◆誇る者は主を誇れ◆

私は、“自分の弱さ”を高らかに触れ回るために、召されたのではありません。

私が召されたのは、“主の強さ(力)”を宣言するためです。

 

~ボブ・ソージ~

 

【解説】 これこそは、キリスト者が持つべき、まことの矜持です。現実には、しばしば、「自分は弱い者です。何もできません」と、さも謙遜に、そして内心“誇らしげ”に、語る人がいます。そして、この身を愛し、ご自身の命をさえ捨ててくださったお方のために、何ひとつ犠牲を払おうとしません。ある人はそれを、クリスチャンの“謙遜傲慢”と呼びました。そのような福音理解は、明らかに“ゆがんで”います。私たちは、「私は弱いゆえに強い。主が強いゆえに、この私も強くしていただけるのです。」と、機会あるごとに証ししなければなりません。そのために私たちは主に召されたのです。主を誇るために、主のみ名のみがあがめられるために――。そして、この生き方を可能にする唯一の道が“祈り”であることを、どうぞ忘れないでください。

 

(Ⅱコリント 12:9,10)

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 

“I’m not called to go around

declaring my weakness, but His strength.”

—Bob Sorge