◆見よ、この”あわれみ”のみ手を◆

私たちは、このパウロの証言に、心から共鳴します。

【Ⅰテモテ1:16】 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

全ての人に、“あわれみ”が必要です。全ての人が、“失敗者”であるからです。私たちが共通して抱えている“不完全さ”は、あわれみが、誰の将来にとっても必要であることを意味しています。あわれみは、要求できるものではなく、己が手で勝ち取れるものでもありません。

 

あわれみはまた、あなたに負うているものでもありません。それは、最もそれに値しない(least)のに、最もそれを必要としている(most)者に、最も豊かに(best)に与えられるのです。

【テトス3:5】 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、…私たちを救ってくださいました。

 

【解説】はい、この原文にも、上記の括弧で示したように、…stで終わる3つの韻が施されています。それにしても、この”あわれみのみ手”の絵は印象的ですね。昔、教えられ言葉を思い出しました。「私たちが助けを求めて主の手を握るなら、すぐに疲れて放してしまうが、主が握ってくださるから、私たちは安心なのだ」と。

 

We can readily identify with Paul’s testimony, “I’m someone who could never have made it apart from sheer mercy. And now he shows me off – evidence of his endless patience to those who are right on the edge of trusting him forever.” 1 Timothy 1:16 . Everyone needs mercy because everyone fails. Our common imperfections mean that mercy is important to anyone’s future. Mercy cannot be demanded, nor can it be earned.

 

Mercy is not owed to you; mercy is needed most and given best when deserved the least. “Not by works of righteousness which we have done, but according to His mercy He saved us.” Titus 3:5