◆間違えて 初めて知れる 人となり◆

人の“清廉さ”をはかり知る何よりのテストは、

その人が何かで“自分は間違っていた”と気づいたときに、

どんな態度をとるかを見ることです。

 

【解説】 “清廉さ”と訳した原語、integrityインテグリティーは、これまでにも何度かご紹介した、私の最も好きな言葉の一つです。この訳語の他にも、「正直さ、高潔さ、誠実さ」とも訳せます。この優れて道徳的、人格的な資質は、必ずしもその人のポジティブ(積極的・肯定的)な状況の中で発揮されるとは限りません。いえむしろ、その人の人生のネガティブ(消極的・否定的)な状態、窮地に立たされたり、たとえ自分のせいではないにしても、過ちを犯してしまったときに、どういう態度をとるかで、まるで“泥沼のハス”のように美しくも表れるというのです。

ビリー・グラハム博士の、日本伝道会での説教の一節を思い出します。いわく、「罪ある人間が最後まで言いたくない言葉は、短い3語です。それは、I am

wrong “私が悪い”という言葉です」と。神を恐れぬ文化の中で、他者の評価のみをバロメーターにして生きる人間には、ある意味当然のことかもしれません。政治の世界でも、昨今の国会答弁を聞いていると、矢面に立つ政治家は、押しなべて“口が裂けてもこの言葉は言うまい”と己に誓っているかのようですね。でもそこには、“清廉”の香りは、かぐべくもありません。

私たちが本当に信頼を寄せ、“この人なら信頼できる。この人になら、どこまでもついていきたい“と思えるのは、自分の長所・利点を正面にかざして、積極的にリーダーシップを示そうとする人よりも、“自分は間違っていた”と気づいたら、相手が部下であろうが自分の子どもであろうが、「私が悪かった」と、素直に、心から頭を下げられる人ではないでしょうか? その人は、真に神を畏れて生きる人です。そして“赦される喜び”を知っている人です。なぜなら、神様の恵みは、“自分は正しい”とする人の上には、決して及ぶことはないからです。人の“清廉さ”は、罪の増し加わったところにこそ輝くことを、ゆめ忘れることがありませんように。なぜなら、その清廉さは、あのみ子の十字架のあがないによって、それを最後まで阻む自己中心性を打ち砕かれた者のみに、上から与えられる“恵みの品性”だからです。その悔いくずおれたひざ元にこそ、神の恵みは満ちあふれるのです。

 

(ローマ 5:20) 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 

There is no better test of a

person’s integrity than their behavior after they realize they were wrong about

something.