人一人に求めておられるものです。私はこの生ける信仰の感覚を、“信覚”と呼びます。そして、今日も、この信覚を研ぎ澄ませるため、主を仰いでいます。あなたはいかがですか?

 

"Active faith is unquestioning belief, trust, and reliance upon

God...faith can become as real as any of our senses.”

—Kathryn Kuhlman