◆与えることの意味◆

私は分かったのです。

 

私が与えるのは、

いっぱい持っているからではなくて、

なんにもないときに、どんな気持ちがするか、

よく知っているからだということを――。

 

【解説】 これを書いた人は、“人に与える”ということの、本当の意味を知ったようです。だからきっと、その祝福も、相手の人と心から分かち合えることでしょう。自分が何も持たなかったときに、どんなに困ったか、心細い思いがしたかを身をもって知っている人は、その人をあの時の自分だと思って、躊躇なく助けの手を差し伸べることができます。そして、心がその人と同じ”低さ”にあるから、まるで自分がそれを受けたかのように、共に喜んであげられるのです。

 「これは捨てるほどあるから(要らないから)、あげよう」「困ってるなら、助けてあげよう」「今、貸しをつくっておけば、いつか何かで返ってくるだろう」――これらは全て、“富者の論理”、“勝者の論理”、“打算の論理”であり、その視点は、紛れもなく“上から目線”です。それは、私たちの主イエス・キリストが十字架で完結されるまで、あの“与える生涯”を貫かれた唯一の動機、“あわれみの心”とは似て非なるもの、全く異質のものです。あわれみなき施しは、その寛大さを自ら誇る“傲慢”の裏返しにすぎないのです。

 私は、霊的な知恵も、持ち物も、まして金銭も、誠にわずかしか持ち合わせのない者ですが、それがたとえどんなに小さくても、あるいはお恵みによってどんなに豊かに与えられる日が来ても、この著者の気持ちを決して失うまいと、心に誓っています。これはある意味、自分が他者と共に生きる人生の、“奥義”だからです。